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3-25.

「祝賀会かあ……」 プリンターの前で、誉がぽつりと呟いた。 吐き出される紙を受け取りながら、その端を揃える。 医局の昼は、ようやくひと息ついた空気に変わりつつあった。 午前の仕事を終えた面々が、昼食やコーヒーを手にぽつぽつと席へ戻り始めている。   「はあ……頑張るカイ、可愛いだろうなあ。 リアタイしたいなあ……」 さらに一枚、束に重ねる。   「カイに群がる令嬢も、ちゃんとチェックしときたいし……」 「――何を言ってるんだ、お前は」 ちょうど医局に入ってきた航が、呆れた顔で言った。誉は振り返って、少しだけ口を尖らせる。   「部長層以上なんて、酷いよ」 「……仕方ないだろ。 責任者が完全に不在じゃ、現場が回らん。 お前だけ優遇はできん」 「わかってるし、別に優遇してくれとは言ってないよ」 誉はぷいと視線を戻し、また紙束の端を揃えた。   「ただ、いいなあと思っただけ」   航は小さく鼻を鳴らし、そのまま誉の横まで歩み寄る。そこでようやく、その白衣の下が見慣れたワイシャツではないことに気がついて、眉を上げた。   「……スクラブ? どうした、マジで何かあったのか?」 「ちょっとね……」 「またそれか。言う気ねえな」 「まあ、ほら。……ちょっとね」 「……」 そう言いながら誉が催促するように手を出すと、航はため息交じりにその上へ鍵を落とした。 誉は鍵を受け取って、見慣れぬキーホルダーに気づく。外して返そうとしたところで、 「いい、それごとやるよ」 と、航が先んじて言った。 「あげるって言われても……」 キーホルダーには、ハイブランドのロゴが入っている。例のウサちゃんではないから、航の私物なのだろう。 彼にとってはその辺に転がっていたどうでもいいものなのかもしれないが――。 「ありがと」   ――きっとお高いんだろうな、これ。 そんなことを思ってしまった自分に、誉は内心で少しだけ苦笑した。 それでも結局、素直にそれをポケットへ放り込む。  一方、航は脇に積まれた紙束へと視線を落とした。 量の割に、妙にすっきりして見えるのが印象的だった。 文字は大きく、行間も広い。 色分けも赤や青といった、はっきりしたものだけで整理されている。   「……文字、でかすぎねえか」 「ううん。あの子にはこれでも小さいくらい。 ほんとは手書きがいいんだけど、さすがに間に合わなくてね」 「手書き?」 「うん。そのほうが目が楽なんだって。 機械文字だと、平仮名は特に見分けがつきにくいみたいで。手書きなら、もう少し調整できるんだけどね」 誉は当然のように言って、最後の一枚を引き抜いた。同時に航は、昔、カイが持っていた紙束を思い出した。 誉が作ってくれた参考書だと、いつも大切に抱えていたものだ。すべて手書きで、すっきりした色合いでまとめられたそれは、完全に誉の好みだと思っていたが――。   ――そういうことだったのか。 何年か越しにようやく腑に落ちた。 だがそれはそれで、航としては少し複雑だった。 「あ、院長だ〜」 その時、弁当を広げていた山川が顔を上げた。 「ほんとだ。院長、どうしたんすか?」 続いて、コンビニ弁当を片手に佐々木が寄ってくる。   「こいつが鍵を届けろって、うるせーから」 「院長、顎で使われてるじゃないスか」 「そうなんだよ、こいつ人使い荒いんだよ」 「応じるから舐められるんスよ」 「えっ、俺、舐められてんの?」 「まさか」 そのやり取りを聞きながら、誉が小さく笑う。   「親しみやすく優しい院長先生の、ちょっと強く押すと断れない性格につけこんでるだけだよ」 「相当舐められてますね」 最後に、加藤がコーヒー片手に加わって誉を見た。 「……というか、誉先生、今日スクラブなんですね」 「そうそう。ちょっと新鮮」 「私は親しみやすくて良いと思いますけど」 「それで女子が朝から大盛り上がりなんだよ。 鎖骨が素敵〜だとかなんとか」 「あはは。まあ、たまにはね」 「はー、よく言う」 「どうしたんスか、院長」 「今でこそスーツで澄ましてるけどな」 すると、すっかりむくれてしまった様子の航が、横から口を挟む。 「こいつ、フェロー前はジャージで来て、共用スクラブで一日過ごしてたからな」 「えっ」 「誉先生が、ジャージ?」 「ワイシャツとスラックス着て生まれてきたような顔してるのに」 「僕のことなんだと思ってるの」 誉は呆れたように返したが、航は気にせず続ける。 「皆騙されるが、こいつ、かなり雑だぞ。 ボウルから生クリーム直食いする男だぞ」 「生クリームは泡立てた瞬間が一番美味しいの」 「えっ、薄々甘党かなとは思ってたけど」 「意外すぎる」 「ちなみに学生時代、ゼミで実験用ビーカーに乾麺入れて、ガスバーナーで煮て素ラーメン食ってた」 「は?」 「直前に菌を培養してたビーカーだったから、肝が冷えた」 「ちゃんと煮沸消毒して洗ってたし」 「そこじゃない」 「衛生の問題じゃなくて発想の問題なんスよ」 「いや、衛生的にもまあまあ問題だろ」 山川が本気で引いた顔をし、加藤が肩を震わせる。 誉は紙束を抱えたまま、苦笑いをした。 「もうやめてよー。折角作り上げた楚々とした副部長像が崩れちゃうじゃないか」 「お前は、人によって態度変え過ぎ」 「気を使うべき相手を見極めてるだけだよ」 「俺にも気を使え」 「え、何で?親友なのに?」 「……」 「院長、今ちょっと嬉しかったでしょ」 「そういうとこっすよ」 そこでふと、加藤が目を細めながら、静かに言う。  「はは、でも良かったです」 皆がその方を見ると、穏やかに続ける。 「誉先生、ここのところ元気がなかったので。 院長とお話しているのを見て、安心しました」 「はあ?!全然通常営業だろ」 「いやいや…。如月先生がいないもんだから、ずっと機嫌悪くて部下は大変なんスよ」 「そーそー、ピリついちゃって」 「違うってば。 最近手術続きで、シンプルに疲れてるの」 「お、じゃあ飲みにでも行きます?」 「……それ、加藤さんが飲みたいだけじゃん」 「おや、楽しそうだね」 するとその時、ちょうど戻ってきた部長がこちらに寄ってきた。山川が手を挙げながら早速誘う。   「あ!部長も行きますか?」 「たまにはいいなあ。 そういえば卯月くんの歓迎会、まだだったね」 航はそんな風に笑い合う医局の面々を、静かに見守る。 ――激務を強いてしまっているが、その空気は悪くない。   そんな風に思ったところで、肩を叩かれた。 見上げると、誉もまた微笑んでいる。 「ま、院長が職員のために頑張ってくれていること、みんなわかってるからね」 そう言って、刷り上がったばかりの資料を航に差し出す。 「現場は、支えるよ」 「……すまない。ありがとう」   ちょうど話がまとまったのか、山川がスマートフォンで店を検索しながら誉に問う。 「そういえば誉先生って飲めるんですか?」 誉は少し考えるような素振りをした後、答える。 「いや全然。いつも父に潰されてたよ」 「えー、全然飲めそうなのに」 「真に受けるな」 航が首を横に振りながら、即座に否定した。   「俺は、こいつが酔いつぶれたところを一度も見たことがない。かの有名な山田指導医による研修医への洗礼の時すらだ」 「えっ」 「それやばい」 「マジやばい」 「おや、じゃあ、お手並み拝見だね」 全員が顔面蒼白になったところでただ一人、面白そうに笑った部長に、加藤がにやにやしながら続ける。 「部長、山田先生と仲いいですもんねー」 「同期なんだよ〜。なら、卯月くんのお手並み拝見といこう。楽しみだなあ」 会話が一段落したところで、今度は佐々木が航へ向き直った。 「院長も来ますか?」 しかし、航は首を振る。 「いや、俺は遠慮するよ。 みんな気を使うだろうし……。 弟の面倒も見ないといけないしな」 その一言で、場の空気が少しだけ落ち着いた。 おずおずと、山川が遠慮がちに尋ねる。 「そういえば、如月先生。ご加減いかがスか?」 航は一拍を置いてから答えた。 「まあ、落ち着いてはいるよ。 ……多少、波はあるが」 「そっか。 回復に向かっているなら、良かったです」 「……早く戻ってきてほしいなあ」 「ほんと、いなくなって初めてわかる大切さ」 「いや院長の手前、さすがにそれは失礼でしょ」 どっと笑いが起こる。 けれどそのまま、加藤が少しだけ真面目な声で続けた。 「でも実際、私たち、カイ先生にうんと助けられてたんだなあって実感してるんですよ」 誉もしみじみと頷いた。 「そうだね。間違いなく縁の下の力持ちだったね」 「あの冷たいピリリがないと、緊張感に欠けるしね」 「だから、みんなで如月先生が戻るまで頑張りましょーってなってて」 「じゃあその決起会も兼ねて」 「だから、加藤さんは飲みたいだけでしょ」 また笑いが起こる。 航はその輪の外で、ほんのわずかに目を細めた。 頼られている。 必要とされている。 ――戻ってきてほしいと、願われている。   自分が思っていたよりずっとちゃんと、カイは自分で居場所を作れていた。   俺が守る。場所を整えてやる。   そうしてやらなければ、あいつは立てないのだと、どこかでずっと思っていた。   『君はね、そもそもカイを見くびり過ぎてるんだよ。あの子はちゃんと大人で、なんだってできるんだ。』   ふと蘇った誉の言葉に、航は心の中で小さく息を吐く。 ――違いないな。   「あ、この店今夜取れそうッスよ」 「おー、いいんじゃねーか」 航は軽く手を挙げ、 「まあ、あまり飲み過ぎないようにな」 と、それらしい事を言って医局を後にした。 楽しげな笑い声を背に、ひやりと静かな廊下を行く。 その落差に、自然と足取りが少しだけ速くなった。   久しぶりの現場の空気だった。 あの輪の中に自分が立つことは、もうないのだろう。   少しだけ寂しさを感じながらも、それが自分で選んだ道なのだと心の中で言い聞かせ、歩を進める。 口をゆすいで顔を上げると、少しだけ頭がくらついた。胃の奥はまだ重い気がしたが、吐いてしまえばいくらかはマシだ。 ――昼ごはん、食べ過ぎたかな。 と、カイはぼんやり思う。 そういえば、朝も頑張って食べた。 あれも少し、無理をした気がする。 「早く元気になるため、とはいえ……」 壁に手をついて、ゆっくりと体を起こした。   頭も少しだけ痛み始めていた。 今日は胸の調子も芳しくないし、酸欠気味なのかもしれない。   「……ちょっと、張り切りすぎちゃったかな……」 そう呟いたところで、外から航の声が響いた。  「――おい」 カイははっとして顔を上げると、慌てて手を拭きながら扉を開けた。 すると仏頂面の兄が真っ先に視界に入る。 「……なんだ、いたなら返事くらいしろ」 「トイレ中は無理でしょ……」 少しだけむっとして返すと、航は、 「ま、そりゃそうだな」 と、あっさり頷いた。   そしてそのまま、我が物顔でベッドの方へと歩き始める。カイも後ろについて戻りながら、さっき吐いたことを一応言っておいた方がいいのかな、と少しだけ思った。   「兄さん、あのさ。オレ、さっき――」 けれど、口を開きかけたところで、航は急に振り返った。同時に、紙の束が目の前に差し出される。 「ほら」 「……?」   カイが首を傾げると、航はそれを押しつけてきた。 「来る可能性がある令嬢のリスト。 軽くでいいから目を通しておくといい」 カイは細かく瞬きをしながらそれを受け取ると、とりあえず一枚めくってみる。 その瞬間、それが誰の作ったものなのか、すぐに分かった。 ――誉だ。 離れていても、ちゃんと見ていてくれる。 いつもみたいに助けてくれる。 そう思うだけで、胸の奥が少しだけやわらぐ。 けれど同時に、それらの文字を追うたびに、目の奥がじわりと痛むのを自覚した。 その時だった。 内扉が勢いよく開いて、満がひょいと顔を出した。 「会議、始まってますよ。 何を遊んでるんですか!」 「……あ、遊んでねえし」 航は肩を上げて、即座に言い返す。 そしてカイの方を見て、紙束を指差しながら 「とりあえず軽く流し見でいい。 無理に頭に入れようとするな、絶対だぞ」 そう言い残すと、慌ただしく踵を返した。 満もそれに続きながら、カイへと目を向け、 「お昼も、たくさん食べたそうですね。 ――頑張りましたね」 そう目を細めながら言い、ぱたんと扉が閉めた。 急に静かになった病室で、カイは手元の紙束を見下ろした。 それから、少しだけ口を開く。 「……あ」 言いそびれた。  ーー吐いたことも、まだ少しくらくらすることも。    けれど、カイは小さく息をついて肩を竦めた。  「……ま、いっか」

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