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3-8.

ヘッドボードに背を預け、ぬいぐるみを抱いたままぼんやりと宙を見ているカイは、一見、ただ放心しているようにしか見えなかった。 瀬戸は小さく息を吐きながら、そんなカイの目前で手のひらを上下に揺らす。反応は、ない。 ――"入って"しまわれたようだ。 独りごちるように呟いた後、瀬戸は改めて静かに声をかけた。 「坊ちゃま、下げてもよろしいですか」   やはり返事はない。 瀬戸はもう一度小さく息を吐き、その肩にそっと手を置く。 「坊ちゃま、深呼吸を。……そうです、ゆっくり」 その声に合わせるように、カイの胸がわずかに上下する。だが、意識はまだ遠く戻る様子もない。 それ以上は追わず、瀬戸は静かにトレイを下げた。 廊下に出てしばらく歩いたところで、不意に名前を呼ばれて振り返る。…そこにいたのは、誉だった。 会議の帰りなのだろう、珍しくノートパソコンを抱えている。 「……櫂くんは、どうですか?」 そう言いながらも、瀬戸の手に持たれたトレイに視線を落とし、誉はわずかに眉を寄せた。 ――この方には、隠しても無駄ですね。   瀬戸は一瞬だけ悩んだが、そう思い直して正直に答えだ。 「概ね落ち着いておりますが……ご覧の通り、お食事が進みません。 本日は、午後からずっと深く考えていらして、何を申し上げても、殆ど反応がございません」 「そう、ですか……」 誉は頷き、指先で顎に触れた。 「過集中も、長引くと心配ですね」 「ええ。 我々が思う以上に、お疲れになりますから」 誉はもう一度頷くと、白衣のポケットを探った。 使い込まれた手帳を取り出し、ページを開いて万年筆を走らせる。 そして、さらさらと短く何かを書き込み、そのページをそっと切り取った。 それを丁寧に折り畳み、瀬戸へと差し出す。 「……渡していただけますか」   瀬戸は何も言わず、ただ頷いて受け取った。   紙からその手を離す一瞬、誉はほんの少しだけ寂しげに微笑む。けれども、次の瞬間にはいつもの穏やかな表情に戻り、軽く頭を下げて踵を返した。 独り部屋に残されたカイは、瀬戸が出て行ったことに気づくこともなく、ぐるぐると思考を巡らせていた。 ――本当に、誉を愛しているのか。 そんな兄の声が、何度も頭の中で繰り返される。 誉のことが好きだ。大好きだ。 それは、わかる。間違いない。 愛してると、好きは、何がちがう? ――分からない。 考えれば考えるほど、輪郭がぼやけていく。   誉は優しい。 だから、どんな感情でも受け止めてくれる。   ――兄は、そう言った。 じゃあ、いつもくれる「愛してる」も。 自分に合わせてくれているだけだったとしたら……。 カイの胸の奥が、ずきっと痛む。 そんなこと、考えたくない。 でも、否定もできない。 誉と一緒にいたい。 それだけははっきりしている。 それなのに、その気持ちの名前が分からない。 愛なのか、好意なのか、ただの執着なのか。 ――わからない。怖い。 カイは、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。 ……誉に、会いたい。 そう思ったが、すぐに首を振った。 誉はきっと、否定も肯定もしない。 受け入れるだけだ。 ――それでは、意味がない。 思考は出口を失ったまま、同じところをぐるぐると回り続ける。 しばらくして。 瀬戸は執務室に戻ったが、カイの様子は一つも変わっていなかった。 抱えていた数冊の本のうち、"いつもの"一つをベッドテーブルに表紙が見えるように置いた。 その派手な色合いの表紙が、過集中から抜けかけた瞬間、自然と目に入る位置だった。 それから瀬戸はカイの呼吸が相変わらず極端に少ないことを確認し、ヘッドボードと背中の間に手を差し入れた。   「深呼吸です、坊ちゃま」 そう言って、吸うタイミングで上に、吐くタイミングで下に、背中をゆっくり撫で始める。 三度ほど繰り返すと、カイの胸がまた少しだけ動いた。刹那、ふっと緊張が途切れたカイの視線が、テーブルの上の本へと落ちた。   そのタイミングで、瀬戸が声をかける。 「少し、息抜きをされてはいかがですか」 返事はなかったが、カイはしばらくその表紙をぼんやりと見ていた。 その色彩だけが、やけに鮮やかに目に入る。   その指先が、わずかに動いた。 気がつけば、膝の上のぬいぐるみを片腕で抱えたまま、もう片方の手で本を引き寄せていた。 次に、ぱら、とページをめくる。 文字が殆どなく、鮮やかに彩られたその絵だけを、追うように見る。   柔らかい色。 単純な線。 カイは幼い頃から何度もそれを見て来た。 駆け引きなく、まっすぐに美しいそれは、カイに安心感を与えてくれる。 胸の奥のざわつきがほんの少しだけ緩むのを感じながらもう一枚ページをめくろうとして、違和感に気がついた。 よく見ると、紙が二重になっている。 何だろう、と首を傾げながら確認すると、折り畳まれた小さな紙片が、ページの間に挟まっていた。 カイはしばらくそれを見つめたまま動かなかったが、やがて本を膝に置き、折り目をゆっくり開いた。 『愛してるよ』   すぐに飛び込んできたそのひと言と、その下にゆるい線で描かれた小さなうさぎ。 端正な文字とは対照的に、バランスが崩れていて、耳も左右で長さが違っている。 ……へたくそ。 そう思った途端、視界が滲んだ。 「……っ」  声にならない息が漏れた。   ぬいぐるみを抱く腕に力が入る。 紙に触れる指先が、震えた。   ……なんで。 なんで、こんな風にまっすぐ言葉をくれる人を、オレは疑ってしまったのだろう。 もし、自分の感情が愛じゃなかったら。 もし、誉がそれに合わせてくれているだけだったら。 ――そんなことばっかり、考えて……。 涙が、一粒落ちた。 それをきっかけに、次から次へと溢れて止まらない。 「……っ、へたくそ……」 掠れた声でそう言った途端、完全に感情の堰が切れた。   「こんな……うさちゃん、こんな顔じゃないし……っ」 自分でも何を言っているのか分からない。 ただ、苦しくて、申し訳なくて、……怖くて。 頭の中がぐちゃぐちゃになって、カイは顎を上げ、まるで子供みたいに大きな声を上げ、泣いた。 瀬戸は、そんなカイをただ静かに見つめていた。 ようやく外に出たのだ。 ――その心の内に溜め込んでいたものが。 安堵にも似た息をひとつ吐き、院長室へと繋がる内扉へ向かう。そして、それをそっと開いた。 その瞬間、 「櫂?……おい、どうした!?」 驚いた声とともに、航がほとんど飛び込むように入ってきた。 瀬戸は航に一礼すると、静かに一歩退く。 カイの方へ向けた視線に、航もすぐに状況を察した。瀬戸に短く頷き返し、迷いなく弟のもとへ歩み寄る。 そのままベッド脇へと腰を下ろし、ただ、丸まった背にそっと手を置き、ゆっくりと撫でてやる。 カイはぬいぐるみを胸に押しつけたまま、声を上げて泣き続けていた。 乱れた呼吸と、時折しゃくり上げる音が部屋に響く。航は何も言わずに、その背中をゆっくり一定のリズムで撫で続けた。 ふと、カイの膝に置かれた絵本と、その上に置かれた紙片に気づく。ちらりと見えたその内容で、おおよそ察しがついた。 ――あいつ。 まったく、いつもタイミングが良すぎるな。 そう思ったが、何も言わずにカイへと視線を戻すと、変わらぬ調子でまた背中を撫でてやった。   カイの泣き声が、なかなか止まない。 しゃくり上げるたびに身体を震わせて、腕の中のぬいぐるみを強く抱き込む。 航はその背を撫でてやりながらも、その胸から小さな喘鳴音が出始めたので、わずかに眉を寄せた。 どうにか落ち着かせる方法はないものか……。 航が考えあぐねた、その時。 背後からそっと肩を叩かれて振り返る。 ――瀬戸だった。 彼は、航の耳元へほんの少しだけ身を寄せて、落ち着いた口調で言う。 「……人恋しくてらっしゃるのでしょう」 航は一瞬だけ目を大きく見開き、瞬いた。 それから「あぁ」と呟くように返し、息を吐く。 腑に落ちた気はしたが、そこからどうしたらいいのかが、分からない。正解が思い浮かばない。   ――こんな風に人恋しくてたまらない時、俺はどうしていただろう。 そもそも、そんなことがあっただろうか。   航は思案する。 自分の周りには、いつも誰かがいた。 一人きりになったことなんて殆ど――いや。 ――いや、あったな。 そして、目を伏せる。   脳裏に浮かんだのは、いつもそばにいた瀬戸がカイ専任になり、初めて一人で迎えた夜のことだった。 一人ベッドの中で、静かすぎる部屋を見回しながら、自分が何を思ったのか――もう、はっきりとは思い出せない。 ――航は、ぎごちなくカイの肩へと腕を回した。 抱きしめる、というほど強くはない。それでも受け入れようとする、不器用な仕草だった。 その瞬間だった。 カイは抱いていたぬいぐるみをぽとりと落とし、迷いなく航の腕に縋る。 少し身体を引くだけで、航の胸へ顔を埋めてきた。 ぎゅっと服を掴むその指に、力がこもる。  航は慣れない手つきのまま、それを受け入れた。 胸元に、弟の体温がじんわりと伝わってくる。 やがて泣き声は収まり、しゃくり上げる音だけが残った。その呼吸も、少しずつ落ち着いていく。 代わりに、胸へ預けられる重みが増してきた。 「ん……」   カイが重たげに頭を持ち上げる。 だがまたすぐにカクンと落ちて、また持ち上げてを何度も繰り返した。 泣きつかれたのだろう、瞼が半分落ちかけている。 それでも必死に目を擦って眠気に抗うカイの様子を見て、航がようやく口を開いた。 「今夜はもう、休め」 するとカイは、いやいやと首を横に振る。 「お前は、また……」 そう言いかけて、航は口を噤んだ。 そして、 「どうして嫌なんだ?眠いんだろう」  と、問いかける。 カイは黙ったまま俯いた。 その間にもう一度目をこすって、今度は大きな欠伸までした。 「……わかった。 寝なくてもいいから、一旦横になろう」 だから航はそう言って、その体を横になるよう促す。離れる間際、カイは航に両手でしがみついて、またイヤイヤと首を横に振った。 「……」 半分呆れ顔の航がチラリと瀬戸を見る。すると瀬戸は、もう一度先ほどと同じことを言った。 「――人恋しくてらっしゃるのでしょう」 航は頭をグシャグシャとかきながら、「わかった、わかったよ」と呟く。 そして、やや強引にカイの手を振り解いた。 カイはすぐに手を伸ばしてそれを追う。 「やだ、いっしょ……」 「上着を脱ぐだけだ、待ってろ」 航はその手を制して、背広を脱ぎ、ネクタイを外す。そして、それらを瀬戸に渡すと、革靴も脱いでベッドへと上がった。 横になる前に、カイがすぐに胸に飛び込んでくる。 そして「もう離さない」とばかりに、さっきよりもずっと強い力で航にシャツを掴んできた。 航はそのまま、カイの横に添い寝をした。 ――意識して距離を取るつもりだったのに、カイの方が早かった。 航が横になった瞬間、カイは巧みに胸元にするりと潜り込んだ。兄の胸に顔を押し付け、服を握ったまま、ほっとしたように息を吐く。 航は一瞬固まったが、結局は何も言わず、その背に手を置いた。 ――誉とも、いつもこんな感じなのか。 ふと、そんなことを思う。 一方、カイは慣れた様子で、航にぴたりとくっつく。さっきまであれだけ泣いていたのに、腕の中の呼吸はもう穏やかになりつつあった。   ……これは、勝てないな。 苦笑が漏れそうになり、航は視線を天井へ逃がす。 瀬戸が、静かに近づいてきていた。 「おやすみなさいませ」 そして落ち着いた声でそれだけ言うと、室内灯を落とした。後には、柔らかな間接照明だけが残る。   航は小さく息を吐く。 胸のあたりが、ポカポカと温かい。 そんな弟の背中を一定速で撫でていると、次第に引っ張られるように、自分の瞼も少しずつ重くなってきた。 ……今日は、長かったな。 ぼんやりそう思いながら、腕の中の弟を見下ろす。 もう、すっかり眠っていた。 だが、時折わずかに指が動き、航のシャツを掴み直す。 離してくれるつもりは、ないらしい。 それを振り払うこともせず、航はカイの顔を見つめながら、その規則正しい寝息を聞いていた。 やがて――。 瀬戸は、揃って眠りについた兄弟に、そっと布団をかけてやる。それから、床に落ちていたぬいぐるみを拾い上げて、カイの枕元へそっと置いた。 そして、そっくりな寝顔で同じように寝息を立てる兄弟を見て目を細めた後、 「……お二人とも、立派になられましたね」 と、口元を緩めて囁いて、そっと部屋を後にした。

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