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3-26.
航からもらった資料のページをめくりながら、カイはため息をついた。
――この資料は誉が作ったものだ。
おそらく世の中で一番、オレが読みやすい資料。
……でも。
やっぱり、いつもの半分も頭に入ってこない。
それでも時間を追うごとに薬効が薄くなってはいるのだろう。
昼に初めてこれを見た時よりは、まだ幾分かマシだ。しかし、いつもとは違って一度では覚えきれず、何度も読み返す必要があった。
「……なんで」
小さく呟いて、カイは資料を持ち直した。
もう一度、同じ箇所を読んでみる。
――駄目だ。
一度に拾い上げられる情報量が、いつもの半分にも満たない。
そもそもだが、集中も薄く、長く継続できない。
ただ、紙の上を目だけが滑っていく。
初めての感覚だ。
まったく、手応えがない。
引っかかりがすごく浅くて、少し目を離しただけで、すぐに輪郭がぼやけてしまう。
「違う……そこじゃなくて」
もう一枚、ページをめくる。
また最初から視線を走らせる。
分かる。
分かるのに、覚えられない。
頭の中に残らない。
焦りが先に立って、余計に気が散る。
やがて焦燥は、苛立ちへと変わってしまう。
「……っ」
一度だけ大きく息を吐き、カイはこめかみを押さえた。
落ち着け、考えすぎるのは、余計にだめだ。
分かっているのに、やめられない。
すると、ふと応接スペースの方で、食器の触れ合う小さな音がした。
そちらを見れば、瀬戸が静かに食事を整えている。
けれども、食欲よりも、面倒くささが勝った。
――今は、食事より、こっち。
そう思って、また資料に手を伸ばす。
その時、内扉が開いた。
「……お。やった」
聞き慣れた声に、カイが顔を上げる。
航だった。
白衣を脱ぎかけたままの格好で、そのまま当然のような顔をして入ってくる。
よく見ると、テーブルの上に病院食と重箱が置かれていた。
そもそも瀬戸がそちらに用意をしている時点で気づくべきだったが、どうやら兄もここで夕食を取るつもりらしい。
面倒なことになった、とカイは眉を寄せた。
兄が一緒なら、食事を後回しにはできない。
カイは仕方なしに資料を置くと、同じように応接テーブルへと向かう。
「肉だ、やった」
瀬戸が開けてくれた重箱を覗き込んで、そう声を弾ませる兄に、
「兄さん、また肉ばっかり……」
思わずじとっとした目を向けて、カイは言った。
すると航は、椅子を引きながら平然と返した。
「お前も肉を食え。
草ばっか食ってるから、いつまでたっても痩せっぽちのままなんだ」
「だって、お肉嫌いだもん」
カイもまた言い返すと、航は自分の弁当箱の隅に寄った野菜を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……俺も野菜は好きじゃない」
それから、妙に真面目な顔で続ける。
「……利害が一致したな」
「交換する?」
カイが少しだけ身を乗り出しかけたところで、瀬戸が静かに口を挟んだ。
「交換はなしでございます。
どちらも、お召し上がりくださいませ」
あまりにも穏やかな声音だったので、余計に反論しづらい。航は「ちぇ」とでも言いたげに口を閉じ、カイもそれ以上は何も言わずに箸を取った。
カイの夕食は、これまでに比べて明らかに軽かった。白粥に近い柔らかい飯と、薄味の汁物、消化の良さそうな小鉢が少しずつ。
――じい、オレがちょっと無理して食べてるの気づいちゃったのかな。
気を使われているのも、それがどんなにありがたいことなのかも分かっていた。
けれど今は、それすら少しだけ煩わしい。
向かいでは航が、機嫌よく肉を口へ運んでいる。
兄は見た目に反して大食いな部類だ。
テニスが趣味で、この激務の中、毎日のジョギングと1時間のレッスンを欠かさない。
毎日、人の形を保って生活するだけで精一杯のカイには、もはや別の生き物にしか見えなかった。
――同じ母親から生まれたのに、この差だ。
またネガティブの深淵に入り込みそうになったカイは、小さく息を吐いて、目の前の食事へ視線を落とした。
――食べなきゃ。
それはもう、食事というよりは摂取だった。
箸を伸ばして、口に運ぶ。
味を確かめる意識も余裕もなく、ただ食べるという動作だけを、黙々と進めていく。
一口。
もう一口。
一度止めるとそのまま次に繋げられなくなるので、一定の速さで口に運び続ける。
すると向かいから、じっと見られている気配がした。
「……そんなに焦るな」
航に声をかけられても、カイは箸を止めなかった。
「別に、焦ってないし」
「いや、焦ってるだろ。もっとちゃんと咀嚼しろ。
そもそもお前は消化が――」
「もー、うるさい!」
思ったより強い声が出て、自分でも少し驚く。
「兄さんは、そうやっていつも小言ばっかり!」
航は一瞬だけ目を見開いて、呆れたように眉を寄せた。
「小言じゃない。事実だ」
「わかってるし!」
「なら、やれ」
「やってるし!」
ほとんど反射のように言い返して、カイはまた箸を動かした。
自分でも、少しヒステリック過ぎると思う。
でも、食事は止めない。
今止まったら、そのまま食べられなくなる。
だから、ともかく口に運ぶ。
その様子を見守る瀬戸は、何も言わなかった。
ただ少しだけ目を細めて、空になりかけた湯呑みに静かに茶を足す。
その静けさが、余計に落ち着かない。
腹は膨れてきたが、満たされる感じがしない。
噛んで、飲み込んで、また口に運ぶ。
その繰り返し。
それは、もはや食事ではなく作業だった。
向かいで航が箸を置く音がした。
「……何をそんな苛ついてるんだ」
その一言に、カイの箸の先からぽろりと煮物が落ちた。
思わず舌打ちをしながら、カイはそれを慌てて拾い上げる。瀬戸が無言で差し出した小皿にそれを置いてから、小さく息を吐く。
「……別に、何も」
「何も、という顔と態度じゃないな」
「……」
兄の言葉よりも、今は箸を止めてしまった落胆の方が強い。予測通り、もう食べる気が全く起きない。
箸を構え、茶碗を見つめたまま動かないカイに、航が続ける。
「何をそんなに煮詰まっている」
「……」
カイはもう一度不機嫌な溜息をつき、ぼそりと答えた。
「……覚えられない」
航が、眉を上げる。
「は?」
「……読んでるのに。分かるのに、覚えない」
そして、とうとう箸を置いてしまう。
見ているだけで喉の奥が少し詰まるような感じがして、食事から目を逸らした。視界の端に、さっきベッドへ置いてきた資料が見える。
「昨日よりはマシなんだ。
昼にもらった資料も、時間の経過と共に読み取れる量も増えてるのは確か……でも」
そこで言葉が止まった。
うまく言えない――と、言うか。
言葉にした瞬間、それが本当に“できなくなったこと”になってしまいそうで、怖い。
「……いつもとは雲泥の差で」
航の沈黙に押されたように、カイは続けた。
「いつもなら、もっとスッて頭に入るんだ。
仮に引っかかる箇所があったとしても、そのまま記憶から辿ってすぐに繋げられる。
覚えるのだって、もっと速いのに」
言葉尻に悔しさが滲み、俯いてぎゅっと唇を噛んだ。
「なのに、今日は何回も立ち止まるし、そのたびに戻って読み返さなきゃなんないし。
……読んでも、半分も頭に残らないし、集中も続かない。なんかもう、全然違う。面倒くさい。
――どうしたらいいか、わかんない」
最後の方の声はほとんど掠れ、まるで独り言のようになっていた。航はちゃんとカイの気持ちを聞き終えてから、ようやく小さく息を吐く。
「……それが普通だ」
「え?」
顔を上げて目を丸くするカイに、敢えて一拍を置いて航は続ける。
「普通は、そんなもんだ。
読んですぐ全部入るわけじゃない。
何回もつまずいて、見返して。
それを繰り返してやっと残る」
「……」
カイは、黙って兄の顔を見つめる。
そしてしばらく考えた後、おずおずと尋ねた。
「……兄さんも?」
「おう、もちろん」
航は肩を竦めながら、さも当然のようにそう返すと、最後の肉を口に放り込んだ。
「お前は、今までがちょっとおかしかったんだよ」
その言いように、カイはむっと眉を寄せた。
「おかしいって、ひどい」
「いや、いい意味でだ。ちょっと人より回る頭とやらを、当たり前だと思ってたんだろ」
「……」
「でも、大抵のやつは、そんな事はない。
普通の感覚を知るのも、まあ今後お前の役に立つ。
世の中で大半の人間は、"普通"だからな」
カイは言い返せなかった。
感情的には腹が立つが、理性では納得させられてしまうよう嫌な言い方だった。
「何度も言ってるが、薬効が残ってるに過ぎない。
薬が抜ければ、戻る。」
「……でも」
声が、自分でも思ったより弱かった。
「明日多少良くなったとしてもさ……。
ホントに戻ったのか、どれくらい元に戻ったか、わかんないじゃんか……」
「またお得意の"でもでも"か」
ベッドの上の資料を見たまま言うカイに、航は呆れたように肩を竦めた。
それから、なんてことないように続ける。
「だから、確認すればいいじゃねーか」
「……どういうこと?」
「IQチェック、してみよーぜ」
予想外の言葉に、カイが目を瞬かせる。
「お前、やったことあるんだって?誉から聞いた」
航は腹をさすりながらソファーに背を預け、軽く伸びをする。それから、瀬戸に向かって声を張った。
「なあ、過去のデータあるよな」
程もなく、瀬戸から落ち着いた返事が返ってくる。
「はい、ございます」
カイもまた、瀬戸の方へと目を向けた。
瀬戸はいつもの穏やかな顔のままだ。
「新旧の結果を比べりゃ、少なくとも戻ったかどうかはわかる。ちなみに最後のはいつ取ったやつだ?」
「15歳……高校に上がられた年でございます」
「ま、ちと古いが申し分ないだろう」
カイはまだ少し呆然としていた。
「そんなデータ、まだあるんだ……」
「あるに決まってるだろ。
うちの物持ちの良さ、ハンパねえんだぞ」
航は平然と返して、それから少しだけ身を乗り出した。
「あと、ついでに思考力テストもしてみようぜ」
「……思考力?どんなのだろ」
「ちゃんというと、環境適応力のチェックだな。
IQで頭の回り方、思考力の方で生活の回し方を見る」
そこで、ほんの少しだけ口元を緩める。
「お前の得意な頭の回り方と、苦手な生活能力を数字で見てみる。
それが分かれば、お前ならうまく生きる方法も考えられるだろ」
――そのあまりにも軽すぎる言い方が、妙に腹立たしい。しかし、数値化という言葉に安心して、少しだけ気持ちは軽くなった。
「そちらも同時期に取った結果がございます」
瀬戸が静かに続ける。
「お、いいな。高校生になった時――誉が付く前だな。前後の差が分かって、逆に面白いかもしれん」
「面白いって、人を研究材料みたいに……」
むっとして言うと、航は肩を竦めた。
「おう。まあ……お前の地雷踏まないよう、普通に知っておきたいし」
「失礼すぎるでしょ、もー」
「――と、言いつつ」
航はそう言うと、にやりと笑う。
「すっかりご機嫌が直ってるじゃねーか。
……ちょっとは、安心したか?」
カイは口を尖らせたまま何も言わなかった。
「……どうだ、やるか?」
少しだけ間を置き、航が改めてカイに尋ねる。
カイは、再びベッドの上の資料へ目をやった。
――怖い。
数字は、嘘をつかない。
結果が良くも悪くも、それが確定診断となってしまう。
――けれど。
けれど、分からないままの方が、もっと怖い。
「……やる」
カイが小さく、しかしはっきりそう答える。
航は、黙って大きく頷いた。
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