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3-29.
翌朝、目を覚ましたカイは、小さく瞬いた。
昨夜まで胸の奥にあった重たさが、少しだけ軽い。
頭の中も妙に澄んでいて、視界まで明るく見えた。
すう、と息を吸ってみる。
昨夜より、ずっと楽に入る。
「……あ」
もう一度、吸ってみる。
昨日よりも、明らかに楽だ。
その瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。
――元気になった!
そしてその勢いのまま、半ば跳ねるように上体を起こした。
喉には多少の違和感が残っているが、昨夜までのことを考えれば、もうほとんど治ったようなものだ。
次に、枕元に置いてあった祝賀会用の資料が目に入った。ウサギのぬいぐるみを投げ捨てて、ほとんど反射のようにそれを引っ掴んで開く。
ページに視線を滑らせた瞬間、文字が塊のまま頭に入ってくるのが分かった。
そのまま一度も止まることなく最後まで読み終え、カイは夢中でページをめくった。
――読める!読める!
次第に背を丸めて、紙束に鼻先がつくほど顔を寄せ始める。それを見かねた瀬戸がテーブルを出した。
けれど、カイはまるで気づかない。
瀬戸は何も言わず、資料を持つ手だけをそっとテーブルの上へ誘導する。
ようやく少し楽な姿勢になったが、それでもカイは視線を上げることなく、夢中で文字を追い続けていた。
昨日の夜は途中からまるで頭に入らなくなっていた文章が、今朝は驚くほど自然に意味を結んでいく。
勢いのまま十ページほど読み進めたところで、ふとカイは手を止めた。
ぱたんと資料を閉じる。
それから、すっと瞳を閉じた。
今読んだ部分を最初から頭の中でそっと反芻する。
文の流れも、言い回しも、そのまま脳裏にはっきり浮かんだ。
試しに、小さく唇を動かしてみる。
ついさっき読んだ一文が、そのまま口をついて出た。ぱっと開かれた赤い目がキラキラと光る。
「……これ、これ」
思わず声が弾んだ。
ちゃんと読めて、ちゃんと頭の中に残る。
恋しかった感覚が、戻ってきていた。
嬉しくて、カイはもう一度同じことを試す――結果は、変わらない。
――よかったあ。
大きな安堵と一緒に、胸の奥がふわっと軽くなった。
そんなカイの様子をひとしきり見届けてから、瀬戸は静かに部屋を出る。
そしてしばらくして、ワゴンを押して戻ってきた。
その物音で、初めてカイの意識が瀬戸へ向いた。
視界の端に入った朝食に気づいた途端、カイの手が止まる。いつもとは異なり、そのワゴンの上には小さな器がいくつも並んでいた。
「……あ」
次の瞬間、カイは手にしていた資料をぽいっと脇へ放った。
「やった!」
思わず零れた声は、驚くほど無防備で幼い。
それを見た瀬戸は、ただ静かに目を細めた。
カイはベッドの上から身を乗り出すようにして、並んだ小鉢を見つめる。
「……これ、すき」
「左様でございますか」
白粥に、小さな出汁巻き、よく炊かれた野菜に、お豆腐のあんかけ。カイが嫌いな肉や魚は一切見えない。
好きなものだけ、しかもどれも一口二口で食べきれそうな量で、見ているだけで少し気が楽になる。
「今日は何個?」
「四つはお召し上がりください」
そうやって数で言われると、盆に並べられて出されるよりも、不思議といけそうな気がした。
カイは少し考えてから、ひとつ指をさす。
「……これ」
「かしこまりました」
瀬戸はすぐにその皿を盆へ載せ、食べやすい位置に整える。カイは素直に箸を取った。
一口食べて、また目を瞬く。
ちゃんと口の中にに入れられる。
喉もつかえないし、気持ち悪くもならない。
「……いけそう」
ぽつりと漏らすと、瀬戸は何も言わず次の皿を勧めた。白粥も、出汁巻きも、煮物も、思ったよりするするとお腹の中に入っていく。
四つ目の皿を食べ終えた時、カイは少しだけ得意げな顔をして瀬戸に言った。
「ちゃんと、食べられた」
「ええ、頑張られましたね」
――やっぱり、元気になったんだ。
カイはそう思いながら、もう一度ワゴンへ目をやる。少し迷ってから、控えめに指をさした。
「……これと、これも」
「よろしいのですか」
「うん」
瀬戸はわずかに目を細め、それも盆へ載せた。
口当たりのいいおぼろ豆腐と、新鮮な果物。
それもきちんと食べ終えると、瀬戸が静かに食器を重ねながら言った。
「二つも多く召し上がられましたね。
今日は大変よろしいですね」
その一言に、カイの胸の奥がまたもう一段、ぱっと明るくなった。
「……うん」
小さく頷いて、カイは両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
そして、満足そうに脇へ置いた資料へ目を戻した。
瀬戸が食器を下げて部屋を出ると、室内はふっと静かになった。カイはしばらく資料を読んでいたが、ふと口の中の違和感を思い出して、眉を寄せた。
そういえば、昨夜はえずいてしまって、結局きちんと歯も磨けなかった。きっと、そのせいだ。
――今ならいけるかな。
そう思ってベッドを下り、洗面台の方へ向かおうとした、その途中だった。
「……あれ」
不意に、喉の奥がひくりと動く。
次の瞬間、何かがせり上がってくる感覚に気づいて、カイは反射的に踵を返した。
そのままよろけるようにトイレへ駆け込み、便器に縋る。
「……っ、げほ……」
――唐突に、吐いた。
量はさほど多くない。
昨夜みたいに激しくえずくわけでもなく、吐ききると、すぐに波は引いていった。
カイはしばらく便器に手をついたまま、浅く息を整える。呼吸はそこまで苦しくない。
「……?」
ぼんやりした頭で、喉の奥に残る違和感を確かめる。少しひりつくが、別にそれ以上は何もない。
――まだ喉の奥に、夕べの何か引っかかっていただけかもしれない。
そう思って口を濯ぎ、試しに歯ブラシを手に取ってみる。昨日はそれだけでえずきそうだったのに、今日は普通に磨けた。
しゃか、しゃか、と小さな音を立てながら、カイはひとりで頷く。
うん、歯磨きができる。
なら、そんなに変ではないのかもしれない。
昨夜の発作の余波か、痰でも絡んだか。
喉の違和感がまだ少し残っているのも、そのせいだと思えば辻褄は合う。
「……ま、いっか」
もう一度口を濯いで、カイはあっさりそう結論づけた。そして、何事もなかったような顔で、またベッドへ戻っていった。
一方、その頃。
脳神経外科の医局から少し外れた小さな会議室では、航が資料の束を机の上に置いたところだった。
「別に院長室でよかったのに」
誉が椅子に腰掛けながら気軽に言う。
航は顔も上げずに返した。
「櫂が入ってきてしまう可能性があるからな」
横を向いて思い切り舌打ちした誉に、満が追い打ちをかける。
「そういうラッキーを狙う人もいますから」
誉は肩をすくめただけで、特に否定もしなかった。
机上に並べられたのは、瀬戸から預かった櫂の過去の検査結果だった。
一番最初は、五歳。
簡易な所見から始まり、小学校入学時、その後は一年ごとの記録が並んでいる。
誉が一枚目を手に取り、軽く目を走らせる。
「……なんか、妙だね」
「妙、とは」
満が問うと、誉は紙をぱらりとめくった。
「回数が多すぎる。
こんな小さな子供に、そう何回もやるような検査じゃないでしょ。何かあったの?」
航は一瞬だけ口を閉ざした。
言いにくそうに眉を寄せてから、短く答える。
「……櫂は、発語が遅かった。
それで、継続してフォローされていた」
「ああ、なるほど」
誉は、あっさり頷いた。
「だから小学校3年生から、回数が減ってるのか。
ここで発語の遅れは解消されたわけね」
航が頷く。誉はさらに数枚を流し見しながら、少しだけ首を傾げた。
「ただ、妙だな。
発語の遅れがあると言ったけど、言語系そのものは、ずっと悪くない。むしろ高いくらいだ」
満が静かに口を挟む。
「ええ。言語を理解はしていても、発語には至らなかった、という見立てだったようです。簡単に言えば、話せるけど話さなかった、ということです。」
「ふうん」
誉は、急に興味を失った様子で資料を机に戻す。
「まあ……あの環境じゃ、そうなるよね」
その言い方に、航の眉がわずかに動いたが、あえて何も返さない。
小学校、中学と進むにつれて、数値は全体的に高いまま安定していく。
ただ、高IQ群にはあるが、“飛び抜けている”と言い切るほどではない。
問題は、その先だった。
高校入学時の記録を見た瞬間、航の手が止まった。
「……は?」
低く漏れた声に、満も身を乗り出す。
誉だけが、さして驚いた様子もなく紙を覗き込んだ。
「おー。これはずいぶん伸びたねえ」
「伸びた、で済ませるな」
航は思わず顔を上げた。
「誤診じゃねえのか、これ」
「ええ。そのせいか、三回取られてます。
が、結果はほぼ同じですね」
満が冷静に補足する。
「多少の誤差はありますが、全体的な傾向としては変わりません」
「……こんなの見たことねえ」
航は資料を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「人類上限じゃねえのか、これ」
誉はそんな航を横目に、面白がるでもなく、ただ当然のことのように肩をすくめる。
「お前は何でそんな平然としてるんだよ」
「だって、見てればわかるもの」
あまりにもあっさりした答えに、航はますます顔をしかめた。それから、もう一度手元の資料に視線を落とす。
その時、不意に祖父の言葉が脳裏をよぎった。
――あの子は、特別なんだ。
あの時は、その持病や置かれた環境故のことだと思ったが――今は、妙に腑に落ちる。
――このことだったのか。
数字だけを追えば、櫂の方が余程自分より優秀だ。
黙り込んだ航をよそに、誉は結果の紙を指先で軽く叩き続ける。
「言語能力が跳ねてる。
たぶん、それに引っ張られて人を見る力もかなり上がってるね。ぶっちゃけ、数値だけ見たら俺とそんなに変わらないんじゃないかな」
「……それが何だ」
「相手の言葉選びとか表情とか、そういうのから、その考えをを読めちゃうんだよ。
だから、踏み出す前に自分でブレーキかけちゃう」
「読みすぎてブレーキ、ねえ」
航が低く繰り返すと、満が静かに頷いた。
「確かに、思い当たる節はありますね。
櫂は、言いかけて相手の顔を見て、そのまま黙ることがよくあるでしょう」
「……ああ」
航も渋い顔のまま認める。
誉はそこで、少しだけ口元を緩めた。
「逆に言えば、聞かれたこととか、相手が望んでるって分かれば、怖くないんだよね。だから、ちゃんと答えてくれる。それも、恐ろしく的確に。
……はあ、不器用で可愛いよねえ」
すると満が、呆れながら肩を竦めて返す。
「何を言っても結論は可愛いですね」
「だって可愛いもん」
「恋は盲目ってやつですね」
「随分と長い恋だなおい」
航が呆れたように言うと、誉は悪びれもせず微笑む。
「どうでもいいが、さっきからお前は、何でそんなに分かったように話してるんだ」
「さっき言ったでしょ。
僕と櫂の言語能力はほぼ同等なんだよ」
「……類友ですね」
誉は軽く肩をすくめた。
「ま、俺の方が周りの人間に恵まれてたんでしょ」
その言葉に、会議室の空気が、ほんの一瞬だけ静まった。が、すぐに航はそれを振り払うように、次の話題へと切り替える。
「で、今度の結果がどう出るか、だな」
「ま、良くはなってると思うよ」
誉はさらりと言った。航が怪訝そうに眉を寄せる。
「これ以上か?」
「うん。だって僕がついてるからね」
「根拠になってねえよ」
「でも事実でしょ」
満は苦笑しながら資料を揃えた。
「まあ、大きな変化点ではありますね」
「これ以上が出たら、下手をするとニュースになりますよ」
満が茶化すように言い、誉が楽しげに続ける。
「各国の研究員が押し寄せるかもね」
「やめてくれ」
航は即座にそう切り捨てる。
心から疲れ切った様子で、深くため息をついた。
少し間を置いて、誉が問う。
「で、いつできそう?」
「今日明日ってとこだな。結果が出たら連絡する」
「んー……いいや」
「おや。らしくないですね。
知りたくないんですか?」
「いや、知りたいよ。
だから、退院したら直接本人から聞く」
「本人から、ですか」
「うん。カイがきっと、ニコニコで教えてくれるから。楽しみだな」
「結果そのものより、それを本人から報告してもらうことの方に興味がおありのようですね」
「まあね。結果はだいたい見えてるし」
誉は立ち上がりながら、いかにも当然のように続けた。
「それより、新鮮な心でカイの気持ちを分かち合いたいんだよ」
うっとりと話す誉の様子に、航と満は揃って呆れたように息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。
「じゃ、そろそろ行くね」
そう言って扉へ向かいかけた誉が、ふと思い出したように振り返る。
「あ、僕も祝賀会、出ることになったから」
「は?」
航が即座に顔を上げる。
「何でだよ」
「昨日、医局で飲み会があったんだけどさ」
誉はにこにことしたまま答えた。
「部長が急性アルコール中毒で入院しちゃって。
その代打。そっちまでまだ情報上がってない?」
数秒の沈黙のあと、航が深々とため息をつく。
「……お前、またやったな?」
「何が?」
誉は穏やかな微笑みを張り付けたまま、小首を傾げる。
横で満が片手で額を押さえた。
「……ふふ。楽しみにしてるよ。よろしくね」
それだけを言い残して、誉は会議室を出ていく。
航と満は何も言えぬまま、ただそれを見送るしかなかった。
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