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「……なんだこれ」
航はテーブルの上の結果表を見下ろしたまま、低く吐き捨てた。
「現時点で観測されうる、ほぼ上限だそうです」
向かいに座る満が、静かに答える。
「それはさっきも聞いた」
航は眉を寄せたまま、紙面から目を離さない。
「……問題はその先だ」
満は小さく頷くと、結果表へと視線を落とした。
「処理速度が異常に高いです。
対面課題でのみ、わずかに落ちますが……。
それでも一般基準から見れば最上位帯。つまり――」
航が、紙面を睨んだまま引き取る。
「……会話が噛み合わないことがあるのは、櫂自身のコミュニケーション能力の欠落じゃない。櫂の処理が速すぎて、周りが追いつけていないってことか」
満はその言葉に静かに頷いた。
「ええ。少なくとも、この結果はそう読むのが妥当でしょう。実際、これまでもあの子は、我々の理解を飛び越えた発想をたびたび見せてきた」
航は長く息を吐き、ソファの背にもたれかかってもう一度結果を見た。
「……マジかよ、厄介すぎるだろ」
それは一見、何かの間違いだとも捉えられない内容だが、過去の結果と照らし合わせれば正常な進化と言えてしまうのが恐ろしい。
きっと櫂は、この結果を見て、「落ちてない!やったー!」と、喜ぶだろう。
しかし、真の問題は、最早そこじゃない。
櫂の生きにくさの根源は何なのか。
兄として、まずはそれを理解してやらなければならない。そしてそれこそが、再教育を行うにあたり、最も優先すべきことだ。
しばらく黙っていた航は、やがて低く呟いた。
「つまり櫂は、常に……そうだな。
俺たち目線で言えば、幼児に囲まれて生活しているようなものか」
満が静かに頷く。
「ええ。だから話が噛み合わないんです。
櫂は、常に我々より一段高い場所で物事を処理している。我々がやっとそこへ追いつく頃には、本人の中では課題を解き終え、もう先へ進んでしまっているんです」
航は眉間を押さえた。
「……そりゃ、会話が飛ぶわけだ」
「本人に悪気はありません。
ただ、途中を説明しても無駄だと、どこかで諦めているように見えます。
それはあの子の根底にある『自分が何を言っても無駄だ』という感覚と、過程より結果を重んじる如月の教育方針、その両方の帰結でしょうね」
「だから櫂は、いつも結論だけを口にする。
こっちは余計に唐突だと受け取る悪循環か」
「ええ」
「うわ、めんどくせえし、マジで厄介すぎるな」
「ええ。それがごく一般的な反応だと思います。
でも、一人だけそうではない人間がいるんですよ」
満は淡々と答える。
航は腕を組みながらその名を口にした。
「……誉、だな」
「はい」
航はふうと息を吐いて、ソファに背を預け直した。
そして考えをまとめながら、ゆっくりと話す。
「……誉が、自分と櫂は似ているって言ってたな」
その問いに、満は一瞬だけ黙った後、頷いた。
「……ええ。今、ようやく腑に落ちました」
航が目を細める。満は静かに続けた。
「誉は、櫂と同じ高みにいるんです。
ただし、誉は適応能力も異常に高い。
自分の目線を、常にこちら側まで落として合わせることができる。
だから一見すると、普通に見えるんです」
航は、視線を左の方へと逃がしながら言う。
「……確かにあいつ、いつも妙な余裕があるよな」
「ええ」
「こっちの考えを読んだ上で、合わせてきていたということか」
「……その通りです」
満は静かに眼鏡を押し上げた。
「言ってしまえば、保育士が園児に考えを促すのと同じですね」
航の顔が露骨にしかめられる。
「……それは、だいぶ腹が立つな」
「でしょうね」
しかし、満はどこまでも冷静だ。
「しかも誉は、人を見て対応を使い分けています。
誉だけが、いつも櫂と話が通じている。
これで説明がつきます」
「……シンプルに怖えんだけど」
「同感です」
短い沈黙の後、航が視線を落としてポツリと言う。
「……だからこそ、櫂に惚れてるんだな、あいつは」
満は静かに頷いた。
「誉にとってもまた、櫂だけが理解者になり得る相手なんですよ」
そこまで言って、満はわずかに言葉を切った。
眼鏡を押し上げる。
「……いや。
もう既に、互いにそうなのかもしれません」
航の眉が寄る。
満は、淡々と続けた。
「少なくとも、仕事の上ではすでに完成しています。あの異常な手術時のコンビネーションを見れば、納得です」
航はしばらく黙り込み思考を巡らせた後、やがて低く言った。
「……そうなるように育てたんだな、あいつは」
満がはっとしたように顔を上げ、航を見た。
「櫂の才能を早い段階で見抜いて、家庭教師として教育を始めた。そのままメンターとして導いて、自分の高みまで連れてきたんだ」
「なるほど。
普通の人間ならば、折ってしまう櫂の才能を、誉は、折らず、潰さず、そこまで導いた」
航は、思わず苦笑いを浮かべながら続ける。
「……もはや、執念としか言いようがない」
満は静かに頷いた。
「ですが、櫂は明らかに生きやすくなった。
とりわけ対人面の数値の上昇は、目を見張るものがあります。仮にどんな高度な療育を受けたとしても、この跳ね方は通常あり得ません」
航は黙ったまま、再び検査の結果表に目を向けた。
満はその横で、理路整然と続ける。
「誉によって開花した櫂の才は、必ず世の中の役に立ちます。
このまま失うには、あまりにも損失が大きい。
如月家にとってではありません。
社会にとってです」
航は長く沈黙したあと、ぽつりと零した。
「…誉とは無理に引き離さない方がいい。
――つまり、結婚、か」
満は、即座に答える。
「条件がそれだけならば、むしろ安いものです」
航が顔をしかめる。
「お前な、簡単に」
「事実です」
ぴしゃりと跳ね除けたその声は、いたく冷静だった。
航はテーブルに結果表を投げ置いて、もう一度腕を組む。トントンと上腕を指先でたたきながら、目を閉じた。
満の胸に、嫌な予感が過る。
暫しの間を置き、航が口を開いた。
「いずれにせよ、次の当主は櫂がなるべきだな」
――予感的中である。
げんなりした顔をする満の横で、航は至って真面目な顔で続ける。
「櫂の思考力は特別だ。
ここまでのやつは後にも先にも、もう出ないかもしれない。だとしたら、そんな稀有な能力を持つ櫂の方が、うちの当主にふさわしい」
満はこめかみに触れながら、低い声で言う。
「トップにいちばん必要なのは、判断力と協調性でしょう。突出して思考力が高い必要はない。
もしそれが必要なら、相応しい人間を傍に置けばいいだけです。たとえば、櫂や誉のような」
「……なるほど」
航は頷いてしばらく黙っていたが、やがてまた低く呟いた。
「……だとしたら、誉を補佐に置いて、櫂を当主に。俺は別の立場で支える道を探した方が、家のためには――」
満が深々とため息をついた。
そして、航の顔を見る。
嫌らしさも卑屈さもなく、心からそう思っている顔だった。
――そう、この男はそういう人間なのだ。
純粋に如月家単位で物事を考えている。
彼にとっては、自分ですらそれを成り立たせるためのパーツでしかない。
「あなたはあなたで、急に馬鹿なことを言い始めますね」
航が眉を寄せる。
「しかし、能力が高い方が上に立つ適性があると考えるべきではないか?」
満は即座に首を振った。
「そんなことはありません」
一拍置いて、淡々と続ける。
「櫂は、思考力こそ最上限です。
ですが、協調性と判断力は赤ん坊ですよ」
さすがに航の顔が引きつった。
「……そこまで言うか」
「あなたが、馬鹿なことを言い始めるからです」
そして満は、冷たく言い切った。
「いくら頭が良くても、一般人と話がかみ合わない人間が上に立てば、組織は腐ります。
トップに求められるのは、思考力、判断力、協調性、そのバランスの良さです。その点において、貴方の右に出るものはいないでしょうね」
未だ航が腑に落ちない顔をしているので、満はまた深くため息をつく。
それからまっすぐ航を見て、続けた。
「百万歩譲って、櫂の方が能力的に当主に相応しいとしましょう」
「いや、そんなに譲らなくても」
「けれど、あの子にはそもそも適性がないんですよ」
「……適性?」
「そう。櫂は当主になることを望んでいない。
櫂が望んでいるのは――」
そこまで言われて、ようやく航は気がついたようだった。
はっとしたように目を大きく開き、言葉を繋ぐ。
「誉との、結婚」
「すなわち、如月家からの脱出です」
「……」
「しかし、あなたは当主になりたいんでしょう?」
航は、改めて満の瞳をしっかりと見据えた。
そして、即答する。
「当たり前だ。そのために生まれてきたんだ」
満はふっと笑い、そして眼鏡を押し上げて言った。
「――なら、あなた以上に当主に相応しい人間はいませんよ。これまでも、これからも……ね」
航は、静かに目を伏せた。
もう一度、櫂の検査結果を一通り見つめ直してから、そっと紙を閉じる。
それからもう一度満に視線を戻し、人懐っこく笑んで返した。
「ありがとう、満」
満は小さく肩を竦めて返し、航がたたんだ用紙を手に取った。
そして静かに立ち上がると、
「さて、櫂がお待ちかねです。
結果教えて差し上げましょう」
とだけ言って、静かに内扉へと向かい始める。
航も頷いて、その背を追った。
病室では、カイはちょうどゼリーを食べ終えたところだった。
2人の姿を見つけるや否や、すぐに尋ねてくる。
「結果は!?」
満は余計な前置きをせず、手にしていた結果表をそのまま差し出した。
「どうぞ」
カイはそれを受け取ると、膝の上で紙を広げる。
カイの視線が上から下へするりと走り、次の瞬間、顔がぱっと明るくなった。
「下がってない!やったー!」
あまりにも予想通りの反応に、航は思わず無言になる。満はその横で、わずかに苦笑した。
カイはそんな二人の温度差など気にも留めず、嬉しそうに結果表を見つめ直した。
「よかったあ。
なんか、もっとひどいことになってるかと思った」
「酷いどころの騒ぎじゃねえよ、これは――」
「航」
言いかけたところで、満が首を静かに横に振る。
「それは、櫂にとって興味のないことです。ほら」
櫂の顔から、長くこびりついていた不安が、明らかに剥がれ落ちていく。
航はそんな弟をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐いて頷いた。
「ともかく、お前の心配事はこれで一つ片づいた」
カイが顔を上げる。
航はベッド脇まで歩み寄り、いつもの調子で言う。
「あとは祝賀会に向けて、やるぞ」
その言葉で、カイの表情が、確かに変わった。
赤い瞳が、みるみるうちに自信に満ちていく。
「うん」
素直に頷いてから、少しだけ身を乗り出す。
「オレ、いける気がする」
それは、迷いのない声だった。
「……切り替え早ぇな」
「だって、下がってなかったし」
「理由が単純すぎるんだよ」
「ふふ、ほんと、よかったあ」
「って、聞いてねえし」
その様子を見守っていた満が、穏やかに言った。
「……これで下準備は完了ですね」
その後の三日間は、思っていたよりもずっと忙しかった。
入室の順番。
立つ位置。
挨拶のタイミング。
話し方、受け答えの仕方、力の抜き方。
誉の資料を軸に、必要なことだけを一つずつ詰めていく。
カイはその都度、必要なことを頭へ入れ、反復し、一つずつ着実に自分のものにしていった。
勿論、最初から全部うまくいったわけではない。
途中で言葉に詰まることもあれば、聞かれる順番が変わっただけで混乱し、黙り込むこともあった。
けれど、そのたびに航が噛み砕き説明し、満が整理し、瀬戸が休ませ、誉の資料がまた道筋を示した。
昨日できなかったことが、今日はできる。
今日ぎこちなかった返しが、明日には自然になる。
三日目の夕方には、迷わず動けるようになっていた。
窓の外は、ゆっくりと夜の色へ変わりつつある。
最後の確認を終えたカイは、資料を胸の上で抱えたまま小さく息を吐いた。航が、声をかける。
「……いよいよだな」
カイはそれに小さく頷くと、そっとポケットの中へ手を挿し入れた。
触れたのは、誉が残したキーケースだ。
それを掌の中でぎゅっと握る。
明日は祝賀会だ。
きっと、一世一代の大舞台になる。
――絶対、うまくやる。うまくやれる。
そして、誉のもとに帰るんだ。
櫂はもう、何も怖くはなかった。
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