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3-32.
ベッドの背を立て、オーバーベッドテーブルが掛けられた。
瀬戸が慣れた手つきで位置を微調整し、カイの肩に柔らかいストールを掛けてやる。
検査なので、ウサギは瀬戸によって回収されてしまう。その瞬間だけ、カイは寂しげにキュッと唇を結んだ。
その向かいには試験官が座り、その少し後ろに航と満が立つ。病室の中は静かなのに、空気だけがどこか張りつめていた。
そんな中で、カイだけが妙に落ち着いている。
テーブルの上を一度見渡してから、ふと思い出したように顔を上げた。
「じい、眼鏡」
「かしこまりました」
瀬戸はすぐに枕元のケースを取り、いつもの赤い眼鏡を差し出す。カイはそれを受け取ると、目を閉じてすっと掛けた。
次に赤い瞳を開いたときには、さっきまでどこか柔らかかった雰囲気は消え、その視線が一気に鋭くなる。その瞬間、空気が一瞬だけ、ぴり、と張った。
航がわずかに眉を動かす。
「……久しぶりだな、この感じ」
満も静かに目を細め頷いた。
「ええ」
――だが、その緊張は長くは続かなかった。
カイはすぐに瀬戸の方へ手を伸ばすと、いつもの甘えた口調で言う。
「じい、あれも」
「はい」
今度は瀬戸が、大きめのペン立てをテーブルへ載せた。中には色違いのペンが何本も入っている。どれもカイが普段から使っている、お気に入りのものばかりだ。
その途端、カイの表情がわずかに緩んだ。
久しぶりに出してもらえたそれを、一本抜いては戻し、また別の一本を指先でくるりと回す。
ご機嫌そうにそれをいじりながら、向かいの試験官ごしに兄を見て問う。
「兄さん。
今日は忖度なく普通に答えていいんだよね」
航が即座に顔をしかめる。
「忖度ってなんだよ」
カイはごく普通のことのように、あっさりと言った。
「調整もできるけど」
「検査で調整とか、意味がわからん。普通にやれ」
「……なるほど。りょーかい」
そう返した後、カイは手の中のペンをくるりと回した。それからどこか楽しそうに腕まくりをして、元気に言った。
「よーし。オレ、本気出しちゃうぞ〜」
航は反射的に顔をしかめる。
「真面目にやれ」
しかしその横で、満だけが静かに返した。
「……いえ。
恐らく、ご本人は大真面目だと思いますよ」
そんな中、検査官が小さく咳払いをし、検査用紙を整える。
「では、始めます」
その一言で、病室の空気が一段強く張り詰めた。
カイはもうペンを弄るのをやめ、背筋を伸ばしながら向かいの検査官をじっと見つめる。
その強い視線を受けながら、検査官が最初の設問を読み上げた。カイは真っすぐ前を向いたまま、最後まで聞くより少し早く、答えを口にする。
試験官が、わずかに声を震わせながら、言った。
「……正解です」
次の問題。
これもまた、ほとんど間を置かずに返る。
口頭で出される問いにも、冊子を開いて見せられる課題にも、カイは驚くほど速く反応を示した。
考え込む様子はない。
迷う顔もしない。
ただ、目の前の課題をそのまま処理していく。
それは不自然なほど速く、しかし、ごく自然な問答だった。
航は腕を組んだまま、だんだん眉間の皺を深くしていく。
「……嘘だろ」
小さく漏れたその一言に、カイは反応しない。
図版を使った課題では、冊子が開かれた瞬間に赤い瞳が一度だけ左右に揺れた。
それからすぐに、あっさりと答える。当然、正解。
さらに次の課題では、
「十五秒見てください」
そう言われたが、最初の数秒で大半を取り終えてしまったようだった。
すぐに退屈そうな顔で、次の指示をじっと待つ。やっと時間が来て、試験官が次の設問へ移る。
対してカイは、ほとんど間を置かず答える。
一問。
二問。
三問。
連続する問いを、まるで日常会話のような速さで返していく。
そのうち、明らかに試験官の方が遅れ始めた。
問題冊子をめくる手が。
次の設問を拾う目が。
確認のための一拍が。
――少しずつカイの処理に追いつかなくなる。
そのたびにカイは、じっと相手を見て待つ。
急かしているわけでも、煽っているわけでもない。
ただそうやって静かに待っているだけなのに、その視線には、妙な程の圧があった。
満は腕を組んだまま、ほとんど表情を変えずにそれを見ている。
だが、複雑な数式の問題を即座にカイが答えたその時、眼鏡の奥の目だけが、わずかに細められた。
「……早いですね」
ごく小さく放たれたその言葉に、航は答えなかった。
規定時間の半分ほどが過ぎた頃には、すでに終盤の課題に入っていた。全問解答をしていることを考えれば、異常な速さだ。
検査官の指先が、問題冊子の端でかすかに震える。
カイは相変わらず素知らぬ顔で、無邪気に次々と設問に答えていく。
そして、想定よりも大きく時間を残し、とうとう検査が終了した。
試験官が最後の用紙を閉じ、小さく息を吐く。
「……これで終了です。おつかれさまでした」
その瞬間、カイの顔がぱっと明るくなった。
「結果、どうだった?」
航が即座に顔をしかめて諌める。
「そんなにすぐ出るわけねえだろ」
だが、その横で記録用紙を見つめたまま固まっていた検査官が、低く口を開く。
「……いえ。詳細な集計と所見の整理は必要ですが、全体の傾向はもう見えています」
その一言に、室内の空気が更に張り詰め、検査官に皆の視線が集まった。
「えーっ」
ーーが、そんな中でカイが露骨に不満そうな声を上げた。
「速報でもいいよ、おしえて」
しかし満が静かに眼鏡を押し上げながら、結果を急かすカイの方を向く。
「いけませんよ、カイ。
検査の結果は、確定診断以外あまり意味をなさない。あなたご自身が、一番よくご存じでしょう?」
「うっ」
ぴしゃりと返されて、カイが言葉を詰まらせたその隙を逃さず、瀬戸が一歩前へ出た。
「坊ちゃま、お疲れでしょう。
結果をお待ちの間、少しお休みいたしましょう」
「えー、全然疲れてないよ」
瀬戸はふくれっ面でそう言うカイの横で、ペン立てを片付け始める。
「坊ちゃまに、お見舞いが届いております。
一番お好みなゼリーだそうですよ」
その言葉に、カイの目がぱちりと開く。
「ブドウのやつ?」
「はい」
「緑色のだよ?」
「ええ、左様でございます」
その答えに、カイの顔がすっかり明るくなった。瀬戸が差し出した手に眼鏡を置きながら、
「じゃ、休んであげてもいいかな」
と、ご機嫌に返した。
瀬戸は静かに目を細める。
「ええ。すぐにご用意致しましょうね」
そのやり取りを見届けてから、満が静かに検査官へ向き直った。
「先生。詳細な分析は、院長室でお願い致します」
検査官はまだどこか緊張の抜けきらない顔で、抱えていた記録用紙を見下ろしたまま頷く。
「……はい」
航は腕を組んだまま、小さく息を吐いた。
「そんな顔されると、逆に聞きたくなくなるな」
その言葉にも、試験官はすぐには返せなかった。
それは、完全に動揺している人間の素振りだった。
満はそれ以上の追及はせず、踵を返す。
「参りましょう」
その言葉に検査官が慌てて資料を抱え直し、航も無言のままそれに続く。
三人が病室を出ていく直前、カイがベッドの上からひょいと顔を上げた。
「ねえ、ちゃんとあとで教えてよ」
航は振り返りもせず、片手だけ軽く振った。
内扉が閉められると、室内に静けさが戻る。
カイは瀬戸から受け取ったうさぎを抱え直しながら、少しだけ唇を尖らせた。
「……でもさ、速報くらい、いいじゃんね」
「まあ、宜しいではありませんか。
すぐに分かりますよ」
「結構できたと思うんだよ」
「ええ、とても上手にお答えでしたよ」
「でしょ」
カイはそう得意げに言った後、瀬戸がテーブルに載せてくれたゼリーを見て目を輝かせた。
「おかわりある?」
「ええ、ございますよ」
カイは嬉しそうに微笑み、スプーンで控えめに掬って、口に放り込んだ。
その頃、脳神経外科の医局では。
誉はモニターの脇で書類を広げたまま、万年筆を手にしていた。
仕事をしながら流し見しているだけのはずだった。だが実際には、視線のほとんどが画面に吸われているし、我慢しきれずにイヤホンも装着している。
モニターに映っているのは、執務室のベッドの上で検査を受けるカイの姿だ。
赤い眼鏡を掛け、まっすぐ検査官を見返しながら、問いに次々答えていく。
久しぶり聞いたカイの話し声に、胸が高鳴る。
まるで小鳥のさえずりのように可憐で、そして――。
「……一生懸命答えてる……かわいい……」
思わずそうぽろりと零れた己の独り言に、少しだけ笑ってしまった。
次の設問。
また即答。
するすると正答して行くカイ。
「え、やばい……かわいい……」
さらに次。
今度は少しだけ待って、それから答える。
やや苦手な情緒を問う対面問題だ。
それでもしっかり当ててきた。
「はあ……ほんとお利口さんでかわいいなあ……」
見事なまでの回答に、思わず息が漏れる。
「誉センセ」
「……」
「誉センセ」
「……」
「誉センセ!」
「えっ」
ようやく顔を上げた誉を、山川がじとっとした目で見ていた。不満げに眉を寄せ、低く言った。
「三回呼びましたけど」
「ん?ああ、ごめんごめん。どうかした?」
誉は口ではそう言いながらも、その視線はすでにまたモニターへ戻りかけている。
山川はますます不満げだ。
「さっきからずっと、何見てるんすか。
ていうか、顔の緩み方やばいっすよ」
「なんでもないよ」
「いや、絶対なんでもなくない顔っす」
そうつっこまれても、誉は動じない。
むしろ太々しい程ニコニコとしたまま答えた。
「ほら、それで?
僕に用があるんだろう?」
「……ここ、ハンコお願いッス」
「了解」
気持ち半分はモニターに向けたまま、仕方なく山川の資料を確認し、承認印を押す。
ひらひらと手を振りながらその背中を見送ってから、誉は懲りもせずもう一度モニターに全意識を向けた。
ちょうど、検査が終わったところだった。
結果を知りたがって、口を尖らせるカイ。
けれど次の瞬間、ゼリーの話が出た途端、ぱっと顔が華やいだ。
誉はその変化を見て、ふっと目を細めた。
「……みどりのぶどう、ホント大好きだね。
かわいい」
ごく小さくそう呟いてから、モニターの中のカイを見つめる。
「……喜んでくれて、良かった」
まだ何も知らない顔で、すっかり機嫌を直している。その様子が、可愛くて、愛しくて、どうしようもなかった。
「ふふ、検査官の人、完全に引いてるな
……さすがだね、カイ」
その時、背後からまた声が飛ぶ。
「誉センセー、術前カンファ始まるっすよー」
その声に、誉はようやく視線をモニターから外し、イヤホンを置く。
「ん、はいはい」
そう返しながらも、最後にもう一度だけモニターへ目をやる。
向こうでは、ゼリーを待ちながらカイがうさぎを抱え直していた。
誉は小さく口元を緩めたまま、少しの名残惜しさを感じながら、モニターをぱちんと閉じた。
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