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3-14.

櫂は、非常に手がかかる子どもだった。   生まれた時から身体が弱く、ほんの少しでも気を抜けば、死ぬ。 誇張ではない。 実際に主治医から、何度も覚悟を促された。 それを受けて当主は、命じた。   如月は、病魔に屈してはならない。 幼子を病で亡くすことは、如月の医科一族としての沽券に関わる。 ありとあらゆる手を講じ、この子を生かせ――と。   だから、皆はあらゆることを先回りして整えた。  櫂の体調悪化につながる全ての要因を取り除き、最適な環境だけを与える。 そこに、櫂の意思が入り込む余地はなかった。  いや、そもそも意見を求められていなかった。 その徹底した管理は、ただ櫂を生かしておくことだけが目的だった。   また一方で、櫂は言葉が出るのがとても遅かった。 簡単な頷きや、一語の返事はあったが、二語、三語の会話までなかなか繋がらず、当時、当主らが連日のように幼児発達界隈の高名な研究者を本邸に呼びつけていたことを、航はよく覚えている。 だが、櫂を診た専門家は、皆同じことを言った。   「発達に問題はありません」 「理解力も高い」 「ただ……話さないだけですね。 ――理由はわかりませんが」   だが今なら、わかる。 櫂は、話さなかったのではない。 話す必要がなかったのだ。 最適解で整えた環境で生きることを強いられた結果、櫂の自主性は全く育たなかった。 生きて、そこに在ること。 それ以外は、何もしなくていい。 そう、櫂の幼少期は、まさにドールハウスに飾られた人形のようだった。   ――しかし。   航は、目の前の弟を見る。 赤い目を潤ませながら、必死に言葉を絞り出そうとしている。 もう、うんざりだ。 何もできない赤ちゃんじゃ、ない。   ――こんな、強い激情を持っていたのか。 それを表現する術を、ちゃんと持っていたのか。 カイが、声を震わせながら言う。 「……確かに、兄さんはすごいよ。 何でもできるし、一番だもの。如月家の誇りだよ」 航は、思わず眉を寄せた。 口を挟みたくなるのをぐっとこらえながら、カイの言葉に耳を傾ける。 カイは長い袖口を口元で遊ばせながら、続ける。 「でも、オレは、何もできない。 人の気持ちはよくわかんないし、しゃべるの下手くそだし……」 そこで言葉を探すように、一旦口を閉じた。 視線が落ち、代わりに袖口がこめかみのあたりを彷徨い始める。 やがて、また口を開くと、 「結局大人になっても身体は弱いままで……手術にも耐えられない。ずっとずっと、役立たずのまま」 そう一気に話して、自嘲気味に笑った。   「でさ、じーさんには、そこにいればいいなんて言われる始末で……恥だ、如月家の恥。 兄さんとは正反対」 そこでまたカイは黙り込む。 視線が揺れる。 同時に、腕を下げてお腹のウサギをガウン越しに抱きしめる素振りをした。 「そんなことないだろ。 俺はお前を役立たずだなんて思ったこと――」 「……いいよ、そういうの……」 「あのな、そんなに卑屈になるんじゃない。 お前は」 「卑屈じゃないし……。兄さんには、わかんないよ」 「……」 カイは顔を上げない。 ウサギの膨らみを指でいじりながら俯いたままだ。 「でもさ、誉はさ……」 少し考えてから、カイがポツリと言う。 「誉は、オレのこと、ちゃんと受け入れてくれる」   「……誉が?」 「うん。オレ、頭の回りだけは、少しだけ人より早いみたいで……。でも、頭が回り始めちゃうとそれしか見えなくなるから……。 ほかの人は、気持ち悪がったり、変なやつって怖がったりするんだけど……」 航の脳裏に、緊急手術前カンファの光景が蘇る。 一心不乱に症状の分析と、手術の計画を組み上げたあの姿だ。ともすれば常軌を逸しているように見えるあれを、半ば引きながら見ていた医局員と、微笑ましく見守っていたあの誉との圧倒的な対比。 カイは続ける。 「たぶん、オレが人よりできることって、これだけで。だから、これが普通と同じになっちゃったら……困る」 「……そんなことはないだろう。お前は他にたくさんできることがあるじゃないか。誉だけじゃなくて、家の役にだって、いくらでも――」 「家の役に立つか、立たないか。 そんなことは……もうどうでもよくて」 カイは顔を上げ、はっきりと返した。   「誉の役に立てなくなるのが、困るんだ」   あまりにも突飛且つ幼稚な帰着に、航は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。   「……え、そんなことか?」 思わずそう返すと、カイの顔があからさまに歪む。 「そんなことって……」 そして、大きく声を震わせ、 「それが、一番怖くて、大変なことだよ」 そう言うと、ウサギをさらに強く抱き込む。   「だって、このまま頭まで普通になって……何の取り柄もなくなったら、さ……」 ひくっと、その喉が鳴る。 その細い肩が震え始めて、今にも泣きそうだ。 カイは懸命に涙をこらえながら、半分かすれた声で呟いた。   「誉に嫌われちゃう」 航の眉が、更に寄せられた。 何を言っているのか、本当によくわからない。 戸惑う航を横目に、カイは続ける。   「誉はさ……オレが役に立つから、そばに置いてくれてるんだ。この前の手術なんか、ほんとそうで。 ……新手法、成功できて、誉はうんと喜んでくれた。 オレ、誉の役に立てた。嬉しかった」 そしてカイは、また自嘲するように笑む。 「でもさ、それができなくなったら……オレ、……ただの変なやつで、足手まといじゃん。そしたら……」 その視線が、落ちた。 長く白いまつげが切なげに揺れる。 「誉がオレをそばにおいとく理由、なくなる。 役立たずになったオレを、誉みたいにすごい人が好きでいてくれるわけない……」    航は思わず口を開く。 「……誉はそんな――」 「そんなはずないって言う?」 しかしカイは、航が言い終える前に言葉を遮った。 「……兄さんは、知らないの? オレが、皆にどう思われてるか。 何て言われてるか」 「病気がちでって話だろ。 でも、それは仕方のないことで――」 航は、即座に言い返す。 対するカイは、ふっと笑う。 そして顔を上げて言った。 「次男はやっぱりおかしい。まともじゃない。 人に言えない何か大きな欠陥がある。 病気のせいにして、本家は何かを隠してる」   それは、とても冷たい声だった。   「……その気がなくても聞こえちゃうんだよね。 去り際の廊下、襖の向こう。 ――使用人によっては、わざと聞こえるように言う人もいるよ。オレが何もわかんない人形だと、本気で思ってるのかもね」 航の顔から血の気が引く。 病弱な弟の体を気遣う言葉をかけられたことはあるが、揶揄するような話は、一度も耳にしたことがない。 「バカを言え、俺はそんな話聞いたこと――」 反射的に言い返しかけて、航は言葉を止めた。 ――いや。 耳に入らないように、されている?   「兄さんに、言うわけないでしょ」 するとカイは、呆れたようにため息をつき、返した。 「兄さんは、如月の優秀な若さまだよ? みんな、兄さんの前ではいい顔したいに決まってるでしょ」 航は何かを言おうとして――結局、口を閉じた。 その胸の奥で、一つの疑念が生まれる。   ――もしかして、俺も都合のよい情報だけを与えられて、踊らされているのか……?   その焦りと沈黙を破ったのは、カイだった。   「役立たずは、いつもそうやって簡単に捨てられる。みんなすぐに離れてく。 でも、それももう、別にどうでもいい。ただ……」 俯いたまま、ぎゅっと唇を噛む。その眉が寄る。 そして絞り出すように、呟いた。 「誉のそばに置いてもらえなくなるのは、いやだ」 続いて、長い袖ごと手をこめかみに押しつける。 「だからオレは、唯一、人より使える“これ”を失う訳にはいかない」 こめかみに触れるその指先が、わずかに震えた 「これで、誉の役に立つしかないんだ。 ……誉と、一緒にいたいから」 航は沈黙と共に、ただじっと弟の顔を見ていた。 ーーが。 「……わからん」 次に、低い声でぽつりとそう呟いた。 その声にカイが顔を上げたと同時に、航は左手で額を押さえた。 「いや、もう本当にわからん」 そのまま目を見開き、わずかに震えながらもう一度言う。 「理解しようとしたぞ、俺は。 だが、こりゃ無理だ」 そして深く息を吐くと、真顔でカイを見据えて、はっきり言い切った。   「お前の考えてることはな、理屈が通ってるようで通ってねえし、感情で話すから飛ぶしで、難解すぎる。マジでわけわかんねえ」 「……飛んでないし」 「いや、十分飛んでる。 その思考回路、母さんと同じだぞ」 一瞬の沈黙の後、カイがぽつりと言う。 「……母さん?」 航は大きく息を吐いて答える。 「そうだよ。突然わけわからん理屈で結論出して、感情が先に走る。俺は昔からそれに振り回されてきたんだ」 「……母さんとは違うもん……」 「変わらん、まるで同じだ。悔しかったら、もう少し頭の中を整理してからモノを言え」 それから航は、不満げに眉を寄せるカイを指さして、 「だいたいな! そのお前の誉に対する思いは、もう――」 と言いかけて、ハッとしたように口を閉ざした。 顔をしかめて、数秒の沈黙――そして。 「……いや、いい。 ……そこは今どうでもいいな」 急にトーンダウンし、頭を振った。 「ただ、一つだけわかったことがある。 お前は頭が良すぎる。 だから、余計なことまで考えすぎている。世の中ってのはな、お前が思ってるよりもずっと単純だ」 きょとんとした顔をしているカイを尻目に、航は机を叩きながら続ける。 「人が他人に向ける気持ちなんて、もっと単純だ。 言ってしまえば愛なんて、一番単純だ」 そして、吐き捨てる。 「誉なんかもっと簡単だぞ。 あいつは、"わぁ、櫂くんかわいい〜、大好き〜"くらいのテンションだ。 じゃなきゃ、あんな過剰サービスで、めんどくせーお前のケアなんかしたがるかよ。 お前が役に立つが立たないか?関係ねえな。 仮に誉がそんなもんでお前を測ってたなら、とうの昔に離れてる!」 突然の兄の気迫に押されたカイは、ただ圧倒されて目を瞬かせる。航は止まらない。 「冷静に考えてみろ。 あいつはな、本来、他人なんか必要としないくらい一人で何でもできる男だ。お前が役に立つ立たないなんて、はなからどうでもいいんだよ!」 そして訪れた、沈黙。 航の荒い呼吸だけが室内に響く。   目を白黒とさせていたカイだったが、少しの間を置いた後、ぷくんと膨れて拗ねたように呟いた。 「そんなことない」 「ある!」 航が即座に否定すると、前のめりで返してくる。 「ない!」 「ある!」 「ない!」 「ある!」 「ない!ああ、もう!」 航は、怒りに任せて机を叩き、吠える。  「そこはハイって言っとけよ! いつもみてえにさ!!」 カイがびくっと肩を震わせた一方で、航は両肘を机につき頭を抱えた。 「あーもうやだ!ホントわけわかんねー!!」   カイは、しばらくぽかんと取り乱す兄の様子を伺っていたが、やがて、おそるおそる声をかける。 「……兄さん」 「なんだ」 「こんな怒り方する兄さん、初めて見た」   その言葉に、航の動きがぴたりと止まる。 同時に、カイは首を傾げ、 「兄さん、どうしちゃったの? ……疲れてんの?大丈夫?」 と、あろうことか心底心配そうな顔で、そんなことを尋ねてくるのだ。 航の眉がぴくっと動いた。 そして次の瞬間には、さらに大きな声で、一言。 「お前のせいでずっと疲れとるわ!!」 カイは赤い目を大きく見開いて、肩をすくめる。 「えっ、ええと……なんか、ごめん」 航は深く息を吐いた。 「そこまで言うなら、分かった」 そして、しばらくの沈黙の後、低く言う。   「……お前の覚悟、見せてもらおうじゃないか」

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