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4-4.
誉の顔を見た瞬間、櫂の表情がぱっと明るくなる。
「どうして」という疑問より先に、ただ嬉しさが込み上げた。
誉が来た。誉が、来てくれた!
「櫂、どうした?」
隣から航に呼ばれ、櫂ははっと前を向く。
ーーいけない。
誉に気を取られて完全に気持ちがそれた。
今は、祝賀会に集中しなければ。
櫂は緩みそうになる唇を結び、どうにか表情を整える。その間に、誉は山崎の前へ出て、丁寧に頭を下げていた。
「卯月誉です。
お時間下さり、ありがとうございます」
「卯月先生!いやいや、こちらこそ。
私の方こそ直接御礼を申し上げたかったのです」
山崎は穏やかに微笑む。
「おかげさまで、妻は日ごとに落ち着いてきております」
「ええ。今朝の回診でも、表情がずいぶん柔らかくなっている印象でして。
リハビリも、予定を上回る進捗です。
奥さまの元気になりたいという強いお気持ちに、我々職員一同、感服しております」
誉は全く詰まることなく、余裕の笑みすら受けべながら答える。その振る舞いの美しさに、櫂は思わず見惚れ、同時に胸が高鳴った。
すごい。
かっこいい。
さすが、誉だ。
胸の中で言葉が跳ねて、止まらない。
また顔が緩みそうになって、慌てて目を伏せてごまかした。そんな櫂に向かって、山崎が続ける。
「櫂先生の所見があったからこそ、妻は手術へ進めたと伺っております」
実は、櫂はこれまであまり患者家族と話をしたことがない。だからこそ、そんな風に面と向かって言われると、戸惑いが隠せない。
「私は、必要な情報を渡しただけで……卯月先生の手技の賜物です」
「それができる先生が、どれほどいるでしょうか」
そんな櫂の謙遜を軽く流す山崎の言葉は、自信に溢れていた。
「切る先生だけではなく、切れる状態へ導いてくださる先生がいる。
それは患者にとって、大きな救いです」
櫂が言葉に詰まってしまう。
すると、誉が自然に口を開いた。
「山崎さまが仰る通りだと僕も考えています。
内科と外科、当然互いに支え合う関係ですが、指令塔はやはり内科なのです。
正しい指針なくして、僕は切ることができません。
本症例については特にそうです。
櫂先生による迅速且つ正確な導きがあったからこその結果です。――まあ」
誉は迷いなくそう話した後、わずかに視線を櫂へと移した。それから半ば照れたように頭をかきながら人懐っこい顔で笑うと、少しだけくだけた口調で続ける。
「だからこそ僕は、そんな櫂先生の力に惚れ込んで、北丘まで追いかけてきてしまったんです。
ですから、山崎さんのお言葉は、何というか――自分のことのように嬉しいです」
その言葉に、櫂が思わず誉を見る。
誉はそんな櫂に微笑みかけた後、改めて表情を引き締めて山崎に向き直った。
「今後も、櫂先生の方針のもと、北丘のスタッフ全員で責任を持って奥さまの経過を見てまいります。
僕も外科の立場から、必ず支えます。
もし何か気になることがあれば、些細なことでも気兼ねなくお申し付けください。
引き続き、よろしくお願いします」
そして、深く頭を下げる。
櫂も一瞬遅れで、慌ててそれに続いた。
「ありがとうございます。
本当に、北丘にお願いして、良かった。
こちらこそ、よろしくお願いいたします」
山崎は満足げに頷いて、もう一度、櫂と誉へ深く頭を下げた。それから航にも祝いの言葉を述べ、人垣の向こうへと下がっていく。
その背を見送った後も、櫂はまだ少し夢見心地で誉を見上げていた。
誉がいる。近くにいる。
それだけでも嬉しいのに、自分のことを皆の前で褒めてくれた――というか。
自分の力を認めて、自分がいるからこそ、新病院に来たとまで言ってくれた。
それは、櫂にとって最高の褒め言葉だった。
嬉しくて、嬉しくて、胸がいっぱいになる。
すると、山崎を見送った誉が、ごく自然に半歩だけ近づいた。周囲から見れば、二人が立ち位置を整えただけにしか見えない。
だが、櫂にはその意図をすぐに理解した。
ーー誉と自分の、いつもの距離。
そして誉は、櫂の肩にほんの軽く指先を添えた。
少しだけ屈み、囁く。
「ぜーんぶ、見てたよ。さすが、カイだね」
その声は、周りからは拾えないほど小さい。
「もっともっと、好きになっちゃったよ」
その言葉だけで、櫂の胸がぎゅっと熱くなる。
誉が、頑張ったところを見ていてくれた。
一人で、歩いていたところも。
自分の言葉で、話したところも。
胸を張って、兄の隣に立てたところも。
――全部。
「誉、オレ……」
そして櫂が言いかけた、その時だった。
「櫂さま」
明るく澄んだ声が、すぐそばからかかった
櫂は誉へ向けかけていた言葉を飲み込み、慌てて顔を上げる。
そこには、淡い色のドレスを纏った若い女性が、両親を伴って立っていた。
一瞬、頭が真っ白になり言葉に詰まった。
だが、すぐに誉の指先が櫂の肩へそっと触れる。
すると櫂は、自然と息を吸い、令嬢へ向き直れた。
「……ごきげんよう」
「ごきげんよう、櫂さま。
本日は、おめでとうございます。
先ほどのご挨拶、とても素敵でした」
「ありがとうございます」
まず櫂は、丁寧に頭を下げた。
それから、顔を上げ始めると同時に、目の前の令嬢と頭の中の情報が結びついていく。
名前。
顔。
家柄。
経歴。
趣味。
そして顔を上げきったその瞬間、全てが整った。
やんわりと、微笑む。
「橘 香澄さま、ですね」
にわかに、令嬢の目が丸くなった。
「はい。仰る通りでございます」
「義姉から、よくお話を伺っております。
水彩の風景画をお描きになるとか。
――色の重ね方が、とても優しく美しいと」
「まあ……舞子さまが、そんなことを」
香澄は、頬を赤く染める。櫂は穏やかに続けた。
「私は絵画について明るくはありませんが……きっと世界を優しく捉えてらっしゃるからこそ、人の心を癒す作品が出来上がるのでしょう。
もし、展覧会などに出される際は、教えてください。私も、ぜひ拝見してみたいです」
香澄は、完全に言葉を失った。
隣の夫人も、驚いたように櫂を見る。
横に控えていた航は、密かに舌を巻いた。
そもそも誉の資料は、簡単な経歴と会話のポイントがいくつか箇条書きにしてあっただけだった。
台詞書きにせずに大丈夫なのかと心配していたが、なるほど、敢えてそうしなかったということか。
櫂は、ただ暗記をしているわけではない。
資料に書かれた要所を、まるで手術前カンファの所見のように繋ぎ合わせ答えている。
しかも、相手が大切にしているものを拾い、褒めて肯定した上で余計な期待は持たせない、上手い。
台詞で覚えさせてしまうと、応用が利かない。
想定外の対応が出来なくなる。
すると、香澄が少しだけ身を乗り出した。
「櫂さまは、どのような絵画がお好きですか?」
「語れるほど絵画に対する知見がありません。
そのかわり……この年で少しお恥ずかしいのですが、私はよく絵本を見ます。
目が弱いものですから、文字の小さな医学書ばかりを見ていると疲れてしまって……」
「まあ……」
「そんな時、色合いが優しい絵本を見ると落ち着くというか――とても癒やされます。なので、橘さまが描かれる優しい絵も、きっと好きだと思います。
橘さまは、ぜひ描き続けてください。
きっと私のように、橘さまの絵に救われる方がたくさんいらっしゃるでしょうから」
きっと台詞を丸ごと覚えさせただけでは、こんな風に会話のニュアンスを拾い、寄り添った返事はできなかっただろう。
一方、香澄はやんわりと脈無しを告げられたわけだが、全く悪い顔はしなかった。むしろ、自分の存在を、そしてその価値を認められた嬉しさの方が勝っているようだった。
「ありがとうございます。
必ずご連絡差し上げます」
「楽しみにしています」
櫂が丁寧に頭を下げると、香澄とその両親は満足げに礼を返して離れていった。
その背を見送りながら、櫂が不安げに兄を伺う。
「今の、大丈夫だった?」
「十分だ。むしろ想定以上」
「ほんと?」
「ああ」
「……良かった」
兄に認められ、櫂の表情がほんの少し明るくなる。
その瞬間、再び誉が何も言わず櫂の肩に軽く触れた。 その時間はわずかだったが、櫂の身体からストンと力が抜け、自発的に呼吸を整える。
航はそれを横目で見る。
誉は敢えて口を挟まず、櫂の集中が途切れないよう、必要最低限のフォローだけを出す。
『櫂に必要なのは、先回りではなく、伴走』
航は、誉が言っていた言葉を思い出す。
今回、誉は台本ではなく、考え方を渡したのだ。
それは、櫂がそれを理解し、記憶し、更に最適解にたどり着けるという信頼と自信がなければ成り立たない。
――お前達は、こうやって二人三脚でここまで共に歩んで来たんだな。
航は薄く息を吐くと、改めて二人を見守る。
その後も、櫂のもとには何人もの令嬢が訪れた。
最初は、そのたびに緊張していた様子だったが、回数を重ねるごとに、その受け答えは目に見えて精度を上げ、自然なものになっていく。
相手の名前を呼んで心をつかみ、話題をその人自身のことへと巧みにすり替えた。
学んできたこと、趣味、仕事――そして、夢。
櫂はそれらを一つずつ拾い上げ、丁寧に返す。
如月に入れば、そんな貴方の華やかな将来を手放すことになる――それは大変な社会的損失だ、と。
そんな結論を自然と導き出すような論法だった。
だからこそ、断りの言葉はどれも柔らかい。
けれども、その芯は、全くぶれない。
「その道は、続けられた方がいいと思います」
「きっと、今のお立場のままの方が、力を発揮できるのではないでしょうか」
「いつか北丘にも、ぜひお力を貸していただけたら嬉しいです」
相手は多少の落胆を滲ませながらも、不快な顔はしなかった。
むしろ、自分の価値を認められたことに満たされた様子で去っていった。
案の定、その後も誉は半歩後ろという絶妙な距離感で控えるのみで、殆ど口を挟まない。
ただ、櫂の呼吸が浅くなれば肩に触れ、視線が泳げば横に並ぶ。
その言葉が詰まりかけた時のみ、間を埋めるように相槌を打ち、相手に向かってにこやかに微笑んで見せた。その隙に櫂は持ち直し、また話をし始める。
その息が合いすぎた二人の連携ぶりに、航が薄ら寒さすら覚え始めた、その時だった。
「卯月先生」
初めて、誉の方に声がかかった。
櫂が、不安げに誉を見上げる。
誉に?
どうして。
そんな顔をした櫂の様子に、誉はすぐ気が付いた。
間を置かず、優しく櫂に微笑みかける。
そして、「大丈夫」とでも言うようにその背中を軽く撫でてから、改めて声の方へと向き直った。
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