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4-1.

祝賀会場へ続く前室で、カイは瀬戸にネクタイを直されていた。 扉の向こうから係の者が行き交う足音、開宴を待つ声など、来賓たちのざわめきが聞こえてきて、カイはどうしても落ち着かない。 「少しあごを上げてくださいませ」 「ん……きつくしないでね」 「あんまり緩いと、途中で解けるぞ」 隣の航がそう言うと、カイは唇を尖らせた。 「ネクタイきらい。スカーフが良かった」 「今日は仕方ない、我慢してくれ」 「じい〜」 「はい、心得ておりますよ」 瀬戸は涼しい顔で答え、カイが耐えられるギリギリのところで結び目を整える。 そして襟元からその手が離れると、カイは首元に触れた。心配そうに一度息を吸って、吐く。 「……大丈夫」 「さすがだな、瀬戸」 航が褒めると、瀬戸は静かに一礼し一歩下がる。 すると今度は航が、小さなケースを胸ポケットから取り出しながらカイの前に立った。 「これを」 「なに?」 ケースの中には細い銀色のネクタイピンが入っていた。全く同じものが、すでに航のタイにも留められている。 「そういえばオレ、この服初めて」 ピンをつけてくれる兄の指先を見ながら、ふとカイが言う。 「せっかくだから仕立てた」 「えっ、いつの間に……」 「お前が寝てる間に」 「兄さんのも初めて見る気がする」 「ああ、まあ……俺も作ったからな」 カイはじっと航を見る。 「あ、もしかして、おそろい?」 「お前な。子供服じゃないんだから」 「でも、似てる」 「合わせただけだ」 「おそろいだ」 「だから……」 航はそう言うと一瞬だけ黙り、息を吐いた。 それから、少し照れたように低く言う。 「……まあ、そう見えるようにはした」 すると、カイの目がぱっと明るくなった。 「兄さんと、おそろい」 「変にはしゃぐな、子供か」 そんな兄弟のやりとりを見守っていた瀬戸が、穏やかに微笑んで言う。 「それぞれのお立場と個性に合わせたお仕立てです。ご兄弟で並ばれると、とても素敵でございますよ」 「兄さんと並ぶ用?」 「ええ。 お二人がお並びになった時に一番映える様に」 カイは少し黙った後、兄と同じネクタイピンにそっと触れながら言う。 「オレ、兄さんと並んでいいんだ」 「当たり前だろ。俺たちの病院の式典だ。 お前は今や内科のエースだしな。 俺の横で、ちゃんと胸を張って立つこと。いいな」 「……うん」 櫂ははにかむように微笑み、嬉しそうに頷いた。 するとその時、前室の扉が開く。 その瞬間、中にいた使用人たちが一斉に姿勢を正して頭を下げる。航は真っ先にその方を向き、カイは慌てて眼鏡を掛けた。スッとその表情が締まる。 そのタイミングで、悠々とした様子で、当主が入室してくる。 その後ろに続くのは、親族たちと理事たちだ。 当然、記念病院の院長――兄弟の父もそこにいた。 室内の空気が、一段締まる。 航がそれらから守るように、櫂の隣に立った。 櫂もまた、兄の半歩後ろからその方へと向き直る。 当主は柔らかな笑みを浮かべたまま、二人の横を通りながらまず航を、そして櫂を見てわずかに目を細めた。 意志が宿った赤い瞳。 しっかりと一人で立っている。 ――到底、薬で持たせている様には見えなかった。   櫂は当主の目線に気づき、不安げに航を見上げる。 航は何も言わず、一度だけ頷き当主の方へと歩み出す。 櫂もまた、その後を追うように一歩を踏み出した。   通された先の椅子に腰を下ろす重役たちの前を、2人は会釈と共に通り過ぎる。 その対応は、相手が彼らの父親あっても他とは変わらない。 頭だけを軽く下げ、立ち止まることはなかった。 その刹那、父親の口元がわずかに固まる。 眉を寄せたまま投げられた冷たい視線だけが、虚しく航の背中を追う。 そして、当主の前で、兄弟は揃って立ち止まった。 はじめに航が静かに頭を下げる。 するとその瞬間、室内がしんと静まった。   「お祖父さま。本日はありがとうございます。 よろしくお願いいたします」   櫂もまた、一拍遅れで頭を下げた。 そして、しっかりとした口調で言う。   「ごきげんよう、お祖父さま。 出席の許可をありがとうございます」 響いた櫂の声に、理事たちが皆驚いた顔をする。 自然と集まる視線の中、当主は柔らかな笑みを浮かべたまま、櫂に問う。 「今日は落ち着いているようだな」 「ええ。兄さんから、立ち振る舞いを改めて習いましたので」 「ほう、随分頼もしい」 「兄に恥じぬよう務めます」 すると後ろから父親が小さく笑った。 「本当かねえ。せっかくの場で、また青い顔をして倒れられても困るぞ」 櫂は、言葉を詰まらせた。 うまい返しが見つからない、気持ちだけが焦る。 すると、その沈黙を航がすぐに断った。 「父さんこそ、余計な発言は控えてくださいね」 その声は、驚くほど穏やかだ。 「本日は、我々新院の大切な祝典です。 父さんの不用意な一言で、場を白けさせるわけにはいきません」 航の刃のような返しに、父の笑みが固まる。 一方で当主は、そんな航を諫めることなく、ただ一つ頷いて返した。   「よろしい。では、見せてもらおう」 航は父を見ずに、静かに頭を下げた。 「はい。ご期待に応えます」 櫂もハッとしたように、慌ててそれに続く。 頭を下げきったその時、航が低く言った。 「気にするな」 櫂は思わず兄を見る。 その瞳は、いつもの兄からは想像がつかないほど鋭く、冷たかった。   一方。 会場には、すでに多くの来賓が集まっていた。   北丘総合病院設立三十周年 如月北丘医療センター再編記念祝賀会   名目だけを見れば、地域医療を支えてきた病院の節目を祝う席である。 けれど、今日この場にいる者たちは、それが単なる祝賀会ではないことをよく知っていた。 三年前、経営難に陥ったこの病院を如月病院が買い取った。かつては地域に根ざした名院だったが、目まぐるしい時代の変化と、古い体制の親族経営が少しずつ病院を鈍らせた。 設備は古び、人が離れ、診療体制の見直しも後手に回る。表向きの華々しい看板は虚像でしかなく、内側は疲弊しきっていた。 それでも如月家は買収後しばらくは、現場と地域の顔を立て、院長をはじめ経営陣をそのままとし、コンサルに徹していた。急にすべてを入れ替えることで、いらぬ反発を受けることを避けたのだ。 けれど、うまくはいかなかった。 腐敗しきった幹部では経営を改善させることは叶わず、内部の対立が深まり、現場はより疲弊した。 結局、元の院長はつまらぬ不祥事で失脚し、共連れで理事の多くが退いた。医師やスタッフ、患者たちもまた、見切りをつけて離れていった。 これにより、北丘総合病院は、医療センターの名を加え、完全に如月の経営下へ置かれることになった。そしてその中心に据えられたのが、航だった。   「若さまも、貧乏くじを引かされたものね」 婦人の一人が、扇の陰で小さく言った。 「ですが、他に適任が……」 「あのお父上では、難しいでしょう」 「まあ、そのようなこと」 序列で言えば、当主の次に立つのは本院である如月記念病院の院長――つまり兄弟の父である。 だが彼は、医師としても経営者としても実績に欠ける。一方で、メディア活動を強く好み、気さくな院長として高い評価を得ていたが、それでは北丘病院は救えない。 そこで経営の立て直しに際して白羽の矢が立ったのが、その息子、航だった。 若すぎる院長の就任に、不安視する声も多々あった。が、航は見事に当主の期待に応えた。 就任後、たった2年で廃業の危機を脱したのだ。 以降、北丘病院は如月の中では新病院という通称で呼ばれるまで育った。 未だ人手不足は解消しきれていないが、地域のためを謳い抜本的に見直した診療体制により、着実に人は戻ってきている。 「本院から人を動かすにしても、若さまを立てるのが一番合理的だったのでしょうね」 「若さまのためなら、と仰る方は多いですもの」 「実際、最近はかなり評判を戻しているとか」 「ああ、小児科なんて最たるものですよね」 その言葉に、何人かが頷いた。 「このあたり、新しいマンションが増えましたものね。若いご夫婦やお子さま連れも多いでしょう」 「若さまはもともと小児科でいらっしゃるから、よく分かっておられるのでしょうね」 「希望すれば、親御さんもお子さまと一緒に診ていただけるとか」 「それは助かりますわね。子どもが具合を悪くする時って、親も疲れていたりしますもの」 「小さなお子さまを連れて、別の日に内科へ行くのも大変ですし」 「さすが、目の付け所が違いますわ」 航への評価が、そこでまた勝手にひとつ積み上がる。そして、航こそが当主の懐刀なのだという認識もまた、少しずつ広がり始めていた。   有事の際は、父親を差し置いてでも航を使う。   新病院立て直しの成功をもって、それはもはや皆の共通認識となりつつあった。   「ところで、脳神経部門がかなり変わったと伺いました」 するとふと、また別の話題が提供される。 「若さまが院長になられて、かなり改革したと聞いたよ。設備も全て入れ直したとか」 「ええ。元いた先生は皆辞めてしまったそうよ。 今いらっしゃる皆さんは、院長先生に惹かれて集った、記念病院の若手の先生方だと伺いましたわ」 「いやいや、卯月先生の力だろ? 記念病院にいた頃から、あの人の腕は有名だった」 「院長の御学友で、記念病院でのキャリアを捨てて二つ返事で来られたとか」 「まあ。院長先生は交友関係まで素晴らしいのね」 「どちらのお家の方なのかしら。 気になりますわね」 空気が少し華やいだところで、ふと誰かが言った。   「そういえば、弟君は脳神経内科がご専門と伺いましたが、ご存知?」 その言葉に、会話がわずかに止まる。 「櫂さまが?あの人、お身体が弱いでしょう。 現場に立っていらっしゃるのかしら?」 「……確かに、外来でお見かけしたという話は聞きませんね」 「難症例のコンサルと聞きましたわ」 「なるほど、あの家らしいうまい方便だ」 皆の声が一段下がり、密やかなものに変わっていく。いけないと思いつつも、一度話題に出てしまえば自然と話題が広がっていってしまう。 「あの弟君は……、ねえ」  「前に拝見したのは、新院の院長交代のお披露目でしたかしら」 「ああ、あの時」 「付添いの方にぴたりとくっついて、ひと言もお話しにならなかったわね」 「顔もほとんど上げなかったでしょう」 「途中で退席なさったとか」 「ご持病があるとは伺っていますけれど……」 扇の陰で、声がさらに低くなる。   「それにしても、あれでは」 「公の場にお出しするのは、難しいでしょうね」 「若さまは、新病院だけでも大変でしょうに、弟君のお世話までなさっているのね」 「お父上もアレでしょう。本当にお気の毒」 「あれほどお兄さまはご立派でいらっしゃるのに」 「同じご兄弟でも、こうも違うものかしら」 「何か少し……おかしいのではないかと、昔から」 「しっ」 さすがに行き過ぎた発言を、誰かがたしなめる。 けれど、誰も否定はしない。 如月 櫂。 名前だけは、よく知られている。 けれど、その姿は噂の中でしか形を持たない。   持病があり、公の場にはほとんど姿を現さない。 仮に出たとしても、まともに話すことも、顔を上げることも、一人で立つことすらままならない。 航の足を引く、厄介な存在。   「今日はお出になるのかしら」 「新病院の祝典だぞ、さすがに出るだろう」 「今は療養中と伺いましたよ」 「なら、またお名前だけかしら」 「無理をさせて、倒れられても困りますものね」 「せっかくの若さまの晴れの席に、弟が水を差す方がよろしくない」 その言葉に、何人かが曖昧に笑った。 気遣いの顔をした値踏み。 心配の形をした蔑み。 兄を持ち上げ、弟を下げる言葉。 それは、いつも通りの『如月櫂』の扱いだった。 するとその時、会場の照明がわずかに落ちた。 それを合図に、ざわめきがすっと引いていく。 司会者が壇上へ上がり、マイクの前に立った。 「皆さま、大変長らくお待たせいたしました」 来賓たちが、一斉に入口へ視線を向ける。   「ただいまより、如月記念病院設立三十周年祝賀会を開会いたします」 扉の前に立つ係の者たちが、姿勢を正し、司会者が声を整える。   「それでは、如月家ご当主、如月記念病院院長・如月航さま、ならびに如月家ご親族の皆さまをお迎えいたします」

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