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4-3.

拍手が収まるのを待ち、司会者が再びマイクへ向かう。 「続きまして、如月家ご当主より、ご挨拶を賜ります」 当主が、ゆっくりと一歩前へ出る。 航がすぐに身を引こうとすると、片手をわずかに上げてそれを制し、静かに言う。 「航、そこに」 航は戸惑ったように一瞬だけ目を伏せた後、当主の半歩後ろに控えるように立ち直る。 当主は小さく頷くと会場を見渡し、口を開いた。 会場が、一際しんと静まる。 「本日は、北丘総合病院設立三十周年、ならびに如月北丘医療センター再編記念祝賀会にお集まりいただき、誠にありがとうございます。 今、航が申し上げました通り、北丘は決して平坦な道を歩んできたわけではありません。 経営面、設備面、人員面、いずれにも大きな課題がありました。 しかし北丘は、長くこの地域の医療を支えてきた病院です。ここを失えば、患者さまが、職員が、地域のご家族が、それぞれに行き場を失うことになる」 続けて当主は、一段大きく声を張った。 「だからこそ如月は、この病院の再建を担うべきだと判断いたしました」 次に、当主の視線が航へと向く。 「そして、その中心に立ったのが、航です」 会場の視線が、自然と航へ移る。 航は表情を変えることなく、静かに頭を下げた。 「もちろん、航一人の力ではありません。 現場の医師、看護師、職員の皆さま。そして本日お集まりの皆さまのお力添えがあってこそです」 そう前置きしてから、当主は静かに続けた。 「しかし、若い身でこの重責を引き受け、その中心に立ち、逃げずに向き合ってきたこと。 如月の当主として、また、祖父として、誇らしく思っております。 北丘は、今後も航を中心に据え、革新を進めます」 当主はわずかに目を細め、口元に笑みを称える。   「これは如月としての方針です。 まだ若い院長ではありますが、航はすでに、その責に足る働きを見せてくれました」 航の横顔を見ていた櫂の瞳が、ほんの少し誇らしげに揺れた。当主は、それを見逃さない。 ――さて。ここまでは、定石通り。 航を立て、新病院の方針をこの場で明らかにすることができた。 一方で、想定外だったのが――櫂。 今日は、この場に在りさえすれば良いと考えていた。だから満には、当日までの調整を命じていた。 だが、見る限り今日の櫂はかなり"調子がいい"。 航が、仕上げてきたのだ。 ともすれば、その拙さは年齢不相応だと受け取られてもおかしくはなかった。 しかし、櫂のこれまでの対応を逆手に取り、敢えて自分の言葉で話させることで、その拙さごと会場に受け入れさせた。 ――面白い。面白いぞ、航。 お前はそうやって、いつも私の予想を超えてくる。 当主は、柔らかな笑みを浮かべたまま、静かに目を細める。 ならば、少しだけ見せてやろう。 当主の格というものを。 一拍を置き、当主は再び口を開いた。 「そして、櫂についても」 即座に、航を含め会場の視線が櫂へと移る。 「櫂は、内科医としての才に恵まれております。 とりわけ脳神経領域においては、若くして得難いものを持っている」 櫂が驚いたように目を丸くし、当主の方を向く。 合わせて、会場の空気が、わずかに揺れた。 「医師としての才だけを見れば、航に並び、あるいは越えるものもあるでしょう」 櫂が明らかに動揺する。 当主から、いや、誰からだって、これまでそんなことを言われたことは一度もない。 そんな櫂の肩に、航が静かに手を置く。 兄の柔らかな笑みを見て、落ち着きを取り戻した櫂が再び前を向く。そのタイミングを見計らったかのように、当主は言葉を続ける。 「だからこそ、櫂については、公の場に出すことよりも、現場に立つことに専念させてきました。 社交や理事としての役割よりも、この子には医師として積ませるべきものがある。 私が、そう判断したのです。 一方で、これまで、このことを皆さまへ十分に説明してこなかったことは事実です。 そのために、たくさんのご心配をおかけしたこともあったかと存じます。 またそれ故に、この子について、さまざまな憶測やご意見があったことも承知しております。 けれど、私がいくら言葉を尽くしたところで、それは庇護だ、弁明だと受け取られてしまうでしょう。 であれば、櫂自身が医師として力を示すこと。 それが何よりの証明になると考え、これまで敢えて多くを語らずに参りました」 祖父へと向けた航の視線が、鋭くなっていく。 当主はそれを受け流し、なお穏やかに続けた。 「櫂は、それらの声を受け止めながらも、囚われることなく、与えられた場所でただひたむきに医師としての務めを果たしてきました。そして、その才を北丘でより活かせると見抜いたのが、航です」 航は内心で舌打ちしながらも、背筋に冷たいものを感じていた。 櫂を新病院に連れてきたのは、単純に記念病院に、あの父親の元に置いておけなかったからだ。 ただ櫂を守るために、やむを得ずやったことだ。 きっとそのことを、祖父は見抜いている。 それなのに、櫂の評価までも含め、今この場で、全てを航の采配に変えてしまった。   そして何よりも恐ろしいのは、この機転。 櫂の話のくだりは、おそらく今この場で考えて繋いだアドリブだ。だって、彼は今の今まで、櫂が自分の意思を持ち、その足でこの場に立つことを知らなかったのだから。 ――末恐ろしい。 だが、これが如月の当主に求められるものなのか。 そんな航の心の内を知ってか知らずか、当主は落ち着いた様子で話を進めていく。 「本日、櫂は自らの意思でこの場に立ちました。 兄と共に北丘を支えたいと、皆さまの前で言葉にしてくれました。その意思を、私は尊重したい。 北丘は、これからも変わります。 航を中心に、若い医師たちが力を尽くし、地域に必要な医療を作っていくでしょう。 航が北丘を率い、櫂がその専門性で支える。 私は、その形に大きな可能性を見ております。 ――そして」 そこまで言い切ると、当主はまず櫂の方へと視線を向ける。それからすぐに会場にそれを戻すと、明瞭に言い放った。 「兄弟が並び立つ未来を望むのであれば、櫂を支える者もまた、如月には必要となるでしょう」 その一言に、会場の空気が変わった。 意味を理解した者から、静かに目の色が変わっていく。 親族。 理事。 令嬢を伴った家々の両親たち。 もはや櫂は、ただ守られるだけの病弱な弟ではない。如月が公に認めた、次代の一角だ。 ――その隣に己の子女を並べることができるなら。 そう考えた者は、一人や二人ではなかった。   「本日は、北丘の節目であると同時に、如月の次の時代へ向けた一歩でもあります」 最後に当主は、穏やかに微笑んだ。 「どうか皆さま、本日は有意義なひとときをお過ごしください。 そしてこれからの北丘を、如月の次代を担うこの二人を、温かく見守っていただけましたら幸いです」 そして、会場に向かい深く一礼する。 その次の瞬間、会場は拍手に包まれた。 先ほどまでとは、明らかに違う大きな拍手だった。 隣で、櫂が少しだけ戸惑ったように瞬きをしている。航はその背に、再びそっと手を添えた。 「――始まるぞ」 「……うん」 そう小さく囁くと、櫂は頷き、もう一度前を向いた。その横顔を見ながら、航は静かに息を吐いた。 前哨戦は、金星。 だが、本当の勝負は、ここからだ。 祝賀会は、決戦の場ーー歓談の時間へと移った。 料理が運ばれ、グラスを手にした来賓たちが動き出す。そして、人の流れは明らかに一方向へと偏っていた。航と、櫂の方である。 「院長、このたびは誠におめでとうございます」 「北丘の評判、最近よく耳にしておりますよ」 「小児科の取り組み、とても心強いですわ」 「産科も再開されたとか。この地域の方は安心なさるでしょうね」 航は一人ひとりに礼を返しながら、必要に応じて短く説明を添える。その隣で櫂もまた、緊張した面持ちで、兄に倣い丁寧に頭を下げていた。 来賓たちの声掛けは、櫂にも当然及ぶ。 「櫂さまも、本日はおめでとうございます」 「先ほどのご挨拶、とても素敵でございましたわ」 「どうか、無理はなさらないでくださいませね」 「ありがとうございます」 「はい。無理はしません」 「兄と相談しながら、少しずつにします」 そのたびに櫂は、兄から習った言葉を一つずつ取り出しながら返事をしていく。たどたどしさは拭えなかったが、今はその少し不器用な受け答えさえ、誠実なものとして皆に受け入れられていた。 ーー人の評価というものは、本当に勝手なものだ。 航は内心で苦笑する。 だが、今はそれでいい。 この流れは、使える。 「櫂、少し水を飲め」 しばらくして、少し呼吸が乱れてきた櫂に、航が小声で言う。櫂は、素直に頷いた。 近くのスタッフが差し出したグラスを受け取り、ほんの少しだけ口をつける。 「大丈夫か」 「うん」 「気分が悪くなったらすぐ言うんだぞ」 「……まだ大丈夫」 「まだ、じゃなくてすぐに言え。 無理に耐える必要はない」 「……ありがと、兄さん」 それを偶々耳にした夫人たちが、また目を細める。 「若さま、あんなお優しいお顔もなさるのね」 「本当に仲のよろしいこと」 「櫂さま、本当に若さまをお慕いなのね」 「ええ。それに、飾らないところが素敵だわ」 するとその時、人垣の向こうがわずかに割れた。 「如月院長」 低く落ち着いた声だった。すぐに航が振り向くと、壮年の男が一人、丁寧に頭を下げていた。 航は即座に近くのスタッフに耳打ちをした後、その表情を改めて歩み寄る。   「山崎社長。 本日はお越しいただき、ありがとうございます」 山崎製薬の社長、山崎徹。 国内でも有数の製薬会社を率いる人物であり、北丘の再編にも大きく関わりを持つ人物だ。 航に続いて、櫂もまた山崎の前に立ち頭を下げる。 山崎はそれを穏やかな笑みと共に受け取り、 「こちらこそ、お招き頂きありがとうございます」 と、2人にそれぞれ握手を求めてきた。 握手を終えると、山崎は改めて櫂へ向き直る。 「櫂先生。本日は、どうしても直接御礼を申し上げたくて参りました」 『先生』という呼び名に、様子をうかがっていた周囲の視線もまた、櫂へと注がれる。   対する櫂は、一瞬だけ驚いたように瞬きをした。が、一拍を置いてようやく事を把握し、 「山崎さん。奥さまは、その後いかがですか」 と、穏やかな笑みと共に返した。   「お陰様で、驚くほど穏やかに過ごしております」 山崎の声が、櫂の表情につられ、柔らかくなる。 「妻は既往歴が重く、他では難しいと言われておりました。そんな中、北丘さんだけが受け入れてくださった。その上で、後遺症もなくここまで戻して頂き、家族みな、非常に感謝しております」 そして山崎は、櫂へと深く頭を下げた。 近くにいた者たちが、静かに息を呑む。 山崎製薬の社長が、医師 如月 櫂に直接礼を述べている。それだけで、先ほど当主が語った言葉に重みが加わった。 櫂は少しだけ困ったように眉を下げた後、ゆっくりと言葉を選びながら答える。 「患者さまの、元気になりたいというお気持ちがすべてです。私たちは、そこに少しお力添えをしただけです」 「……そう言って下さる先生方に、妻を任せられたことがまさに幸運でした」 山崎の表情が、わずかに和らぐ。 それから、彼は改めて航へと向き直った。 「櫂先生の所見はもとより、卯月先生の手技も素晴らしかったと伺っております。本日は――」 「山崎さん」 ちょうどその時、朗らかな声が重なった。 「お褒めにあずかり光栄です」 その瞬間、櫂は肩をびくりと跳ね上げた。 聞き慣れた、声だ。大好きな、あの声だ。 ――でも、本当に?何で?   そう胸を高鳴らせながら勢いよく振り向く。 そこに、誉がいた。 人垣の向こうから、卯月誉が歩いてくるところだった。濃い色のスーツを着こなし、柔らかな笑みを浮かべている。 いつから、いたの。 どうして、ここにいるの。 櫂は目を丸くしたまま、思わず誉を見上げる。 その視線は釘付けだ。 逸らすことなんて、できない。 誉は当然のように、そんな櫂に気がついた。 山崎へ向き直る前に、櫂へと視線を落として、目を細める。 そして櫂だけに向かって、いつもの調子で優しく"にこり"と微笑んだ。  

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