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3-30.

カイは軽く胃のあたりを擦りながらベッドへ戻り、何事もなかったようにまた資料を開いた。   きちんと読めるその感覚が嬉しくて、夢中でページをめくり続ける。   途中、何度か胃が重たいような気もしたが、一度吐いたからだと軽く考え、すぐに意識は文字へ戻る。  今のカイにとっては、それよりも、また読めることの方がずっと大事だった。 そうやってしばらく同じ姿勢で読み続けていたせいか、昼が近づく頃には、さすがに少し身体がだるくなってきた。目の奥もじんわり重いし、耳の奥でうっすらと耳鳴りがするような気もする。   「……ん」 けれど、それでもカイはあまり深く考えなかった。 朝はいつもより食べられたとはいえ、量としてはたかが知れている。なら、少しふらつくのも、多分軽い貧血みたいなものだろう。 少しでも食べれば治るはずだ――そう結論づけて、また資料に目を戻す。 しばらくして、部屋の扉が静かに開いた。  瀬戸が、昼食を載せたワゴンを押して戻ってくる。   その物音に顔を上げたカイは、ぱちりと瞬いてから、小さく息をついた。昼食もまた、朝と同じように小さな器がいくつも並んでいた。   「また、これ?」 そのどこか嬉しそうな声に、瀬戸は目を細める。 「こちらの方が、お召し上がりになりやすいかと」 カイは素直に頷いた。 少し胃が気持ち悪い気もしたが、一皿ずつならいけそうだ。   「お昼は何個?」 「まずは四つほど、お願いいたします」 カイはワゴンの上を見て、少しだけ考える。 「……これ」 まず指さしたのは、温かい中華粥だった。 「かしこまりました」 瀬戸が手際よく盆へ移し、食べやすい位置に整える。カイは箸を取ると、ひと口だけ口に入れた。 少しだけ、胃が落ち着くような気がする。   「……おいしい」 「左様でございますか、良かったですね」 その後も、カイは瀬戸から勧められるまま、二つ目の皿にも手を伸ばした。 柔らかく煮た野菜も、豆腐も、温泉卵も思ったより抵抗なく喉を通る。食べ終える頃には、さっきまでの胃の重たさも少し和らいだ気がした。   「……たべられた」 ぽつりと呟くと、瀬戸が穏やかに頷く。 「ええ。大変良く召し上がられました」   そんな瀬戸の言葉が嬉しくて、カイは少しだけ口元を緩めた。 やっぱり、軽い貧血みたいなものだったんだ。 食べて少し楽になったことで、カイはそう思い込み安心してしまった。 カイはワゴンの上を見て、少しだけ迷う。 「……これも、たべる」 追加で指したのは、茶碗蒸しだった。 「かしこまりました」   瀬戸はそれを盆へ載せ直し、黙って差し出す。 カイは素直に受け取って、ゆっくり口へ運んだ。 昼もちゃんと食べられた。 それだけで、胸の奥がまた少し明るくなる。   「今日は、割といいかも」 「左様でございますか」 カイは満足したように小さく頷いた。   食後、瀬戸が食器を片づけているその傍らで、カイはまた資料を開いた。 読むことが楽しくて、つい夢中になる。けれど、数ページ進んだあたりで、ふと手が止まった。 「……ん」 さっき一度軽くなったはずの胃が、またじわりと重い。食べたばかりだからだろうか、と一瞬思う。 一方で、まだ耳鳴りも残っている。目の奥も、ぼんやり熱っぽい。 ――ちょっと、飛ばし過ぎたかな。 少し休めば落ち着くか。   そう思い直したカイは、椅子にもたれ直すようにして浅く息を吐く。 「……だいじょぶ」 自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。  不意に、喉の奥がひくりと引きつる。 「……あれ」 次の瞬間、胃の底から何かがせり上がってくる感覚が走った。 カイは息を呑み、反射的に口を両手で覆う。 資料が軽い音を立てて床へ落ちた。 その音に、食器を整えていた瀬戸がすぐに顔を上げた。カイの様子がおかしい。 「坊ちゃま――」 呼びかけるより早く、カイはベッドから立ち上がった。そして、そのままふらつく足取りでトイレへ向かう。 瀬戸はすぐに後を追うと、中の様子を伺いながら、ゆっくりと扉を叩いた。 返事はなかったが、やがて水を流す音がして、内側の気配がわずかに動く。 「坊ちゃま」   低く声をかけると、少し遅れて扉が開いた。 出てきたカイは、思った以上に顔色が悪かった。 血の気だけ抜け落ちて、普段に輪をかけて真っ白だ。 「……だいじょぶ」 そう返してきた声も、ひどく頼りない。 瀬戸はすぐに手を貸そうとしたが、カイは小さく首を振った。 「ちょっと、ねる……」 そしてそのまま一歩を踏み出した、その瞬間だった。突然、その膝から力が抜け落ちた。 「……っ」 糸が切れた人形のように崩れかけた身体を、瀬戸は咄嗟に受け止める。腕の中へ落ちてきた身体は、驚くほど軽くて冷たい。   「坊ちゃま」   呼びかけても、すぐには返事がない。 薄く開いた瞼の奥で焦点は定まらず、浅い呼吸だけを繰り返している。 「……ひん、けつ……」 ようやく返ってきたその一言に、瀬戸の表情がすっと消えた。 「ただの貧血で、このようにはなりません」 有無を言わせぬ調子でそう告げると、瀬戸はそのままカイを抱え上げた。  「じい……やだ、あるける……」 「お静かに。もう結構でございます」 さすがに腰に鈍い痛みが走ったが、それでも構わずカイをベッドまで運び、そっと寝かせる。 「失礼いたします」 そして、その額に触れた。 まず、呼吸を確認する。次に脈も追う。 ――極端に乱れているわけではない。 だが、顔色が悪すぎる。それに、身体が冷たい。 瀬戸は、すぐにナースコールへ手を伸ばした。 「先生をお願いいたします。至急」 それだけ告げて、瀬戸はすぐベッドへ戻る。   その時にはもう、カイは殆ど目を閉じかけていた。呼びかけにはわずかに反応するものの、意識は明らかに沈み始めている。 「坊ちゃま、眠ってはなりません」 そう声掛けをしながらも、瀬戸は手際よく枕の位置を整え、掛け物をそっと引き上げた。 苦しくにならない角度を探って上体を少しだけ起こし、冷えた指先を包み込むように握る。 ほどなくして、内扉が開いた――航だった。 「倒れたって?」 そう言いながら足早にベッド脇へやってくると、白衣の裾を翻しながらカイの顔を覗き込む。 そして、そのまま迷いなく額へ手を当てた。続いて脈、呼吸、瞳孔の反応。 手際よく、カイの状態を拾っていく。 「急に倒れられました」 その横で、瀬戸が簡潔に告げる。 「昼食を召し上がって、資料を読んでおられたのですが、急に気分が優れなくなられたご様子で。 お手洗いから出てこられたところで、膝から崩れ落ちるように……」 「なるほど」 航は眉を寄せたまま、もう一度カイの顔色を見る。 確かに、かなり悪い。だが、呼吸はそこまで荒れていないし、脈も飛んでいない。 「……おい、櫂」 低く呼びかけながら、頬を軽く叩く。 カイはうっすら瞼を持ち上げて、焦点の合わない目で兄を見た。 「……にい、さん……」 「気持ち悪いか?」   問われて、カイは少し考えるように瞬いた。 だが、すぐには答えられない。 意識がもう半分沈みかけている。 航は舌打ちを飲み込み、布団を少しだけめくった。 手首を取る。やはり、冷たい。 続いて爪の色を見て、手の甲を軽く押す。 「……かなり冷えてるな」 それから、腹部へ視線を落とした。 「腹は?」 返事はない。代わりに、カイの喉が小さく上下した。航は顔をしかめて、瀬戸を振り返る。 「バイタルは?」 「今のところ、大きな乱れはございません」 「食事は?」 「朝も昼も、きちんと召し上がっております」 その返答に、航の眉間の皺が深くなる。 その情報が確かならば、この顔色や冷え方、意識の落ち方はおかしい。 航はもう一度カイへ向き直った。 「おい、櫂。腹痛はあるか」 「……ん……」 「どこがつらい」 「……わかん、ない……」 その声は弱々しく、ひどく掠れている。 航は小さく息を吐くと、布団をさらに下げて腹部を軽く押し始めた。 強い反発はない。押さえた時の反応も、鈍い。 「……内臓か?」 低く呟いてから、今度は顎を軽く持ち上げて口の中を見た。その瞬間、わずかに表情が変わる。 粘膜が、かなり荒れている。喉の乾きも強い。 顔を近づけたことで、かすかに香る酸のにおいに気がついた。航の視線がすっと鋭くなる。 そして、弟の顔を覗き込みながら、低く問うた。   「……お前、また吐いたか?」 低い声で問われても、カイはすぐには答えられなかった。薄く開いた瞼の奥で、その視線が泳いだ。 航はその反応を見て、確信した。 「いつからだ」 カイは、兄から視線を外しながら小声で返す。 「……ちょっと……」 「ちょっとじゃ分かんねえよ」 航は吐き捨てるように言って、もう一度口元に顔を寄せた。胃液のにおいが、ますますハッキリする。 航は舌打ちするのを寸前で堪えて、代わりに息を吐いた。 それから、意識が落ちかけている弟を見下ろす。 「櫂、朝も吐いたか?」 その問いに、カイの睫毛がぴくりと揺れた。 そして、低い声で返す。 「……ちょっとだけ……」 「馬鹿が。吐くにちょっとも何もあるか」 鋭く返されて、カイはびくっと肩を竦めた。 航は額を押さえて、短く息を吐く。 「なるほどな。食ってるように見えていたが……。 結局戻してりゃ、そりゃ倒れる」 「……申し訳ございません」 瀬戸が静かに頭を下げる。 だが、航はすぐに首を振った。 「お前のせいじゃない。 こいつが言わねえのが悪い」 だが当のカイはもう反論どころではなかった。 呼びかけられるたびに、かろうじて意識を引き上げている状態だ。 「……駄目だな」 航はそう呟くと、即座に指示を飛ばした。 「採血。あと点滴取るぞ。 脱水と貧血、両方見とく」 その言葉に、カイがうっすら顔をしかめた。 「……やだ……」 「却下」 航は差し出された医療ポーチを受け取りかけ、すぐにそれを瀬戸へと押し戻した。 「……いや、俺がやると余計暴れるな」 「私がいたします」 すぐに察した瀬戸は落ち着いた声でそう言って、ポーチを開く。が、その動きが、ほんのわずかに硬いことを、航は見逃さなかった。 「櫂」 呼ばれて、カイがとろりとした目を向ける。 「じいがやる。手ぇ出せ」 その一言で、カイの強張りが少しだけ緩んだ。 嫌そうに眉を寄せながらも、布団の上からおずおずと腕を出してくる。瀬戸はベッド脇に腰を落とし、やわらかな声で言った。 「大丈夫です。すぐに済みますからね」 そうして片手でカイの手を包み込み、もう片方で静かに準備を進めていく。 「お手々、つなぎましょうね」 ぎゅっと握られた手に、カイが小さく息を吐く。 その横に、航がぬいぐるみを押しつけるように置いた。 「ほら」 「……ん……」 カイはうとうとしながら、それでも素直にうさぎを抱き寄せた。 瀬戸はカイの細い血管を一目で見定めると、ほとんど迷いなく針を入れた。かすかな痛みに、カイが「いた……」 と情けない声を漏らす。 「はい、少しだけですよ」 低く宥める声に合わせるように、瀬戸の親指が手の甲をゆっくり撫でる。 カイはそれに合わせ、ふうと息を吐いた。 次に瀬戸は、手際よく点滴の用意を始める。   航はその様子を見ながら、ふと眉を寄せた。 やはり、瀬戸の動きが不自然だ。 そして立ち上がる時に片方へ少しだけ重心を逃がしたことから、その疑惑が確定する。 「……お前」 航が小さく呼ぶと、瀬戸が顔を上げる。 「腰、やったな?」 しかし瀬戸は、表情を変えずにさらりと返した。 「……心配には及びません」 「アホか、及ぶわ」 航は即答し、スマホを手に取る。 「この後、整形外来空ける。行け」 「しかし――」 そして手短に通話を終えると、強い口調で言った。 「十五分後に空けた。行ってこい」 瀬戸はごくわずかに目を伏せ、頭を下げる。 「……恐れ入ります」 「まったく」 航は点滴の滴下を確認しながら、眠りに落ちかけているカイと、その横で腰の痛みを隠して立つ瀬戸を、交互に見やる。 「お前ら、そういうとこだぞ」 そう苦々しく呟いた時、ちょうどノックの音がして、採血結果の速報が届いたのだ。 航は受け取った用紙を一瞥し、深く息を吐く。 「……やっぱりな。 貧血、脱水、軽い電解質の乱れ。 今日は絶対安静だ」 そして呆れたように言うと、もう一度ベッドを見た。カイはうさぎを抱いたまま、点滴の入った腕を瀬戸に支えられ、既に意識は夢の中。 「……お可哀想に」 瀬戸が静かにそう言うと、航は鼻で息を吐いた。 「可哀想なものか、人騒がせなやつめ」 それから、ちら、と瀬戸を見る。 「お前もだ。休んでくれ、ホントに」 「……かしこまりました」 その素直な返事に、航は少しだけ眉を上げた。 もう誤魔化しきれない程度には痛むのだろう。   「……まったく。二人揃って手がかかる」 眠りに落ちたカイを見下ろしながら、航は小さく肩を落とした。

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