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3-27.
夕食の後、カイはベッドの上で資料の読み込みを続けていた。
検査の結果がどうであれ、祝賀会はやってくる。
やらねばならないことは、変わらない。
当日までに、この資料の内容を、完璧に頭の中に叩き込まなければならない。
しかし、今の状態ではどれだけ時間がかかるのか、自分でも分からない。
祝賀会までは1週間を切っている。時間がない。
やれる時にやるしかない。
ページをめくる。
視線を走らせる。
少し引っかかって、戻って、また読む。
それを三度繰り返し小さく舌打ちしたところで、横に控えていた瀬戸が、静かに告げた。
「もうお休みの時間ですよ」
カイは資料を見たまま、小さく首を振る。
「……もうちょっと」
ぱらり、とページを一枚戻す。
「もうちょっとだけ……」
「かしこまりました」
瀬戸はただそう柔らかく返し、主の様子を静かに見守った。
カイはもう一度、資料に目を落とす。
1ページ進めて、また戻した。
もっと読めるはずなのに、と苛つくのをこらえながら、それでも指先で紙を押さえ、次の行へ視線を滑らせた。
その時だった。
「……っ、けほ」
喉の奥がひゅ、と引っかかり、咳が出た。
カイは眉を寄せ、一度だけ軽く息を吐く。
それから恐る恐る、もう一度息を吸ってみる。
「……けほ、っ……」
が、今度は二つ、三つと咳が続いてしまった。
胸の奥に、嫌なざらつきが残る。
「坊ちゃま」
瀬戸がすぐに立ち上がり、背中に手を添えた。
「……だい、じょぶ……」
――言いかけて、また咳が出た。
「っ、げほ……けほっ」
息を吸うたびに、細い音が混じり始める。
「少し、お休みいたしましょう」
「……や、まだ……」
「ゆっくりです。吸ってください」
瀬戸に促され、カイは胸のあたりを押さえながら、少しずつ息を吸う。
「そうです。お上手ですよ。
では今度は、吐きましょう」
そう言われて、カイは少しずつ息を吐いた。
しかしこの途中で、また胸の奥に痛みが走る。
「……っ、けほ、っ……」
咳のたびに胸が上下して、だんだん息が浅くなる。
さっきまでは軽い違和感だったのに、もう無視できる感じではなくなっていた。
その様子を見ていた瀬戸が、静かに身を離す。
「……こちらを」
少しの間を置いて、瀬戸はネブライザーをカイの鼻先に差し出した。
カイはほんの少しだけ眉を下げて、それを見つめる。赤い瞳が、かすかに揺れた。
瀬戸はカイにマスクを握らせながら、穏やかに続けた。
「まずは楽になさいましょう。
――もし続けられるなら、その後で」
もう、資料を読み続けられる状態ではない。
そう悟ったカイは、小さく息を吐き、諦めたようにそれを受け取った。
ネブライザーを口元に当てたまま、カイはベッドの上で小さく身じろぎした。
最初はちゃんと目を開いていたのに、薬を吸ううちに少しずつ瞼が重くなる。呼吸が楽になるのと引き換えで、身体の力が抜けていった。
やがて、ふっと肩が落ちた。その気配を見て、瀬戸が静かにベッドの背を上げる。
「そのままで結構ですよ」
落ち着いた声とともに、上体がゆるやかに支えられていく。カイはうとうとしたまま、その動きに身を預けた。
瀬戸はベッドサイドに浅く腰掛けると、資料の横に置かれていたうさぎのぬいぐるみを取り上げ、そっとカイの腕の中へ入れてやった。
カイは、無意識にそれを抱き寄せる。
それを確認すると、瀬戸はネブライザーのマスクにそっと手を添え、支えてやった。
「坊ちゃま、吸ってください」
もう片方の手が、薄い寝間着越しに腹を軽く叩く。
とん、と小さな合図。
カイはそのリズムに合わせて、細く息を吸い込んだ。
「そう、お上手です。
……さあ、今度は吐きますよ」
また、腹にやわらかな合図が落ちる。
とん、とん。
それに合わせて息を吐くと、さっきまでばらばらだった呼吸が少しずつ整っていく。
背中を撫でる手と、腹を打つ小さなリズム。
薬の匂いと、単調な呼吸の繰り返し。
繰り返すうち、張っていた力が少しずつ抜けていった。
気づけば、マスクを持つ指先からも力が抜けかけている。瀬戸は何も言わずにその手を支えたまま、呼吸のリズムを示し続けた。
「坊ちゃま、もう少しですよ」
瀬戸の声が、やけに遠ざかって聞こえた。
それと同時に、カイの瞼が完全に落ちる。
やがて吸引が終わり、瀬戸が静かにマスクを外してやる。カイはベッドに背を預けたまま、とろとろに緩んだ目で、ぼんやりと天井を見上げていた。
「……あした、けんさ……できるかな……」
瀬戸がテーブルを片している横で、そう呟く。
瀬戸は寝台の角度をわずかに整えながら、穏やかに答えた。
「明日の様子を見てからにいたしましょう」
それから、少しだけ間を置いて、続ける。
「早くやればよいというものではありませんよ」
「……でも」
小さく漏れたその声は続かず、ふうっと息を吐く音に変わった。瀬戸の手が、もう一度だけその背をゆっくり撫でた。
「さあ、今日はもう、お休み致しましょう」
カイは小さく頷きながら、完全に瞼を閉じて小さく呟く。
「……はやく、誉のとこ……帰りたい……」
瀬戸は、ほんのわずかだけ目を細めた。
「……ええ。卯月さまと長くご一緒にいられるよう、今はお体を優先なさってくださいませ」
返事はなく、代わりにカイの指先が寝具の上を探るように動く。
「……じい」
掠れた声と一緒に伸びてきたその手を、瀬戸は何も言わずに取った。
細く白い指を包み込むように、そっと握る。
カイはそのぬくもりを確かめるように、ほんの少しだけ握り返した。
そして次の瞬間、その指先からふっと力が抜ける。
呼吸が進むたびと深くなり、やがて寝息へと変わっていった。
瀬戸は握った手はそのままに、しばらくその寝顔を見守った。やがて、完全に眠りに落ちたのを確かめてから、空いた方の手で胸元にそっと触れる。
呼吸の上下を見て、耳を寄せ、胸の音を確める。
まだわずかに喘鳴があるが、深刻さからは抜けている。
瀬戸は静かに身を起こし、握っていた手をそっと寝具の上に戻した。
それから、ベッドの背を少しずつ下げていく。
完全には横たえず、少し角度をつけた状態で留めると、薄い毛布の端を直し、静かな寝息を見守った。
いつもと変わらぬ穏やかなその寝顔に、小さく願った。
――このまま、何事もなく収まりますように。
カイの意識が、突然ふっと浮上した。
暗い病室の天井が、ぼんやりと視界に浮かぶ。
瀬戸の姿はもうなく、機器の無機質な電子音だけが響いていた。そして、すぐに胸の奥の違和感に気がついた。
「……あ」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
――重い。
息を吸うと、胸の奥がじわりと詰まる。
眠る前の時ような、軽い違和感ではない。
もっと深いところで、空気の通り道が狭くなっている感じがした。
もう一度、慎重に息を吸う。
「……っ」
やはり、引っかかる。
にわかに鼓動が速まった。
長年の経験から、すぐに悟ってしまう。
――あ、これ、駄目なやつだ。
カイは、薄い毛布の上から胸元を押さえ震えた。
大丈夫、まだ喋れる。
まだ動ける。
けれど、そう残された時間は長くない。
慌てて半身を起こそうとして、少しだけ咳き込む。
「……けほ」
小さな咳ひとつで、胃の奥がひくりと持ち上がった。さらに嫌な予感がして、カイは唇を引き結ぶ。
ベッドサイドのナースコールを探り当てて押した。
規則的な電子音が、静かな個室にやけに大きく響いた。すぐに看護師が駆け込んでくる。
「どうされました?」
カイは看護師を見上げ、息を整えようとした。
だが、もう一度吸った空気が胸の奥で引っかかり、ビリリと痛んだ。
思わず蹲ると、看護師が慌てた様子で寄り添ってくれる。
「……まずい」
胸が細く鳴るのを自覚ながら、カイは努めて理性的に告げた。
「……瀬戸、を。呼んで……ください」
「分かりました。すぐに」
看護師が頷き、あとから入ってきたもう一人に目配せする。酸素と吸入の準備がすぐに始まったが、その間にも、呼吸は少しずつ崩れていってしまう。
「……っ、けほ、っ……」
咳が浅く続く。
吸おうとするたびに、胸の奥が強張るように狭まり、焼き切られるように痛む。
「大丈夫です、ゆっくり。座れますか?」
促されて、カイは頷こうとした。
けれど途中でまた咳がこみ上げてしまう。
「っ、げほ、……けほっ、けほっ」
今度は止まらなかぅた。
背をさすられても、咳の勢いが弱まらない。
息を吸えない。吸えないのに咳だけが出る。
胸が苦しい。
それと一緒に、胃の奥が何度も持ち上がる。
――やばい。
分かっているのに、どうにもならない。
口元を押さえて、必死に飲み込もうとする。
――ナースの前でなんて、いやだ!
そう思うけれど、咳が強くなるたびに腹の奥がひきつって、吐き気がせり上がってくる。
「如月先生、こちら――」
吸入の器具が差し出される。
だが、それを受け取るために手を伸ばした瞬間、一段強く咳が爆ぜた。
「っ、げほっ、……ごほ、っ……」
細い呼気の間に、喉の奥がひくつく。胃の中のものが勢いよく逆流してきた。
カイは目を見開いた。
耐えたい気持ちとは裏腹に、身体の方が先に限界を知らせてくる。
その時だった。
「坊ちゃま!」
ドアが開く音、それに聞き慣れた低い声が続いた。
カイははっと顔を上げた。
視界の端に瀬戸の姿を認めた、その瞬間だった。
張りつめていたものが一気に切れた。
「っ、げほ――う、っ……!」
また胃から何かがせり上がってきたが、同時に起きた次の咳も相まって、もう飲み込むことができない。折れそうになったその身体を、瀬戸がすぐに支える。ベッド脇の受け。皿を引き寄せ、ためらいなく口元の下へ差し入れた
「大丈夫でございますよ。……こちらへ」
もう片方の手で背を一定のリズムでさすりながら、前へ促す。
「いったん、全部出してしまいましょう」
「……っ、や……」
カイは瀬戸の袖をぎゅっと掴んだ。
口を結んで必死に耐えた。その間に、瀬戸はナースたちに下がるよう目配せをする。
そして、部屋に2人だけになったタイミングで、
「さあ、大丈夫ですよ」
と優しく声をかけた。
その次の瞬間、カイはこらえきれずに、吐いた。
「っ、う……げほ、っ……」
「ええ、そうです。お上手ですよ」
瀬戸は背をさすり続ける。
吐き気がぶり返すたびに身体が震え、そのたびに咳も混じった。
「苦しいですね。もう少しで、楽になりますよ」
低く穏やかな声が、すぐ近くで響く。
ようやく波が少し引いたところで、瀬戸は濡れた口元を手早く整える。
乱れた前髪を避け、喉元にかかったものも拭ってやった。
そうやって、瀬戸が手慣れた様子で後処理を進める一方で、
「っ、げほ……けほっ、けほっ……!」
と、カイはまた激しく咳き込んだ。
喉の奥が焼けるように痛くて、息を吸うたびに胸がひくつく。咳と嘔吐で半ば混乱したカイは、子どものように首を振って瀬戸の手を払った。
「大丈夫ですよ。
まずは、ゆっくり吐きましょうか」
しかし瀬戸は落ち着いた様子でその背を撫で、呼吸の流れを作る。カイは必死にそれに合わせようとするのだが、咳が割り込んできてうまくいかない。
「っ、ぅ……げほ、っ……」
苦しい。
気持ち悪い。
申し訳ない。
恥ずかしい。
その全部が一気に押し寄せて、目の端からぼろぼろと涙がこぼれた。
「……や、だ……っ」
咳の合間に漏れたその声は、ほとんど泣き声だ。
「そうですね、嫌ですね。だからこそ落ち着いて、早く治めてしまいましょう」
瀬戸はそう穏やかに言い聞かせ、その乱れた呼吸に合わせるように、一定のリズムで背を撫で続ける。
「っ、けほ……じい、ごめ……っ」
カイが謝ろうとしても、また咳がそれを断ち切ってしまう。
「謝る必要なんて、ございませんよ」
低く穏やかな声が、やけに近くで響いた。
「今は、呼吸を整えることに集中しましょう」
カイは何とか小さく頷いて、その言葉に縋るみたいに、瀬戸の袖をさらに強く掴んだ。
咳で細かく肩を震わせながら、何度も浅く息を吐く。やがて、咳の勢いが少しずつ弱まり始めた。
吐き気の波も、ようやく遠のいていく。
瀬戸は口元をもう一度整えてやり、涙で濡れた頬には触れないまま、ただ背だけをゆっくりと撫でた。
「……よく頑張りました」
その声に、カイは顔を上げる。今にも泣き出しそうな顔だった。
それに対し瀬戸は、柔らかく微笑んで続けた。
「楽になられましたね」
その一言に、カイは声もなくこくりと頷いた。
そして真新しい柔らかなハンカチで目の端を拭われながら、瀬戸のシャツをぎゅっと掴んだ。
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