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3-23.
日付が変わって、少し経った頃。
非常識に響くインターホンの音に、満は眉を寄せた。すぐにモニターを確認し、音を切って居留守を決め込むことにしたのだが――。
ドンドンドン!
直後、強く玄関ドアを叩かれ、満は辟易とした。
そもそもここは共用エントランスとコンシェルジュ常駐のマンションである。
一体どうやって突破してきたのかと頭を抱えていると、
「おーい、満。いるでしょ。おーい」
そう玄関の方から声が聞こえてきた。
玄関からドアを一枚隔てたリビングまでバッチリ聞こえてくる。
ーーどれだけ大声を出しているんだ、あの男は。
満はため息をつくと、観念したように立ち上がった。
「……」
「やっ、こんばんは」
満がドアをわずかに開いた瞬間、誉はにこやかにそう言った。顔こそ朗らかだが、その靴先はドアの隙間にしっかりと差し込まれている。やっていることは、ほぼ押しの強い訪問販売だ。
「お引き取りください。迷惑なので」
「やだ」
誉は間髪入れずにそう返してきた。
さらに慣れた様子で足を滑り込ませ、そのまま手でこじ開けようとしてくる。
ドアが歪むのではないかと思うほどの力だ。
――ゴリラか。
満は思わずそう心中で呟いた。
物理的に勝てる気が、全くしないーーだから。
「やめてもらえますか」
「入れて」
「嫌ですってば」
「せっかく眼鏡を返しにわざわざ来てあげたのに。
あと、ついでに泊めて」
「完全に眼鏡の方がついででしょ、それ」
「別に、どっちでもいいじゃないか」
満はその顔を数秒見つめてから、冷たく言い放つ。
「……いいから、帰ってください」
「そうしたいのは山々なんだけど、鍵がなくて家に入れないんだよ」
「落としたんですか?……あなたらしくないですね」
意外そうに尋ねると、誉は即座に視線を逸らした。そして、そのまま少しだけ肩を竦める。
「……ちょっとね」
「答えになってません。……ごきげんよう」
満は誉の靴先を足で踏みつけて外へと押し出し、ドアを閉めかけた――が。
「じゃあ眼鏡は返さない。もっと大きな声も出す」
「……はあ?」
眉を寄せた満に、誉がやけに穏やかな声で続ける。
「湊くん、寝てるんでしょ?」
にやりと笑うから、満は、すぐに諦めたように深く息を吐いた。
「……最悪」
そう呟いて、ドアノブから手を離す。
その隙を逃さず、誉は慣れた様子でするりと中へと入り込んできた。
満は無言でドアを閉める。
その背に、気の抜けた声が飛んだ。
「お腹すいた、いつもの」
満が振り返ると、誉は既にバスルームへと向かい始めていた。
「先にシャワー浴びてくるから」
「あまり調子に乗っていると抱きますよ」
すると、誉がぴたりと足を止めて振り返る。
「愛する妻がいるので、お断りします」
満は数秒だけ沈黙してから、
「……本当に図々しい」
とだけ返した。
そのまま誉は脱衣所へ消えかけた――が、ふと思い出したようにもう一度顔だけ出す。
「下着、いつものとこ?」
「捨てました」
「えっ、なんで」
「湊の荷物を入れるのに、すごく邪魔だったので」
「はあ……どうせ俺は昔の男ですよ」
「抱かせもしないくせに、よく言いますね」
誉は悪びれる様子もなくヘラリと笑い、
「じゃあ、着替えちょうだい」
と、手を差し出す。
「……棚の一番下に新しいのがあります」
「サンキュ」
それを見送りながら、満はもう何度目か分からないため息をついた。
そのまま玄関に放り出された鞄を拾い上げ、キッチンへ戻っていく。
ほどなくして、誉がバスルームから戻ってきた。
肩にタオルをかけたまま、キッチン前のカウンターテーブルに腰を下ろす。
「……」
その姿を一瞥して、満は思わず吹き出した。
パジャマのサイズが、明らかに合っていない。
特に上着。
どうにか着ているものの胸元が中途半端に開いたままだ。おそらくボタンがしまりきらなかったのだろう。
誉は不貞腐れたまま、テーブルの白湯に口をつけた。
「これ、ワイシャツは絶対無理だな」
「おや、アメリカ暮らしで太ったんじゃないですか?」
「……帰国前に戻した。
だからこれは、純粋に体格差」
「へえ。ちなみに、何キロ?」
「5キロ。甘いものが美味しくてさ」
満はくすくすと笑いながら、テーブルに皿を置いていく。
「それは頑張りましたね。
むしろ仕上がってしまったのでは?」
「……かも。まあ、カイの前では、常に最高にかっこよくないといけないし」
誉はそう言いながら、並べられた明らかに健康的な夜食に手を伸ばす。
そして軽やかなペースで口に運ぶ。卵焼きをもぐもぐと咀嚼しながら、満足そうに目を細めた。
「帰国したらこれ、絶対食べようと思ってたんだよね」
「勝手に予定に入れるのやめてもらえますか」
満に間髪入れず冷たく返されたが、誉は嬉しげに口元を緩めた。
しばらくは、静かな咀嚼音だけが続いた。
満はコーヒーを口に運びながら、その横に腰を下ろす。そのまま、ちらりと誉の方を見た。
開いたパジャマの前。
濡れたままの髪。
上品なすました顔をしているくせに、実際の振る舞いは豪快で男らしい。
満が小さく、ため息を落とす。
誉は顔も上げずに、くすっと笑った。
「……何?欲情した?」
「その余計なひと言で冷めました」
満は冷たくそう返し、コーヒーに口をつけた。
誉は小さく笑うと、何事もなかったように食事を続ける。だが、数口食べたところでふと箸を止めた。
そして、何気ない調子で尋ねる。
「フェロー中に、カイが酷く体調崩したって聞いたんだけど」
「……」
満は、わずかに視線を逸らして黙り込む。
「俺、あんまり詳しく知らないんだよね。
航は教えてくれる気がないし。カイもこの件はアテにならない。――カルテも、見れないし」
「親族のカルテは、別管理ですから」
「……だよね。副部長権限を持ってしても、君のすら見られなかった。さすが、徹底してる」
誉は揶揄するように笑むと、小さく息を吐いた。
「――完全に、詰み」
そしてそう呟いて、ゆるく視線を満に向ける。
対する満は、眉を寄せた。
「なるほど、これが一番の目的ですね」
「まあね」
あまりにもあっさりと、誉は頷いた。
満は、誉のコップにお茶を注いでやりながら諌める。
「仮に櫂の既往歴を知って、どうするんですか。
興味本位だとしたら、悪趣味ですよ」
誉は、すぐに小さく首を振る。
「今後のケアに必要な情報だからね」
「……あなたが?」
満がそう問い返すと、誉はきょとんとした顔で瞬いた。
「当たり前でしょ」
そして、さも当然のことのように言う。
「伴侶だよ?」
その言葉に、満は一瞬だけ口を閉ざした。
だが、やがて淡々と返す。
「もう、済んだことです」
「済んでないでしょ。まだ引きずってる。
今回の入院は些か強引だったけど……遅かれ早かれ、一度は必要になったと思うよ」
「……話せません。守秘義務があります」
満が毅然とした態度でそう答えると、誉は意外にも強くは食い下がらなかった。
「そう言うと思ったよ。なら、話さなくていい」
微笑すら浮かべながら、満の瞳を見る。
「俺の顔を見て、話だけ聞いて。それでいい」
満は何も言わなかった。
ただ、その視線だけを誉の目に合わせる。
誉は満足そうに小さく笑うと、箸を置いた。
「まず、きっかけは一つじゃない」
穏やかな声で、淡々と続ける。
「環境が大きく変わった。
公私共に俺がいなくなって、生活の基盤が崩れた。
勿論、そんなことは想定内だったけど……残念ながら、航のケアは、あの子には刺さらなかった」
満の指先が、カップの持ち手にかかったまま止まる。誉は、気にせず続けた。
「航の院長就任も、要因の一つ。
自分だけでなく、兄にまで気を回そうとしてしまった。あれでいて、意外と他人のことを心配するんだよね。――根は、本当に優しい子なんだ」
そこで一度、静かに息を吐いた。
その声に、力がこもる。
「そして事もあろうに、自分にも新天地への異動、更に副院長の打診。まあ……、普通にきついよね」
少しだけ間を置いてから、誉は低く続けた。
「つまりは、環境の急激な変化に、適応しきれなかった。主訴としては、そのへんかな」
満の目が、ほんのわずかに細くなる。
「あの子は、耐え抜いて限界がくるわけじゃない。
処理しきれなくなった瞬間、ブレーカーみたいにストンと落ちる。 今回も、それだよね」
誉は、さらにゆっくりと言葉を重ねた。
「恐らく、仮に俺がついていても耐えきれなかったと思うよ。――勿論、ここまでは落とさないけどね」
不敵に笑うと、満は半分あきれたように肩を竦めてみせる。誉もまた穏やかに笑みながら続ける。
「君たちも、対応に困ったでしょ」
「……」
「なぜなら、フィジカル的にはそこまでじゃなかった。 落ちたのは、完全にメンタル。しかも並じゃない落ち方だった」
満は、何も言わない。
だが、カップの縁に触れていた指先に、わずかに力がこめられる。
「そのせいで、これまでの言い訳が崩れた」
誉の声はあくまで穏やかだった。
「フィジカルに引きずられてメンタルが落ちる、というロジックを通してきた。――でも、今回は逆。
ロジックは、完全に崩壊」
視線を逸らさず、そのまま続ける。
「それで、航一人の主治医体制にも限界が生じた。航は心療内科の専門医も持ってはいるけど……賄いきれなくなった」
誉はそこで小さく息をつき、何気ない口調のまま続ける。
「だから、あくまでも補助として置いていた君を主治医に引き上げたんだろ。
―― 今まで避けてきた、"思考力を奪う"ほどの強い抗うつと抗と不安剤を使い始めたのも、そのせいだ。
今の処方を見る限り、メンタルの治療に主軸が置かれていると言わざるを得ない」
満は黙ったままだ。
誉は、最後に少しだけ声を落とした。
「小手先じゃごまかせないところまで来ちゃった……ってことだよね」
そこまで言い切ってから、そのまましばらく満の様子を伺う。
そして、唐突に声色を元に戻した。
「さて、カイのカルテってどうなってるんだろう?
別管理、だっけ? ……以前、瀬戸さんが昔ながらの紙ベースで管理してたけど……もしかして、まだ」
「データもあります。別のサーバーですが」
「……なるほど」
満は、息を吐いた。誉を改めてまっすぐに見る。
誉が口を開いた。
「如月家本家の人間は、病に屈してはならない。
まあ、どこからを屈したと定義するか、だけど。
――あの子の心は、如月家的にはまだ屈していないのかな」
「……」
静かに黙し続ける満に、誉は微笑みながら頷いた。
「――そっか。
分かった、ありがと」
そして軽くそう言った刹那、一瞬だけふっと満の肩から力が抜けた。
誉は、そんな満を横目で見ながら湯呑みに手を伸ばし、さらりと言う。
「俺、またあの子と暮らすよ」
それは、あまりにも自然な口調だった。
「理事会に、どう思われても知るもんか。
病院を――いや、医師そのものを辞めたっていい」
そして、何でもないことのように続ける。
「俺がそばにないとね。
ーーあの子、幸せになれないから」
その言葉に、満は思わず誉を見た。
あまりにも自然にそう言うので、思わずあの話をしてみたいという衝動に駆られ――そして、負けた。
満は、ゆっくりと言う。
「――理事会が、瀬戸さんの後任にあなたを推していると聞きました」
珍しいことに、誉がきょとんとした顔で瞬いた。
「もし正式にオファーがあったら、受けますか?」
しかし、次の問いには、すぐさま首を横に振る。
「受けるわけないでしょ」
そして、あっさりとそう言うと不敵に笑った。
「まず、カイが望まない。 あの子が欲しいのは、執事じゃなくて伴侶だからね」
それを聞いた満は、口元を緩めながら
「――愚問でしたね」
とだけ言って、静かに立ち上がった。
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