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3-28.
カイは応接セットのソファに力なくもたれたまま、ぼんやりとベッドを整える瀬戸を見やっていた。
さっきより勢いが落ちたとはいえ、まだ咳と息苦しさが残っている。
けれども、それよりも吐いた後の気持ち悪さと、喉の焼けるような痛みと、みっともないところを見られてしまった恥ずかしさの方がよりつらくて、もういっそのこと消えてしまいたいと思う程だった。
瀬戸に整えてもらった寝間着はもう綺麗なはずなのに、まだ自分が吐瀉物で汚れているような気がする。
あの嫌な匂いが鼻から抜けない。
口は濯いだが、咳とえずきで歯磨きまではできなかった。気持ちが悪くてたまらない。
「……っ、けほ」
瀬戸を待ちながら、何度も小さく咳き込む。
それだけで目の奥がじわりと熱くなった。
腕の中のうさぎをぎゅっと抱き寄せて、俯く。
その時、内扉が開いた。
「……すまない、遅れた」
聞き慣れた兄の声に、カイはびくりと肩を揺らした。
わずかに息を弾ませ、白衣に袖を通しながらこちらに向かってくる様子から、もしかしたら家から駆けつけてきたのかもしれないと思った。
申し訳なさが更に募る。
航は余計なことを言わず、カイの前まで来た。
それから少し屈んで、まず顔を覗き込む。
「まだ苦しいか」
「……へーき」
間近で見た兄の顔に、改めて疲れが滲むことに気がついてしまったカイは、いたたまれなくなって思わず顔をそらした。
そうしながら答えた声は、自分でも驚くほどか細くて、頼りない。
「……平気なやつはそんな顔しねえよ」
航はわずかに息を吐きながらそう言った。
反射的にカイは口を尖らせて反論しようとしたが、言葉より先に咳が出てしまう。
「……っ、けほ」
それを見た航が、カイの頬に手を伸ばしかけた。
だが、それを察したカイの身体が瞬時に強張ったことに気づき、そこで止める。
「……」
ほんの一瞬の沈黙の後、航は伸ばしかけた手を引いた。
「……あー、そういう感じか」
そして、独り言のようにそう呟いて立ち上がると、半歩下がって、今度は瀬戸へと視線を向けた。
「吐いたあと、吸入は」
「まだでございます。嘔吐反射が強く出ておられましたので、落ち着かれるのを優先いたしました」
「……ああ、そうだな」
航は短く返して、もう一度カイを見る。
その目つきは、兄ではなく主治医に切り替わっていた。カイの呼吸の深さ、肩の動き、目の潤み、顔色。そういうものを淡々と拾っている。
まるで値踏みされているような居心地の悪さから、カイは自然と俯いてしまう。
「……まだ、呼吸がかなり浅いな」
航は低く言って、少しだけ顎をしゃくった。
同時に、聴診器に手をかける。
カイは頷いては見せたものの、身体が強張って指先が上手く動かずボタンが外せない。
すると、すぐにそれを察した航が、かわりにやってくれた。
一つ、二つと外されていくボタンをどこか他人事のようにカイは見つめる。
しかし、次に聴診器が肌に触れた瞬間、その感覚を「痛み」として身体が認知した。
心が重くなって、気持ちが落ちる。
対する航は何も言わぬまま、小刻みに震え始めたカイの反応ごと受け流しながら、接触を最小限にして胸の音を拾った。
やがて聴診器を外し、小さく舌打ちをする。
「……これは、吸引だけじゃ足りねえな」
そして、もう一度カイを見た。
本来なら、吸引のみではなく点滴を取るべき段階まで進んでいる。
しかし、カイは点滴が大の苦手だ。
さて、どうやって説得するか――。
そう思って手を伸ばし、まずは落ち着かせようと肩に触れようとした、その瞬間。
「……っ」
カイが大げさなくらいびくっと身を震わせた。
航は、即座に手を止める。
「……」
そして、短い沈黙のあと、ため息をついた。
身体が触れられることそのものに対し、過剰に反応し始めている。
この状態で点滴を取るのは、肉体的にも精神的にも無理だ。
航には全く理解できないが、カイはこうなると点滴針の接触点と薬剤の注入ごとに耐え難い痛みが走るのだという。だから、すぐに判断を切り替えた。
「今は、注射で様子を見よう」
その言葉にカイは睫毛をわずかに揺らし、ただ言葉を飲み込むように唇を引き結んだ。が、一方で、みるみるうちにその瞳に涙が溜まっていく。
かと思えば次の瞬間には、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
咳の余韻で細かく肩を震わせながら、うさぎを抱く腕に力が入る。
――耐えようと。頑張ろうと、している。
その気持を汲みながら、航はわざとぶっきらぼうに言った。
「点滴よりはマシだろ」
それを合図にしたように、瀬戸が注射の一式を持って横に控える。
カイは瀬戸に涙を拭われながらではあったが、こくんと頷いた。
――最悪、寝かせてから点滴、か。
……今夜も、帰れそうにはないな。
航はそんなことを思いながら、瀬戸へ視線を向ける。
「悪ぃ、支えといてくれ」
「かしこまりました」
瀬戸は一礼し、すぐにカイの隣へ膝をついた。
「坊ちゃま、失礼いたします」
低く落ち着いた声掛けと共に、そっと背中へと腕を回す。それから咳で細かく揺れる身体を巧みに支えながら、その肩が強張りすぎないよう撫でてこもった力を逃がしていった。
接触過敏の症状が出ているにも関わらず、カイは素直に従う。それでも、うさぎを抱えた腕ごと包み込むように支えられると、カイは涙の残る目で不安げに瀬戸を見上げた。
「……じい」
「はい」
「……やだ……」
航の前で一度は飲み込んだその言葉が、瀬戸の前では堪えきれずに細く漏れた。
「そうですね、お嫌ですね」
瀬戸はただ、カイの背を一定のリズムで撫でながら穏やかに続ける。
「ですが、お注射ですから、すぐ終わりますよ」
瀬戸はそのままカイの前髪を避け、注射しやすいよう袖口を整えた。
「爺がついておりますからね、ご安心ください」
カイは唇を噛みしめたまま、小さく頷く。
航は注射に薬剤を注入すると、弟の前にしゃがみ込んだ。
「少しだけ、チクッとするからな」
瀬戸が慣れた様子で、動かぬよう丁寧に抱くようにしながら、それでもしっかりと押さえつける。
するとカイは、瀬戸の胸に額をつけて歯を食いしばり、その時に備えた。
航はそんな弟の姿から一度だけ視線を逸らし、それから迷いを切るように針先を向けた。
処置が終わる頃には、その疲れからか、カイの意識は早くも混濁し始めていた。
「……よし」
航が針を抜き、瀬戸がすぐに患部をガーゼで押さえる。カイは声も出せぬまま、ただ瀬戸の胸元に額を預けて浅く息をしていた。
ぬいぐるみを抱いた指先には、もうほとんど力が入っていない。
その様子を見かねた航は、ともかく早くベッドに戻してやろうと思い、
「……瀬戸、車椅子――」
そこまで言って、口を止めた。
それから、改めて言い直す。
「……いや。櫂、車椅子出すか?」
カイはゆっくり瞬きをして、掠れた声で答える。
「……あるける」
到底、その様には見えなかったが、
「……そうか」
とだけ、航は返した。
航が思った通り、カイは一人では立ち上がることすらできなかった。
瀬戸が静かに体を支え、航はすぐ傍で倒れそうな重心だけを拾えるよう位置を取る。
二人の介助を受けながら足を床につけた瞬間、カイは小さく息を呑んだ。
――痛い。
足の裏がじんじんする。
力が入らないというより、踏むたびに感覚ばかりが鋭くなって、まともに体重を預けるのがつらかった。
支えられている腕も、背に添えられた手も、ただ触れられているだけなのに妙に気になって、そこだけ熱を持ったみたいに主張してくる。
ーーそれでも、車椅子に乗るのは嫌だった。
幼い日の嫌な思い出を、また繰り返すことが怖かったからだ。
ベッドまではほんの十数歩のはずなのに、やけに遠く感じる。
カイは苦痛に耐えながら、必死に一歩ずつ重い足を出して歩いた。
ようやく辿り着くや否や、カイはほとんど倒れ込むようにベッドへ崩れてしまう。
「……っ、は……」
すぐに、浅い息が漏れる。
もう指先ひとつ動かしたくなかった。
瀬戸は慌てず、慣れた様子で上体の角度だけを静かに整える。
そして、カイの呼吸が少しでも楽になる位置を探るように枕を直してから、穏やかに告げた。
「よく歩かれましたね」
今のカイには、そのお褒めに応じる余力すらない。
ただ重たい瞼の奥から瀬戸を見上げ、それきり視線を落とした。
そうしている間にも、重たい瞼が徐々に降りてくる。それに抗う気力もなく、うつらうつらし始めた頃、ふと思い出したように呟いた。
「……また、吐いちゃったな……」
すると航が、間髪を入れずに続ける。
「まあ、いつものことだ。
強めの発作だったし、痰でも絡んだんだろ」
――そうなのかな?
今日は昼と夜、二回も吐いてしまった。
夜――今のは確かに発作のせいとも言えそうだ。
けれど、昼のはどうだろう。発作は起きていなかったけれど、朝から胸の音がおかしいとは言われていた。
もう何がどこまで繋がっているのか、自分でもよく分からない。
……発作のせいだけ?
本当に、そうかな。
そうは思うものの、もう考えること自体が面倒になってきてしまった。
――兄さんがそう言うなら、きっとそうなんだろ。
……まあ、いいや。
カイはすうっと息を吸った。
さっきより、少しだけ呼吸が楽になっていることに気がついて、ほっとする。
――発作、収まってよかった。
このまま、明日はもっと元気になってるといいな。
そんなぼんやりした願いだけを残し、カイは意識を手放し、そのまま深い眠りへと落ちていった。
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