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3-31.
次にカイが目を覚ましたのは、ちょうど看護師が点滴を片付けているところだった。
窓の外は、もうすっかり暗い。
どうやら、かなり長く眠っていたらしい。
カイは、ぼんやりと軽くなった腕へ目をやる。
そこでようやく、いつもの姿が見えないことに気がついた。
「……じいは?」
看護師は手元を整えながら、やわらかく答える。
「瀬戸さんは、お休みになられてますよ」
「……おやすみ?」
カイが怪訝な顔をした、その時だった。
内扉が開いて、航が入ってくる。
「兄さん、じい、調子悪いの?」
すぐにカイが問いかけると、航は肩を竦めながらすぐに答えた。
「腰やって、強制安静」
「えー」
カイは素直に眉を下げた。
「……じいってば、いっつも無理するんだから」
その言葉に、航はぴくりとこめかみを引きつらせる。
「誰のせいだと思ってる」
「兄さん?」
「お前だよ!!!!」
静かな室内に、全力での航のツッコミが響く。
看護師は一瞬だけ目を逸らしたが、すぐに何事もなかったように点滴台を押して出ていった。
それと入れ替わるように、夕食のワゴンが運び込まれる。カイの前には、少量の粥と、やわらかく煮た副菜が並ぶ。昼間と同じく、少しずつ分けられた食事だった。
一方、航はコンビニ袋を提げたまま、当然のようにベッド脇の椅子に腰を下ろした。
そしてカイのオーバーベッドテーブルの端っこにコンビニの袋を置いて、ごそごそと中身を取り出していく。
出てきたのは、ハンバーグ弁当。
それから、ホットスナックの唐揚げとフランクフルト。カイはそれを見て、思わず顔をしかめた。
「……肉しかないじゃん」
「あるだろ、ここに」
「ブロッコリー、1個だけ」
「ポテトもある。野菜だ」
「じいが見たら、"これはいけません"って言いそう」
「絶対言う」
航は唐揚げの袋を開けながら、さらりと続けた。
「だから今のうち。言うなよ」
カイはじっとその弁当を見つめながら、小さく言う。
「……なんか意外。
兄さんは、こういうの、食べないと思ってた」
「そうか?学生の時はよく食ってたぞ」
「なんか、いつもきれいに整った仕出しのお弁当を食べてるイメージ」
「あー……。
家で用意させると、どうしてもそうなるんだよな。いや、普通に飽きるんだよ、あれ」
航は箸を割りながら、淡々と続ける。
「結局いつも入ってるもん一緒だろ。
コンビニは商品入れ替えが早いから、楽しくていい。あと味が濃くて目が覚める」
「じいが聞いたら……」
「いけませんって言うだろうな」
二人はそう言うと小さく笑い合い、揃って箸を取った。
「で、お前は?」
航は、唐揚げにかぶりつく前に、カイの前の盆を顎で示した。
「食えるか?」
カイは小さく頷く。
「うん、おかゆたべる」
「無理して食べなくても、いいからな」
一瞬だけ、カイの動きが止まる。
けれどすぐに、こくりと頷いた。
「……だいじょぶ」
航はそのまま、弟の様子を伺う。
そしてカイが一口目の粥を口に運んだところで、ようやく自分も箸を動かした。
「今日は調子良かったのに。なんでかなあ」
粥を飲み込んだあと、カイがぽつりと零す。
航は几帳面に箸でハンバーグを切り分けながら、淡々と答えた。
「昨日から若干気にはなってたが……。
食う量を急に増やしすぎたのが原因だろ」
「あー……」
「あー、じゃない」
航は呆れたように眉を寄せる。
「食事を増やそうとするのは良い心がけだ。
だが、無理をする必要はない」
するとカイは、すぐに不服そうに口を尖らせた。
「前のとき、元気になったのに、食べられなくて退院させてもらえなかったじゃん」
「食べられないってことは、元気じゃねえんだよ」
「それって堂々巡りじゃん……」
納得いかない様子で言い返すカイに、航は深々とため息をついた。
「堂々巡りで結構。頭だけ元気でも、身体がついてこなければ意味がない」
「……でも、今日はほんとにいけると思ったし」
「お前の“いけると思った”は、いけた試しがない。
むしろ、一番危ないんだよ」
ぴしゃりと返されて、カイはしぶしぶ口を閉じた。
しばらく、二人とも黙って食べ進めた。
カイは粥を少しずつ、慎重に口へ運ぶ。
吐き気が起きそうな様子もなく、ほっと息をつく。
やがて航が、再び深く息を吐き口を開いた。
「……わかった」
カイが顔を上げる。
航が、箸を置きハンカチで口を拭いながら続ける。
「今回は、食事量は退院の条件に入れない」
「え、いいの?」
ぱっと表情を明るくする弟に、航はすぐ釘を刺す。
「ただし、退院後の継続フォローが条件だ」
「げえ、めんどくさ」
「当たり前だ」
航は素っ気なく言ってから、付け足した。
「まあ、何とかなるだろ。ーー誉もいるしな」
続いたその一言に、カイの目が輝く。
「それって、退院したら誉と結婚してもいいってこと?」
「飛躍すんな。そこはまだ無理」
「ちぇ」
露骨に口を尖らせるカイに、航は呆れたようにハンバーグを口へ運ぶ。
「だから、無理だけはするな。
おかしいと思ったらすぐに言え。
俺でも、瀬戸でも、満でもいい。
頼むから、一人で勝手な判断をするのはやめろ。
お前は今、医者じゃない。患者なんだ」
カイはしばらく黙って考えた後、小さく頷いた。
「……わかったよ、兄さん」
その返事を聞いて、航はようやく肩の力を抜いた。
食事を終えて少し経ち、歯磨きをすると言い残して洗面所に向かった弟を、どこかソワソワしながら航はベッド横で待っていた。
手持ち無沙汰にスマホをスワイプしていると、小さく扉が開く音がする。その表情と足取りを見て、今回は大丈夫だったのだろうと悟り、人知れず胸をなで下ろす。兄のそんな気持ちなどつゆ知らず、カイはそのままベッドへと腰を下ろした。
本人もまた、安心したのかうさぎを抱き寄せた。
沈黙の後、カイがぽつりと呟く。
「……じい、大丈夫かな」
「一晩寝りゃよくなるだろ」
「じゃあ、今夜、じい来れないんだね……」
航は呆れたように眉を寄せる。
「……お前な。普通に来させる気だったのかよ」
カイはきょとんと目を瞬いたあと、何でもないことみたいに言う。
「だって、じいがいないと眠れない」
「わがまま言ってないで、さっさと寝ろ」
カイはしぶしぶ布団に潜り込むが、やはり不安げにウサギを抱き直す。
「どうしよ……」
すると航は、ものすごく深いため息をついた。
そして、すっと立ち上がる。
カイが「えっ」と言う頃には、もう航はジャケットを脱ぎ、ネクタイも外していた。
そして、そのまま何でもない顔でベッドへ入ってくると、さも当然の様にカイの身体を引き寄せてくる。
「……何してるの」
「お前がうるせえからだろ」
ぴしゃりと言いながらも、航の手は迷いなくカイの背中を軽く叩き始めた。
とん。
とん。
それは一定の、落ち着いたリズム。
カイはもう何も言わなかった。
大人しく兄の胸元へ鼻先をくっつけて、うさぎをぎゅっと抱き締める。兄の体温に包まれて、さっきまでの不安な気持ちが嘘のように消えていく。
そのまましばらく、カイは背中を叩く兄の手の動きをぼんやり感じていた。規則正しいそのリズムが、だんだん眠気を引っ張ってきた。
そしてまどろみの中で、ふと気づく。
――あれ?
さっきまで背中を叩いていた手が、いつの間にか止まっている。
カイはそっと顔を上げた。
兄はもう、すっかり眠っていた。
小さく呼んでみても、返ってくるのは寝息だけだ。
カイはしばらくその寝顔を見ていた。
すると、兄が眠ったまま小さく「ううん」と呟いた。同時に、その眉がぎゅっと寄る。
カイは少しだけ考えた後、そんな兄の背中にそっと手を伸ばした。
……とん、とん。
少しだけ遠慮がちに、その背中を叩いてやる。
「……だいじょぶだよ。兄さん、いいこ、いいこ」
そして、小さくそう言った。
すると、その眉間の皺が緩んだ。
カイはそれを確かめると、また兄の胸元へ頬を寄せた。 うさぎを抱いたまま目を閉じる。
そして、兄の静かな寝息に引きずられ、素直にすとんと深い眠りに落ちていった。
翌朝の食事は、昨日と同様に、少量ずつの器で運ばれてきた。そのワゴンを押してきた瀬戸が、いつもと変わらぬ様子だったので、カイはほっと息をつく。
「……じい、心配したんだよ」
瀬戸は食事の用意を整えながら、静かに目を細める。
「恐れ入ります」
そのやり取りを見ていた航が、呆れたように肩を竦めた。だが、カイはそんな兄には構わず、どこか得意げに続ける。
「オレ、じいがいなかったけど、ちゃんと寝られたよ」
「それはようございました」
優しくそう微笑み返す瀬戸に、
「いや、代わりに俺いたし」
と、即座に航が横から口を挟む。それでもカイは、ウサギを抱えたまま、さらりと続けた。
「兄さんはね、じいがいないからってお肉ばっかのコンビニ弁当食べてた」
「おい、言いつけんなっつったろ」
「あと、また寝落ちしてた」
「こら、言うな」
「おや、それはよろしくないですね」
瀬戸は穏やかにそう返して、何もなかったように朝食を並べ終え、カイの前へ盆を整える。
カイは昨日よりも落ち着いた手つきで粥を口へ運んだ。ゆっくりではあるが、無理なく食べられている。
食べ終えた後も、しばらく様子を見たが、吐き気は来なかった。カイが無事に歯を磨いて戻ってきたところで、ベッド脇で腕を組んでいた航が、ようやく頷く。
「……よし。これなら大丈夫だろう、検査するぞ」
カイは一瞬きょとんとしたが、意味が繋がるとすぐに表情をぱっと明るくする。
「わーい、やったぁ!」
その勢いのまま、うさぎを抱え直して小さく拳を握る。
「よし、オレ、頑張っちゃうぞ」
すると航は、即座に眉をひそめ諌める。
「変に頑張りすぎなくていい」
瀬戸が、朝食の盆を下げながら静かに言い添えた。
「気持ちを落ち着けて、お受けくださいね」
それらに、カイは素直に頷く。
「うん、めっちゃ頑張る」
航は呆れたように額を抑えながら、肩を落とした。
「……人の話を全然聞いてないな、こいつは」
その横で、瀬戸がわずかに苦笑した。
「おやおや。よろしくないですね」
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