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3-22.

「カイってさ……」 モニターに目をやったまま、ゆっくりと誉が言う。 「褒められると、一瞬だけ驚いた顔をして……その後、ふにゃって笑うんだよね。 ――本当に嬉しそうに笑うんだ」 話しながらその様子を思い出したのか、ふふっと笑う。 「俺さ、その時のカイの顔が大好きなんだよね。 こっちまで嬉しくなるし、なによりも……」 「可愛くてたまらない、と」 「……先に言わないでくれる」 「だからって、お前はあいつを褒めすぎ」 「あの子は、やりすぎるくらいが丁度いいよ」 「そうやって、お前が甘やかすから」 誉はモニターを見つめたまま小さく肩をすくめ、静かに言う。 「いいんだよ」 航が眉を寄せた。 けれども、誉は気にせず続ける。 「カイはずっとひとりぼっちで闘ってきたんだよ。 どんなに頑張っても、如月家の息子なら出来て当たり前。その上で、人気者で、健康優良児の誰かさんと比べられて育ったんだ」 航が何かを言いかけて、口を開いた瞬間。 誉が畳み掛けるように続けた。 「だからこそ今、ちゃんと褒めて、甘やかして。 取り返させてあげて、何が悪いの」 航は口を噤んだ。 何も言えるはずもなく、ただぐっと唇を噛む。 誉は柔らかに微笑んだ。   「本当は俺が褒めちぎってやりたいところだけど、さ。――今回は、君に譲るよ」 そして、まっすぐに航を見つめた。   「今のカイにはきっと、尊敬するお兄さんに褒めてもらうのが、一番効くし……嬉しいだろうから」 それから一瞬だけ間を置いた後、しっかりとした口調で続ける。   「だからさ、カイを褒めてあげてよ、航 ――そうしたら、カイは応えてくれるから」 「ほんと、お前な」 航は呆れたように息を吐いた。 しかし、その顔はどこか穏やかだ。   「……分かったよ。ちゃんとやってやる」 そのやり取りを聞いていた満が、ふと口を開いた。 その口端がわずかに緩む。 「褒め方のよいレクチャー本、お貸ししましょうか?」 「いらん」 航は即答し、 「俺は、そのへんは実地で学ぶ主義なんだよ。 ――弟と違ってな」 と、得意げに胸を張った。 それから、誰ともなしに顔を見合わせる。 すると、三人とも自然と笑みがこぼれた。 ――そして。   「よし」 誉はそう言うと、パンと手を叩いてソファーから立ち上がった。 「それでは、俺はそろそろ"メインディッシュ"を頂いて参ります」 「おいおいおい」 「こらこら、待ちなさい」 そのまままっすぐ内扉の方に歩き出したので、二人が慌てて止めに入る。 すると誉は、思い切り不満げに眉を寄せた。 「終わったらいいって言ったじゃないか」 「"頂く"って言い方が不穏なんだよ」 「あなたは、理事会にとっては最重要参考人ですからね」 「カメラは今も回っている。不自然な行動は控えろよ。くれぐれも、見るだけだぞ」 誉はやれやれと肩を竦めると、小さく息を吐いた。 「……善処します」 「厳守しろ」 即座にそう釘を差され、もう一度ため息をつく。 それから、心底面倒くさそうに満に向かって手を出した。   「満、メガネ。貸して」 「――はい?」 「はやく」 「嫌ですよ、何で」 「君と俺は、背格好が似てるだろ」 「あ、こら」 誉はそう言いながら、隙をついて素早い身のこなしで満からメガネを抜き取ってしまう。 「あの暗さと解像度のカメラなら、メガネに白衣で十分ごまかせるよ」 そしてそれを掛け、ついでに髪の毛を軽く整えながら平然と続ける。 「お前、よく他人のメガネ掛けられるなあ」 「航、感心しない。そういう問題じゃありません」 「平気だよ。満は伊達メガネだから」 「えっ」 「……まあ、そうですが」 「えっ、俺、知らなかった。 何で言ってくれなかったんだよ」 「聞かれなかったので」 「言ってくれなかったじゃないか」 「それ、如月家スタンダードなの?」 誉はクスクスと笑いながら、二人に軽く手を振り、改めて内扉の方へと向かっていく。 「見るだけですよ!」 「ハイハイ」 次の瞬間には、軽やかな音と共に扉が閉まった。 院長室に残された二人は、共に呆れながら顔を見合わせる。   「……大丈夫だと思うか、あいつ」 「さあ。彼も流石にそこまで馬鹿ではない筈です」 「そうかなあ……」 「……そんなことよりも」 満はそう言うと、航に向き直った。 「どうした、急に改まって」 「ええ、まだ聞けていないので」 「?、何の話だ」 満はスっと目を細め、満面の笑みで返す。 「あなたが先日新たに購入したという、珈琲農園についてです」 「……あ」 航は引きつった笑いを浮かべ、そのまま後ずさって逃げようとした――が。 「さあ、院長先生。こちらへ」 満にしっかり首根っこを掴まれ、そのまま応接セットへと連れて行かれてしまう。 航は観念したように肩を落とすと、深くため息をついた。 誉は、そっと扉を閉める。 ベッドサイドの間接灯だけが淡く光る室内は、隣とは打って変わって静寂に包まれていた。 規則正しい計器の駆動音の合間に、ちいさな寝息が交じる。誉は自然と口元を緩めながら、その先へと歩を進めていった。 途中、さりげなくカメラの位置を確認する。 院長室で見た映像からおおよその見当をつけていたので、すぐに把握出来た。 そのままカメラに背を向けるようにして、ベッドの横に立った。 白いシーツに沈むようにして、ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、カイは静かに眠っていた。   その呼吸は一定で、体の強張りもない。 顔つきも穏やかだ。 さっきまでの発作が嘘みたいに、すっかり落ちついている。 誉は目を細めると、少しだけ椅子を引き寄せ腰を下ろす。そして、その頬にかかる髪にそっと触れた。   やわらかいそれを、指先で、ゆっくりと撫でる。 次は、頬――輪郭をなぞるように、丁寧に。 するとその時、 「……ん」 と、小さな声が漏れた。 誉は手を止めて、様子を伺う。 ――すぐにまた、すやすやと可愛らしい寝息が続いたので、誉はふっと息を抜いた。 そのまま、もう一度だけ軽く頬を撫でてから、手を離す。 ふと、大切に抱かれているウサギのぬいぐるみに視線が落ちた。身につけている少しだけよれたシャツを、指先でつついてみる。 ――ちゃんと、着せてくれている。 そう思うと、自然と笑みがこぼれた。 様子だけ見れれば十分だと思った。 それだけで、満足して帰るつもりでいた――けれど。 そのとき、腕の中のウサギを抱き込むように、カイの体がもぞりと動いた。 起こしてしまったかと思って、その顔を覗き込む。 だが、目は固く閉じられたままだった。 次に、かすかに桃色の唇が動いた。 「……ほま……」 すうっと寝息が間に挟まり、声が途切れる。 呼ぶような、縋るような響きに、誉は目を細めた。 それからほんの少し遅れて、 「……かえろ……」 と、掠れた小さな声が続く。 一段とウサギがその胸に深く抱き込まれ、体が丸まった。それきり言葉は途切れ、代わりにまた穏やかな寝息が聞こえ始めた。   誉はしばらく何も言えないまま、その顔を見つめていた。 夢に見るほど帰りたいくせに。 それでも逃げずに、ちゃんと踏ん張っている。 一番苦手な祝賀会にだって、自分で出ると決めた。 ――俺との未来のために、立ち上がったんだ。 「……ほんと、ずるい。ずるいよ、カイ。 こんなの、もっと好きになっちゃうじゃないか」 ――何か、してやりたい。 強くそう思うけれど、今、どんな言葉をかけても、きっと朝には残らない。 その時、ふと誉は思った。 ――カイには、論より証拠。 きっと今のあの子に必要なのは、言葉よりも、触れられる何かの方がいい。 そう思って、咄嗟にポケットに手を入れる。 指先に触れたものを順に探って、行き当たった感触に、誉はほんの少しだけ目を細めた。 そっと取り出したのは、黒革のキーケースだった。 長く使い込んだ革は柔らかく、指によく馴染む。 誉は身を乗り出し、 「……そうだね。一緒に、帰ろうね」 と、小さくその耳元で囁く。 同時に、抱きしめたウサギの隙間に指先を差し入れて、その手にやさしく触れた。 少しだけ指を開かせ、そこにキーケースを滑り込ませてやる。   すると、無意識のままカイの指が動いた。 そのまま自然にぎゅっとキーケースを握る。 それを見た瞬間、誉は自覚した。 ――ああ、これはもう、無理だ。 本当は、一目だけでも見れればよいと思った。 けれど、どうしてもこの手を離したくない。 誉は、視線だけをゆっくりと上げていく。 あどけない、眠っている顔。 少しだけ緩んだ口元には、さっきの寝言の余韻がまだ残っていた。 誉は困ったように、それでもどうしようもなく嬉しそうに、小さく笑った。   「……だめだなあ」   そしてシーツの端をそっと持ち上げると、そのまま影の中へ入り込んだ。 キーケースを握らせたままの手にそっと指を添えながら、ゆっくりと顔を寄せる。 触れるか、触れないかのところで、一度だけ止まる。唇に、小さな吐息がかかった。 「……かわいい。……愛してるよ、カイ」   そして噛み締めるようにそう呟いて、ゆっくりと唇を重ねていく。 その瞬間、カイがその手の中のキーケースを、ほんの少しだけ強く握った。 ーーそれは、ほんの一瞬だった。 誉はすっと離れ、何事もなかったかのようにシーツを戻す。 そして柔らかく微笑みながら、その頬をゆっくり撫でると立ち上がった。 そのまま振り返ることなく、外扉から廊下に出る。   すると、そこには瀬戸が控えていた。 いつもの通り恭しく頭を下げてきたので、誉も会釈を返す。 顔を上げたところで、瀬戸が誉に1枚の封筒を差し出してきた。珍しく家紋付きではなく、カイが大好きなウサギちゃんのキャラクターが描かれている。 誉がもう一度瀬戸の顔を見ると、瀬戸は小さく頷いた。それを受け取って、中をそっと確認する。 そこには、URLとパスワードが記されていた。 瀬戸が口を開く。 「坊っちゃまのご様子から、もし何かございましたら、ご助言頂きたく」 そう言ってもう一度深く一礼すると、カイの部屋へ静かに入って行った。 誉は小さく肩を竦めながらその背中を見送る。 そして、扉が閉まると同時に踵を返し、ゆっくりと歩き始めた。 「――あ!」 時を同じくして、院長室。 勝手に新たな農園を購入した件で満にこってり絞られ中の航が、いきなりそう叫んだ。 次の瞬間、モニターを見たまま立ち上がる。   「座りなさい、まだ話は終わってませんよ」 「あいつ、やりやがった!」 「……?」 遅れて満もモニターに目をやる。   そこには、ベッド脇へ沈み込むように寄る白衣の影が映っていた。 うまく死角に入っていて、何をしているかまでは見えない。けれども、航と満が何をしたかを察するには、それだけで十分だった。 「あなた方はどうして次から次へと問題を……」 満はため息をつきながら額を押さえ、天を仰ぐ。 「おい、出ていったぞ。逃がさん」 航がそう言って院長室から勢いよく出ていったが―― 「あいつ!もういねえ!」 と、すぐに戻ってきた。   「眼鏡……」 「持っていったな」 「……」 「どこが『そこまで馬鹿じゃない』だよ。全然馬鹿じゃねーか。あいつ自分の立場わかってんのか?」 「……その瞬間は映っていませんので」  満は疲れたように息を吐く。 「あなたの口八丁で、なんとか誤魔化してください」 「いや、限界があるだろ」 二人は重く沈みながら、揃って肩を落とし、深くため息をついた。   病院を出ると、ひやりとした外気が頬を撫でた。 誉はコートの襟元を寄せ、そのまま駐車場へと向かう。 いつもの場所に停めた車の前まで来て、何気なくポケットを探る。 最初に指先に当たった封筒の感触に、ほんのわずかに目を細めた。 ウサギちゃんが描かれた可愛らしいあの封筒が脳裏に蘇る。  「……瀬戸さんも、これ使うんだ」  見慣れた、あのウサギのキャラクター。 他では手に入らないはずのそれに、誉はふっと笑う。 「カイがあげたのかなあ……」 それからいつものようにポケットを探ってすぐに、  「……あ」   と、小さく声が漏れた。 そのまま数秒だけ止まり、誉は静かに瞬きをする。 それから、ゆっくりと息を吐いた。 そしてすぐに、小さく肩を竦めると、 「……まあ、いっか」 独り言みたいにそう呟くと車に背を向け、踵を返し、夜風にコートの裾を揺らしながら、歩き出した。 ――少しだけ、どこか寄って帰ろうかな。 そんなことをぼんやりと思いながら、けれども足取りは軽いまま、夜の街に消えていく。

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