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4-2.

司会の進行に合わせ、扉がゆっくりと開かれた。 まず姿を見せたのは、如月家当主だった。 柔らかな微笑を浮かべながら、ゆったりと会場へ進む。それだけで、ざわついた空気が自然と整っていく。   続いて、如月病院院長――兄弟の父。 いつものように愛想の良い笑みを浮かべている。招いたマスコミに向かい軽く手を上げながらの入場だた。 拍手は一段落ち着きはしたが、止むことなく続く。 そして、次の瞬間。    航が、姿を現した。 拍手が、ひときわ大きくなる。 如月家の嫡男にして、北丘総合病院を立て直した若き院長。 本日の祝賀会一番の中心人物だ。 だが、航はそのまま壇上を進むかと思いきや、入口で一瞬だけ足を止めた。そして、わずかに身体を横へ開き、後ろを振り返る。 するとその影から、白い髪が覗く。 間を置かず、もう一人が姿を現した。   「……え」   不意に、思わず誰かがそう小さく声を漏らした。 ――透けるような白い肌。 眼鏡の奥に見える、宝石のように赤い瞳。   「如月、櫂……」  また誰かが、確かめるようにその名を呟いた。   「本当に来たのか」 「……来れたのか」 拍手の隙間にポツポツと上がるその声と共に、皆が息を呑む。 櫂は扉の前で一度だけ息を吸い、それからゆっくりと一歩を踏み出した。 まっすぐ前を向いて、自分の足で歩む。 その様子に、航はほんの少し目元を緩めて、櫂の背に軽く手を添えた。 櫂が、航を見上げる。 航が一度だけ頷く。 櫂も、小さく頷いて返す。   それから二人は、並んで壇上へと向かった。 会場のざわめきが、遅れて広がる。 「櫂さま……?」 「本当に、ご出席になられたのね」 「あら?今日はいつもの方が横についていないわ」 歩幅が狭い櫂に合わせ、航がわずかに速度を落としてやる。櫂もそれに甘えすぎず、静かに隣を歩く。 つい先ほどまで、櫂は航に背負わされた重荷のように語られていた。   新病院だけでも大変だろうに、弟君のことまで。 嫡男といえど、あまりにも背負うものが大きく気の毒だ、と。 けれど、目の前の兄弟は、そんな邪推とはまるで違っていた。   櫂がほんの少し視線を揺らすと、航が気遣う。 航が頷くと、櫂は安心したように再び前を向いた。 航は兄であり、櫂はその隣にいられることが隠しきれないほど嬉しくてたまらない、そんな無邪気な弟そのものだった。   「あら……可愛らしいわ」 「あなた、失礼よ。 お二人とも立派な殿方ですのに」 「でも、そうも言いたくなるでしょう。 ご覧になって。櫂さまが、若さまを見上げるお顔」 「ええ……本当に嬉しそう。微笑ましいわね」 「こういうお家のご兄弟は、もっと張り合うものかと思っておりましたわ」 「まして若さまほどのお立場なら」 「けれど……こちらのお二人は本当に仲睦まじいご様子ね」 そんな驚きを交えた声は、すぐに拍手に紛れた。 壇上に、一族が揃ったのだ。 当主を真ん中に据えて、左側に父親、右側に兄弟が控えた。改めて並んでみると、兄弟の洗練された美しさがより際立つ。    「あらっ。 若さまも、装いを櫂さまに揃えてらっしゃるのね」 「ああ、いつもと雰囲気が違うと思ったら……」 「普段は、もっと落ち着いたお召し物が多いですものね」 「今日は、お二人で並ばれるためのお仕立ね」 「まあ。仲のよろしいこと」 その言葉に、近くの者たちもそっと頷いた。  「新病院は、記念病院と随分雰囲気が違いますね」 ふと、年配の理事がぽつりと呟いた。  「……若さまを慕って移られた先生方が多いとは聞いておりましたが」 「ええ。 脳外の卯月先生なんて、最たるものでしょう。 記念病院に残れば、部長席も見えた方だとか」 「なのに、新病院では副部長でしょう?」 「いくら優秀でも、彼は如月の血筋ではないからな。新しい病院に賭けたのかもしれませんよ」 なるほど、と誰かが小さく頷く。 「櫂さまも、若さまの元で、変わられたのかしら」 「若さまは、人の置き場所をよくご存知なのかもしれませんね」 その言葉に、いくつかの視線が父親へ流れる。 するとその時、航がごく自然に櫂の方へ身を寄せた。そして何かを囁く素振りの後、櫂が柔らかく微笑んでふっと肩の力を抜く。その様子を見た航もまた、ほんの少しだけ笑って返した。 程なくして、先ほどまで扇の陰で言葉を濁していた婦人が、ぽつりと呟いた。 「……本当に、素敵なご兄弟ですわね」 兄弟が互いに微笑み合い、同じように前を向く。 司会が再びマイクを手に取ると、会場内のざわめきが止まった。 その間を逃さず、司会は明るく声を張る。 「それでは、開会にあたりまして、北丘総合病院院長、如月航さまよりご挨拶を賜ります」 大きな拍手が巻き起こる。 航は慣れた様子で一歩前へ出ると、会場を見渡し、静かに頭を下げた。 「本日はご多用の中、我が北丘総合病院設立三十周年、ならびに如月北丘医療センター再編記念祝賀会へお越しくださり、誠にありがとうございます」 拍手が止み、皆が航の話に耳を傾ける。 合間に、口を開く者はいなかった。   「北丘総合病院は、地域の皆さまに支えられ、三十周年を迎えることができました。 一方で、ここ数年は経営難による人員の流出、設備の老朽化など、多くの課題を抱えていたことも事実です」 祝賀の席では不適切ともいえる話の流れに、何人かの理事の顔が固まったが、航は気にすることなく堂々と続ける。    「如月の傘下に入って以降、私たちは診療体制の見直し、設備の更新、人員の再編を進めて参りました。まだ道半ばではありますが、医師、看護師、スタッフ、そして関係各所の皆さまのお力添えにより、北丘は着実に変革を遂げています」 航は、そこでわずかに視線を巡らせた。 「当院の再興にあたり、この地域にこそ必要な医療を改めて考え抜いた結果、まずは小児科を改革の中心に据えることに致しました。 そこを起点に耳鼻科、皮膚科、整形外科へ連携を広げ、小児医療においては、他院では敷居が高い印象を持たれがちな脳神経領域との連携も大きな特徴としております。 そして先日、長く休診を余儀なくされていた産婦人科の再開が叶いました。 今後も、患者さまとご家族にとって、最初に頼れる場所であり、必要な時には安心と共に専門へ正しく繋げられる病院でありたいと考えております。 今後とも、北丘総合病院、ならびに如月北丘医療センターへの変わらぬご指導、ご支援を賜れますよう、心よりお願い申し上げます」 拍手が起こりかける。 だが、航が再び顔を上げ、言葉を続ける気配を見せると、会場は自然と静まっていく。 「そして本日は、私事で恐縮ですが、弟・櫂にとっても大切な席でございます」 続いた航の言葉に、会場の視線が自然と隣へ流れる。 櫂は、眼鏡の奥の赤い瞳を、静かに前へ向けたまま、うろたえることもなく堂々と立ち続けた。 「櫂には持病があり、これまで公の場への出席は控えさせて参りました。 業務についても、体調と適性を考え、理事として表に立つのではなく、医師として、脳神経領域で専門性を活かすことを優先しております」   そう言いながら、航は自然と櫂の肩に手を置いた。 兄弟の視線が、一瞬だけ交わる。 そして航は、櫂の肩から手を離してから続けた。 「しかし一部の方はご存知の通り、櫂は現在、体調を崩し療養中の身であります。私としては本日も出席は控えさせるつもりでした」 会場の視線の質が、わずかに変わる。ざわつく。 航は一度、会場の反応を待った。そして、ざわめきが薄くなった頃を見計らい口を開く。 「しかし、本人の"病に負けず頑張りたい"という強い希望により、このような兄弟揃っての登壇が叶いました」 櫂の指先が、ほんの少しだけ動いた。 航は、それを見ずに続ける。   「今後は体調と相談しながらではありますが、医師として、また如月家の一員として、少しずつ皆さまの前に立てる機会を増やしていくつもりです。 櫂の専門性は、必ず北丘の、ひいては如月の医療の発展に貢献するものと信じております。どうか皆さまには、北丘のこれからを、そして弟・櫂のこれからを、温かく見守っていただけましたら幸いです」 そこまでを力強く言い切り、航は深く一礼した。 一拍遅れて、櫂も頭を下げる。 兄に合わせようとする、そのわずかな遅れ。 これまでなら不甲斐ないとされたその不器用さまでが、観衆の目には微笑ましさとして映った。 大きな拍手が起こる。 まるで兄弟を祝福するかのような、温かい拍手だった。 拍手が収まると、航は隣に立つ櫂へ目を向けた。 それを合図に、櫂は小さく息を吸い、一歩前へ出る。俯きかけたが、寸前のところで踏みとどまって前を向く。そして、ゆっくりと口を開いた。   「……如月、櫂です」 その声は少し硬く、航に比べればずっと拙い。 けれども、櫂はまっすぐ前を見つめて、懸命に言葉を繋ぐ。 「本日は、このような席に出席させていただき、ありがとうございます」   ここで一度、丁寧に頭を下げる。 それからすぐに顔を上げ、一呼吸を置き続ける。 「これまで、あまり公の場に出ることができず、皆さまにはご心配をおかけいたしました。 兄にも、色んなことを任せきりにして、助けてもらってばかりでした」 そこまで言い切ると、櫂は一瞬だけ航に目線を移す。航は何も言わず、静かに櫂の話を聞いていた。 「でも、今日は……兄が大切にしている北丘の大事な日なので、どうしても出席してお祝いしたいと思いました。だから、ちゃんとここに立てて……皆さんと、この日をお祝いできて、とても嬉しいです」 ーーその言葉は、正直に言えば拙かった。 けれども、飾らない分だけ、櫂が本当にそう思っているのだと伝わった。櫂は、続ける。    「北丘は、記念病院よりも小規模です。そして、病院の方針として、各科の連携を大切にしています。 だから、患者さまも、先生方も、看護師さんたちも、とても近くに感じます。いろいろな立場の方とお会いする機会も増えました」   その言葉に、何人かがわずかに顔を上げた。   「たくさんの人と仕事をすると、本に書いてあることと違うことばかりが起きます。すごくびっくりするし、大変なこともあります。 でも、だからこそ……。 私が学んできた知識を使って、私にも、皆さんのためにできることが、まだあるのではないかと……、 記念病院にいた頃より、たくさん考えるようになりました」 櫂は、ほんの少しだけ口元を緩める。   「まだ、上手くできないことも多いです。今日だって、兄や周りの方に助けていただいています。 それでも、これからは少しずつ、皆さんの役に立てるように……兄の隣に胸を張って立てるように、なりたいと思っています」 小さく息を吸う。 「まずは、私にできることから。 専門である脳神経領域で、より多くの患者さまとご家族に向き合えるよう努めます」 眼鏡の奥の赤い瞳が、まっすぐ会場へ向けられる。 「私が医師として生きるためは、たくさんの課題があります。けれど、兄となら、きっとできると思っています」 櫂はもう一度、深く頭を下げた。 「どうか、これからもよろしくお願いいたします」 すぐに、大きな拍手が起こる。 顔を上げた櫂は、その音に少しだけ戸惑ったように瞬きをした。すると隣で、航が小さく囁く。 「……やるじゃん」 兄からもらった言葉に、櫂はほんの少しだけ嬉しそうな顔で笑って返した。

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