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3-24.
綺麗に空になった皿を片しながら、満が言う。
「甘いものでもどうですか」
誉がきょとんとした顔で目を上げる。
「え、ほんと?気が利く。さすが」
満は背を向けたまま、小さく肩を竦めた。
「まあ、長くあなたを見てますから」
「……もしかして、俺が来ることも読んでた?」
「さあ、どうでしょう」
しばらくして、満は小皿とコーヒーを持って来た。
「どうぞ」
「おいしそ」
差し出された皿に、誉が何の疑いもなく手を伸ばした、その瞬間。
突然、すっと皿が引かれた。
「――ん?」
顔を上げた誉の唇に、ふ、と軽いものが触れた。
ほんの一瞬のことだった。
触れるだけの、不意打ちみたいなキス。
誉が目を見開く。
「……なっ」
満は何事もなかったかのように皿を置き直す。
そして、ひと言。
「宿代です」
誉はしばらく固まっていたが、やがて眉を寄せた。
「……たっか」
ぶつぶつ言いながらも、誉は皿へと手を伸ばす。
少し硬めの、焼きプリン。
一口食べて、少しだけ目を丸くする。
スプーンを入れると、表面がかすかに張って割れた。下の方はなめらかで、苦めのカラメルが追いかけてくるのが後を引く。
誉はぎゅっとフォークを握りしめて、項垂れた。
「……悔しい。おいしい」
「でしょう」
満はコーヒーに口をつけながら、得意げに口元を緩める。
「なかなか、腕を上げたでしょう?」
「うん、それに……丁寧になった気がする」
「食べてくれる人がいると、ね」
誉は小さく瞬きをして、それからふっと笑った。
「……へえ」
そう言いながら、もう一口頬張った。
「君がねえ」
「……何ですか」
「頼られるのは、嫌いなんじゃなかったっけ?」
「嫌いですよ。面倒ですからね」
満は誉から視線を外しつつも、間髪入れずにそう返す。その様子に、誉はくすっと笑った。
「じゃあ、なんで」
満はカップを置き、いつもの口調で淡々と答えた。
「それ以上に、見合うものがあるからです」
「……そっか」
誉はコーヒーの香りを確かめながら頷く。
「ま、わかるよ。
俺にとってのカイも、そうだから」
それから、カップに口をつけながら繋げる。
「――ようやく君も、こっち側に来たね」
「一緒にしないでください」
満は、ぴしゃりと冷たくそれを否定した。
「私は、時が来れば羽ばたかせます。
あなたの様に、いつまでも囲うつもりはありません」
――その時だった。
「……せんせ」
奥から、そう小さな声がした。
刹那、満が跳ねるように顔を上げる。
その表情が、はっきり変わった。
それを見た誉は、目を細める。
「……ふーん」
満は気にすることなく、そのまま立ち上がった。
そして、声がした方へと迷いなく歩を進めながら、
「明日の朝は、湊が起きる前に出ていってください。――まだ、怖がるので」
「はいはい」
誉は、ひらひらと手を払って返した。
満はそれ以上何も言わず、そのまま奥へと消えていく。
誉はしばらくその方を見ていたが、やがて小さく息を吐き、視線をカップへと落とした。
「……俺も、最初はそのつもりだったんだけどね」
――それは、どこか自嘲めいた声だった。
翌朝。
満がリビングに入ると、誉の姿はもうなかった。
一方で、テレビはつけっぱなし。
ソファーにはパジャマとタオルが投げ出され、クッションまでずれている。
そのくせ、夜食に使った食器だけは丁寧に洗われて、水切りかごに几帳面に並んでいた。
満はふと、カウンターテーブルのうえに綺麗に包装された紙袋が一つ置かれていることに気がついた。
そしてその横には、真新しい眼鏡ケースが一つ。
中を確認すると、昨日貸した眼鏡が磨かれた状態で入っていた。
満は小さく息を吐き、先に眼鏡を手に取った。
次に、紙袋へ視線を移す。
中には、ワインが一本入っていた。
「……置き土産にしては、随分と景気がいいですね」
それは、満が好む銘柄の希少なビンテージワインだった。昔、何かの折に、一度だけ話題に挙げたことがある。手土産として置いていくには、少し度を越している。
満はわずかに目を細めた。
そのまま袋の中を覗くと、もう一つ小さな箱が入っている。きれいにラッピングされたそれには、有名な洋菓子店のロゴが印刷されていた。
そこで背後から、小さな足音がした。
「……せんせー」
振り返ると、湊が眠たそうな顔で立っていた。
けれど、その視線はすぐに満の手元へ落ちる。
満は一瞬だけその顔を見てから、手招きをした。
恐る恐る寄ってきたその子に、
「どうぞ」
と満は優しく小箱を差し出す。
湊は小首を傾げながら、ためらうように瞬きをした。
「――あしながおじさんから、あなたへ贈り物です」
そう言われ、ようやく安心した湊は小箱に手を伸ばす。満が渡してやると、湊は大事そうにそれを抱きしめて、嬉しそうに微笑んだ。
包みの中から現れたのは、落ち着いた色合いの可愛らしい缶だった。
蓋を開けると、色とりどりの小さな菓子が綺麗に並んでいる。
小ぶりのクッキー。
きらきらした金平糖。
少しずつ食感の違う甘いものでいっぱいだった。
こういうものに関心の薄い満ですら、見ているだけで少し気持ちが浮く。
箱の中をのぞき込んだ湊の目は丸くなり、みるみるうちに細くなった。口元が綻んでいく。
「これ」
その声が、にわかに弾んでいた。
満はその様子を見ながら、静かに缶の中身を眺める。
形も色合いも、刺激が強すぎない。
一つずつ選べて、少しずつ楽しめる。
湊の様子についてそこまで細かく話した覚えはないが、妙に的を射ていた。
満はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……さすがですね」
湊がもう一度、缶の中を覗き込む。
その横顔が、明るい。
満もまた、それを見てわずかに口元を緩めた。
「……まったく。相変わらず、春の嵐みたいな人だ」
もう一度、ソファに投げ出されたパジャマと、つけっぱなしのテレビへ目をやる。
早朝の空気は、まだ少しだけ冷たい。
誉はコートの襟元を軽く寄せながら、人気の少ない住宅街をゆっくりと歩いていた。
その時、スマートフォンが短く震える。
すぐさま確認すると、航からのメッセージだった。
『約束のデータを、個人アドレスの方に送った』
――現在時刻、午前六時半。
さすが。約束通り、きっちりとやりきってきたな。
誉はそんなことを思いながら、返すメッセージを打つのが面倒で、そのまま通話ボタンを押した。
するとすぐに、初っ端からいつもより一段低い、明らかに疲れた声が出た。
『もしもし』
「おはよ」
『……朝から何だよ』
かなり不機嫌そうな声だった。
――これは徹夜をしたなと誉は察したが、気付かぬふりをした。
「データありがとう。
約束通り、昼には仕上げるよ」
「ああ……まあ、無理はしなくていい。
業務でも負担をかけているしな」
「君が頑張ってくれたんだからさ。
俺も約束は守るよ」
その言葉に、少しだけ航の声が和らいだ。
『……悪いな』
「ううん、いいよ。
あと、そう、ちょっと一つお願いがあってさ」
『なんだ?珍しいな』
「渡航前にうちの鍵を預けたでしょ。
あれ、まだ持ってる?」
『ああ、もちろん。だが、鍵?どうした?』
「まあ、うん。ちょっと」
『なんだそれ』
煮え切らない答えに、航から呆れた声が返る。
「悪いんだけど、医局まで届けてくれない?」
『ええ……そっちの医局地味に遠いんだよ。
帰りにでも取りにウチ寄ればいいだろ』
――何となく。
本当に何となくなのだけれど、誉は航の家に乗り込むのには大きな抵抗があった。
その癖に、何の悪びれもせずさらりと言う。
「午前は片手間で仕事回しつつ、君の宿題やるし。午後も手術続きでさ。
何時に帰れるかわかんないんだよね。」
そして、少しだけ笑う。
「誰かさんのおかげで、もうずっと人手不足なんだよね。今日も午後は二件連チャンだし、今週休出確定だよ」
『……』
数秒の沈黙。
『……昼休み前に持っていく』
「ふふ、ありがと」
誉は素直に返す。
「なら、資料も一緒に確認してもらえるし助かるよ。じゃあ、お昼休みにね」
誉は電話を切った。
その流れで、昨夜瀬戸からもらったURLにアクセスをした。パスワードを入れると、すぐに画面が切り替わる。
画面には、起き抜けのカイが映っていた。
ベッドの上で、何かを握りしめたまま固まっている。それがキーケースだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
カイは小さく肩を震わせた後、ぎゅっとそれを抱いた。
誉は目を細める。
そして指先でそっと画面を撫でると、スマートフォンを胸ポケットにしまい、朝の道をゆっくり歩き出した。
ーーカイは、手の中のキーケースをぎゅっと握りしめる。そうすると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
その時、内扉が開いた。
「ああ、起きてたか」
入ってきたのは、航だった。
いつもより、わずかに覇気がないのが気になったが、本人は動きだけはシャキシャキとバイタルチェックの準備を始めている。
「……おはよ」
だから何となくそれを指摘しづらくて、いつも通り小さく返した。
「じゃあ、診るぞ」
「うん」
熱を測って、脈を取り、最後に胸へ聴診器を当てる。いつもの流れだ。
航は一度眉を寄せ、それから位置を変えてもう一度胸の音を聞いた。
「……あー」
「なに」
「音、ちょっとおかしいな」
なんとなく予想はついていたものの、カイが一瞬だけ顔をしかめた。
航は聴診器を外しながら、軽く肩を竦める。
「まあ、夕べもあれだけ盛大に泣いたりしてたもんな。……ネブるか」
「ネブる?」
「ネブライザー」
「……雑すぎる」
カイは、じとりと兄を見た。
しかし、近くで見ると余計に兄の顔が疲れていることが気になって、つい口に出てしまう。
「というか、兄さん、ちゃんと寝てる?
……目の下のクマすごいよ」
航は一瞬だけ口を閉ざした。
――誰のせいだと思っている。
そう言いたい気持ちはあったが、さすがに今それを言っても仕方がない。
……半分は自分で招いたことでもあるわけだし。
だから代わりに小さく息を吐いて、機器を準備しながらぼそりと返す。
「……このあと、少し仮眠する」
それから、何でもないことのように続けた。
「ベッド半分借りるぞ」
「え、ここで寝るの」
「まさか職員用の仮眠室で寝るわけにいかんだろう。そうすると、ここにしかベッドがない。
あとこのベッド寝心地がめちゃくちゃいい。
俺も発注した」
あまりにも真顔で返され、カイは一言葉を失う。
「……大変だね」
「おう」
航はそう言いながら、ネブライザーの準備を終えると、マスクを差し出す。
「ほら」
それにカイが素直に手を伸ばしたので、航は驚いた顔をした。
「今日はイヤイヤしないのか」
カイは少しだけ視線を落としたまま、布団の中に隠した鍵を握りしめた。
「うん」
ゆっくりと、噛みしめるように言う。
「……がんばる」
それから、はっきりと続けた。
「元気になって、うちに帰るんだ」
その言葉に、航は何も言えなかった。
ただ弟の横顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
ーー前向きで、良い傾向だ。
それでも、きっとその「うち」が如月の家ではないであろうことに、航の胸は小さく痛んだ。
航はそのまま、ただ一度だけ小さく頷いた。
それから静かにマスクを改めて差し出す。
カイもまた、素直に受け取って、懸命に治療に向き合おうとする。
「がんばる」という宣言通り、カイは朝食も完食した。時間はかかったが、それでも全部食べきれた。
食後、投薬を含めひと通りを終えたタイミングで、航はネクタイを外しながらベッドに近づいた。
「寝る」
「……ほんとにここで?」
「言っただろ」
そう返すなり、航はさっさと靴を脱ぎベッドへ上がり込んだ。カイが慌てて端に寄るより早く、その隣へごろんと横になる。
「……もう、オレはあっちで起きてるからね」
「駄目だ、病人は寝てろ」
「さっき起きたばっかだもん、寝れないよ」
「うるさい、兄さんの言うことを聞け」
「横暴!」
言い合っているうちに、航の瞼が重くなっていく。その後すぐに腕が伸びてきて、カイの腹のあたりに回った。
「……えっ」
カイが思わず固まる一方で、ぐいと引き寄せられる。
「ちょ、兄さん」
「あー……あったけー……」
すると、すぐに後ろからふにゃふにゃな兄の声が聞こえた。カイは思わず目を瞬かせる。
「なんか、いいにおいするし……」
そこまで言ったあたりで、もう声は半分寝言みたいに潰れていた。
すぐに静かな寝息へと変わっていく。
「いや、ちょ……」
完全に抱き枕みたいな体勢にされて、カイはしばらく瞬きを繰り返した。
「……???」
兄の力は思いのほか強く、抜け出す術がない。
カイは首をかしげたまま、後ろから響き始めたいびきを聞いていた。
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