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3-13.
カイは目星をつけた本のうち数冊を、閲覧エリアで確認する。
その横に腰を下ろし、航はぼんやりとカイがページをめくる姿を見守った。
――いつもより、かなり読むスピードが遅いな……。
ふとそんなことを思うが、ただ待っているのも暇なので、航も一冊だけ拝借して目を通して見ることにした。
カイは視線を滑らせながら、まずは一段落目を通してみる。
――ちゃんと、読める。
単語の意味も分かるし、文脈も追える。
まず最初に、そのことに安堵する。
この本の内容は、難しくない。
専門書としては、むしろ入門に近い部類だ。
医学生の頃、勉強した内容とも多くが被る。
そこでカイは、ふと眉を寄せた。
普段なら、章の導入まで読めば頭の中に模式図が立ち上がる。
そこから関連する論文や、症例、過去の議論がシナプスのように自然に繋がり、一本の線になる。
そうやって枝を増やしながら、理解を深めて行く。
――だが、今はそれが起きない。
基礎的な知識はある。
本の内容も理解はしている。
でも、ただ、それだけ。
うまくそれ以上が、組み上がらない。
カイはもう一度、同じ行に視線を落とした。
そして、ゆっくり読み直す。
――やっぱり、読めてはいる。
書いてあることの意味も分かる。
ただ、やっぱりそこから先に進まない。
カイは、小さく息を吐いた。
「……おかしいな」
独り言のように呟く。
睡眠不足か、疲労か。
いくつか可能性を頭の中で並べてみるが、どれもしっくり来ない。
もう一度、ページをめくる。
わずかに文字列が滲み、揺れて見えた。
瞬きをしてみても、それは戻らない。
カイは視線を大きく外して同じページを見つめた後、静かに本を閉じた。
そして、呆然と呟く。
「……思考が、鈍ってる」
それから少しの間をおいて、さらに続ける。
「情報の整理が、うまくできない」
その呟きに、ページをめくる音が止まった。
隣で本を読んでいた航が、ゆっくり顔を上げる。
「……ん?何か言ったか?」
カイは顔を上げない。
本の表紙を見たまま、淡々と答える。
「……認知が、落ちてる」
「書いてある意味がわかんないってことか?
そりゃ専門外なら、急には難しいに決まって――」「ちがうよ。
文字も追えるし、意味も分かる。
内容も理解してる」
「……?なら問題ないだろ」
「でも、繋がらないんだ。問題大有りだよ」
「……繋がる?」
航はカイが言っていることが、本気でよくわからない。そんな兄の反応に苛立ったのか、カイはその語気を強めた。
「普段ならさ、すぐに頭の中で整理がつくんだよ。 関連する論文とか症例とか……既知の情報と繋がっ て、枝みたいに広がっていく」
それからカイは、こめかみを軽く指で叩く。
「今、それが起きない」
「……」
「情報は読めてる。
でも、その先に進まない。理解が広がらない」
航はこちらを見ない弟に、小さくため息をついた。
「だから、思考が鈍ってる――と」
カイは小さく頷く。
ページを押さえていたその指がわずかに震えた。
「薬のせいじゃないか。
お前の頭を休ませるために、そういう薬を使っている。言ったろ」
対するカイは、変わらず本に視線を落としたまま、低く絞り出すような声で言う。
「……ちがう」
聞き分けのないその返事に、航は眉をひそめながらもう一度ゆっくりと言い聞かせた。
「違わない。そういう薬を――」
「ちがう、ちがう!」
すると、途端にカイの声が一段高くなる。
そして勢いよく顔を上げ、航を見上げ、ヒステリックに叫ぶ。
「兄さんは、何もわかってない!」
――図書室の静けさに、その言葉が強く響いた。
あまりの気迫に、航は一瞬言葉を失った。
そもそも自分は、この話に付き合ってやっているのだ。なぜこんな、理不尽な言い方をされなければならないのか。
そう考えるとだんだん腹が立ってきて、
「お前の普段の思考なんか、わかるわけねーだろ」
と、つい大人気なく吐き捨てる。
"しまった"と思った時にはもう遅い。
即座にカイの肩がぴくりと動いた。
「ほら、そうやって」
それは低く、はっきりと怒気が混じった声だった。
「兄さんはいつもそうだ」
「……」
「いつも否定ばっかり。わかろうとしてくれない」
航は、黙ってカイを見る。
カイは、航から視線を逸らしながら続けた。
「どうせまた、兄さんが一番正しいんでしょ。
で、オレはいつも、間違い」
そこまではっきりとした口調で言い切った後、今度は俯きポツリと呟く。
「……もうやだ」
航は眉間に深い皺を刻みながらも、極力刺激しないように心がけ返した。
「櫂、まずは落ち着け」
「落ち着いてる」
カイは、即座に返す。
航は敢えて間を置き、落ち着いた口調で返した。
「いや、論点がずれている。
お前が言ってるのは“思考が鈍ってる”って話だろ」
「だから、兄さんはオレの思考が鈍ってるから、オレが間違ってるって言いたいんでしょ」
「……」
航は閉口し、短く息を吐く。
――これでは、話にならん。
まるで母さんにそっくりだ。話が通じない。
それにしても、誉は、ホント気が長いよな。
よくこんなのに付き合っていられるよな。
……あいつはこんな時、一体どうするんだろう?
ふと、そんなことが頭をよぎった。
そしてしばらく考え、航はようやく思い当たった。
航は、すっと肩の力を抜き、頭を掻きながら言う。
「……わかったよ。悪かった」
少しだけ頭を下げるように目線を落としたその時、カイがわずかに視線だけを動かす。
航は、続けた。
「お前がそう思うなら、そうなんだろう」
「……」
そして、こちらの様子を伺っているカイを、まっすぐ見据えながら尋ねる。
「なら、俺はどうすればいい」
「……」
「お前は俺に、どうしてほしい?」
カイは、初めて身体ごと航の方へ向き直った。
しかしその視線は泳ぎ、安定しない。
――どうしてほしいのか。
カイは口を開きかけて、閉じた。
そう問われて、初めて気がつく。
――わからない。
そのまま黙り込んで考える。
しかし、いくら経っても答えが出てこない。
長い時間をおいて、カイは小さく首を振り、観念したように答えた。
「……わかんない」
それに対して、航はまた短く息を吐き、
「そうか」
とだけ答えた。
少しの沈黙を挟み、淡々と言う。
「じゃあ、答えは出ない。
もうこの話は終わりにしよう」
カイは何も言わない。
ただ、本の表紙を見つめている。
航はそんなカイの姿を見つめながら言う。
「……正直に言うと、お前のその“読んだ瞬間に枝みたいに広がる理解”ってやつ、俺にはわからん。
マジで、全然わからん」
カイの視線がわずかに揺れる。
航は、肩を竦めながら続けた。
「恐らく、大体の人間がそうだ。
きっとそれは、お前が持つ特別な力の一つなんだろう。でな、今それが急になくなったから、すげー不安なんだろうが……。
別に、とりわけおかしいことじゃない」
「……」
「むしろ、あの薬を使いながら、ここまで思考できてるお前に、俺はすごく驚いてる。
むしろ、そっちの方がおかしいくらいだ」
カイは、腑に落ちない顔で黙ったままだ。
航はそれを見ても、特にこれ以上の追及することをやめた。かわりに椅子から立ち上がり、
「そんなに気負うな」
そう軽く背伸びをしながら言って、カイの肩を軽く叩いた。
「普通の人間の感覚を知るのも、医者をする上では必要な経験だぞ。患者の大半は、普通だからな」
そして、入口側の本棚の方へ歩き出す。
「その本が駄目なら、違う本で試せばいい。
何か面白そうなのがないか、探してくるよ」
踵を返し、遠ざかるその背に向かって、カイがぽつりと言う。
「……普通じゃ、意味ないじゃん」
――その小さな呟きは、航には届かない。
そしてカイは、本を見つめたまま、動こうとしなかった。
航は、本棚の前で背表紙を順に眺めた。
医学書、専門書、論文集。
この辺りはどれも似たような装丁ばかりで、正直あまり面白みがない。
「……普通に固い本ばっかだな、つまらん」
独り言のように呟きながら、指先で何冊か引き抜いていたずらに確認してみる。
だが、どれもさっきカイが読んでいた本と大差ない内容だ。これではきっと結果は変わらない。
また面倒なことになっても困る
――まあ。
どうせ、本の中に答えがあるわけでもないしな。
航は内心でそう思いながら、順番に棚を見ていく。
入口に近づくにつれて、本は薄く、装丁もカラフルになっていく。
その視線が、ふと棚の下段で止まった。気がつけば、絵本コーナーに入り込んでいたようだ。
「絵本か……何年も読んでないな。
まあ、そりゃそうか……」
なんて呟きながら、航はたくさん並ぶ中から、なんとなく手に取った一冊を引き抜く。
「……お」
その表紙を見て、思わず小さく笑う。
「懐かしいじゃん」
そこには、見覚えのある猫の絵が描かれている。
航は、ぱらぱらとページを捲りながら呟いた。
「こんなの、まだあるのか」
読み進めるごとに、昔の事を思い出す。
櫂を膝に乗せて、絵本を読んだあの日々のことを。
――無邪気で、平和で。
俺たちの間に、何のしがらみも無かったあの頃。
航は、懐かしさに微笑むと、そのまま振り返る。
そして本をひらひらさせながら、カイの元へと戻ってきた。
「おい、櫂」
カイは相変わらず椅子に腰を下ろしたまま、さっきの本を前に俯いていた。
航はそれを気にも留めず、絵本をカイの目の前にポンと置いた。――次の瞬間。
「……は?」
それは、かなり低い声だった。
が、航は気づかぬまま、パラパラとページを捲りながら、楽しそうに続ける。
「お前、これ大好きだったよな。
何回も読んでやったから、最後は二人して中身を覚えちまって……」
「……」
突然、カイの指が絵本の縁を強く掴んだ。
そして、
「こんなの、赤ちゃんの本じゃないか!!」
その声が、図書室に鋭く響く。
「今のオレなんて、この本で十分ってこと?!」
航は一瞬ぽかんとしながらカイを見つめた後、
「あ、いや、そういう意味じゃねえし……。
それに、そんな赤ちゃんていうほど小さな頃の話じゃねえよ。確か三、四歳ー」
と、慌てたように返した。
それがまた、火に油を注ぐ結果になる。
「変わらないよ!!」
カイが椅子を軋ませながら、怒りに任せて勢いよく立ち上がる。
「本気で言ってるの?」
そして今度はそうゆっくりと言って、航を睨みつけた。しかしその赤い瞳の奥は、ひどく揺れている。
「兄さんは、オレのこと、赤ちゃんと同じだと思ってんの?」
「……いや、だから」
「だからオレは、何もできないと思ってるの?」
もはやカイは、昂ぶった感情のまま紡がれる言葉を、止めることが出来なかった。
「だからいつもオレには何も教えてくれないで、言うことだけ聞けって言うの……?」
その絞り出した言葉に、航の眉がわずかに動いたが、カイは構わず続ける。
「オレ、もう普通に大人だし」
その声が、少しずつ震え始める。
「もう専門医にもなった。後任の指導だってする」
「……」
「何もできない赤ちゃんじゃ、ない」
ーーまた、論点がずれ始めている。
が、今のカイに何を言っても、恐らく逆効果だ。
そもそもだが、こんなにもカイが感情をあらわにすることは、珍しい――いや、初めてかもしれない。
だったら、今は止めるべきじゃない。
思いのすべてを吐き出させたほうがいい。
航は、それ以上口を挟まず、黙って聞きに徹することにした。
だから、カイの横に座り直して身体ごと向き直る。
その溢れる涙を拭ってやりたい気持ちを抑えながら、敢えて厳しい顔を作り、その顔をまっすぐ見つめた。
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