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4-10.

祝賀会の残務もようやく一段落し、あとは事務手続きのみとなった。 しかし、それでもなお会場に残り続けようとした航は、瀬戸に促され渋々同ホテル最上階のレストランへと向かったのだが、その入口で、一瞬だけ足を止めた。   ——フレンチ? 今日は、お祖父さまも同席だと聞いたが…… 「航さま、お待ちしておりました」   航の姿を見つけた店員が静かに頭を下げ、奥の個室へ案内する。 すぐ扉の向こうから、母の笑い声が聞こえた。 ——なるほど。 航は軽く頭を下げ、中へと入る。 「あらぁ、航ちゃん。遅かったじゃない!」   すると、半分ほどのワインが残ったグラスを揺らしながら、母が口を尖らせてそう言った。 「もぉ、ママ、待ちくたびれちゃったわ。 お時間は守りなさいって、いつも言ってるでしょう?」 「……申し訳ありません」 航はそうとだけ返し、末席に腰を下ろした。   夜景側の革張りのソファには、当主と母が並んでいる。 上座であるそこは、本来であれば母の席ではない。   ——だが。 それを咎めるべき当主が、当たり前のように母の隣でグラスを傾けていた。   ——まあ、無理だな。 寄り添う二人は、義親子というより、まるで夫婦のようだ。 当主は濃鼠の着物に、深い藍の羽織を重ねている。母はそれに合わせるように、淡い藤色のドレスをまとっていた。 いつもの彼女らしい露出と派手さはない。 代わりに、仕立ての良さと本人の華で魅せる上品なものだった。 その胸元に光る紫水晶のブローチは、航が幼い頃、祖母の襟元で何度も見たものによく似ていた。 視界の端で、隣席の父が小さく肩をすくめてみせた。いかにも「自分も困っている」とでも言いたげなその仕草を、航は静かに見なかったことにした。 「今日は航ちゃんのお祝いのために、お忙しいお義父さまもいらしてくださったのよ? それなのに遅れてくるなんて……。 一体、何をしていたの?」 「祝賀会の残務にあたっておりました。 申し訳ありません」 「段取りが悪いな」 その父が、すぐ隣で低く言った。 「院長たるもの、時間に遅れるなど言語道断だ。 そういうところを見られているんだぞ」 「申し訳ありません」 すると、すぐに母が口を挟んできた。 「まあ、征一郎さん。 航ちゃんにぜーんぶ任せておいて、そんな風に叱るなんてあんまりだわ。だったら、ちょっとは手伝ってあげればいいじゃない」 「なっ」 「今夜だって一番乗りしちゃって。 航ちゃん、きっとあなたの分まで一人で頑張ってたのよ。かわいそうに。 ねえ、お義父さま」 母はそう言って、当主の袖口にそっと指を添えた。 甘えるように、下からその顔を見上げる。 当主は、しばらく母を見ていた。 それから、征一郎へ視線を移す。 「紗栄子、お前はいつもそうやってわけもわからないくせに余計な口を」 そう征一郎が言いかけた時、当主が小さなため息と共に首を横に振った。 「紗栄子の言うことも一理ある。 お前より、よほど立場を理解している」   そして、母親——紗栄子の言葉を咎めるどころか、静かに頷いた。    「しかし、父さま。今日は新院の——」 「北丘は、如月記念病院の分院だ」 当主が、父の言葉を遮った。 「お前が知らぬ顔をする話ではない、征一郎」  「そうよ。 あなた、航ちゃんよりお立場は上でしょう? それなのにぜんぶ任せきりだなんて、無責任ですわ」   紗栄子は当主の袖口に添えた指をそのままに、淑やかに笑う。 「ですが、父さま」 「航」 当主は、それ以上、息子の声を聞こうとはしなかった。孫の方へと向き直り続ける。 「お前が一人で抱え込む必要はない。征一郎でも、やれることはあるだろう」 「かしこまりました。では父さん、次回より事前にご相談します」 「いや、私は」 「よかったわねえ、航ちゃん。 パパ、手伝ってくださるって」 「はい。助かります」 征一郎が言い返そうと口を開いたその時、扉が静かに開いた。店員が、航の前に白い皿を置く。 魚介と季節の野菜を小さく仕立てた前菜が、絵画のように盛られている。 航はそれを一瞥し、ナイフとフォークを取った。 「航ちゃん、おめでと。がんばったわね」 紗栄子がワインの瓶を持ちながら、にこりと微笑む。 「まだ仕事がのこっていますので、アルコールは」 「ママのお祝いの気持ちだから」 すると、当主が低く言った。 「航、付き合ってやりなさい」 「……いただきます」 目の前のグラスに、軽い赤ワインが注がれていく。 視界の端に、空になった一瓶が見えた。 前菜合わせのシャンパンは既にもう、母が空けた後のようだった。 「今日は、つつがなく終わってよかったわね」 紗栄子は、楽しそうに頬に手を添えふ。 「櫂ちゃんも頑張ったって聞いたわあ。 お写真を見たわ、二人のお洋服も素敵ね! あれは誰が選んだの?」 「……私です」 「そうなの!兄弟お揃いでかわいいわ〜」 「ありがとうございます」 「でも、ママも選びたかったわあ」 「……申し訳ありません」 「航、次は紗栄子も呼びなさい。 これはセンスがいい」 「……かしこまりました」 航は、前菜を一口分だけ切った。 皿の上で、ナイフが小さく音を立てる。 「今宵のこれも、紗栄子が選んでくれたな」 「ふふ。ワガママを言ってごめんなさいね。 どうしても、お義父さまから頂いたこのブローチに合うようまとめたかったものですから」 「ブローチ?」   するとそこで、征一郎が珍しく口を挟んだ。 紗栄子は「ええ」と頷くと、胸元に光る大きな紫水晶のブローチにそっと触れる。 征一郎が、跳ねるように立ち上がった。 テーブルについた指がわずかに震えている。 航も思わずグラスを置いて、父の方を向く。 「紗栄子、それは」 「素敵でしょう? 航ちゃんのお祝いは、母親の私のお祝いでもあるって、お義父さまがくださったの」 その言葉に、征一郎の視線が当主に向けられる。 「父さま、それは亡くなった母さまが大切にしていたものです!」 珍しく声を張り上げた征一郎に対し、当主は淡々と返した。   「死人には使えんだろう」   一瞬、室内の空気が止まる。 そして、それを打ち破ったのは、紗栄子の高い声だった。 「本当に嬉しいです。 こちらに嫁いでから、なかなか馴染めなくて辛かった日々もあったけれど……私も今日、ようやく如月家の一員になれた気がしますわ」 「……何を言う。 如月を未来に繋ぐ、優秀な次代を二人も生み育てたお前は、とうに立派な家族だろう」 「ありがとうございます。 お義父さまには本当に感謝しておりますわ」 ——なんだこいつら。 力なく座り込み、うなだれる父に言葉をかけることなく、航は素知らぬ顔で目の前の料理を食べ進める。 味なんてしない。 まるで砂を噛むような食事だった。 魚料理が運ばれてくると、今度は違うグラスに白ワインが注がれた。航はまだ苦手な赤が半分ほど残っており、手がつけられない。 そのまま、肉料理に移った頃、ようやくグラスが空き白ワインに手を伸ばす。 すると、新たなグラスに濃い赤ワインが注がれた。 「あらやだ、航ちゃん。お肉には、赤でしょ」 航は軽く目を伏せた。 「……いただきます」 そのワインはさらに渋みが強く、飲み込むたびに胃の奥が重たくなる。それでも、幼少より叩き込まれた型を忠実に守り、航は食事を進めた。 「そういえば、航ちゃん」 紗栄子が、ふと思い出したように首を傾げる。 「櫂ちゃん、まだ病院なの?」 「はい」 「でも、今日は出席できたのでしょう? なら、もういいんじゃない? 明日にでもおうちに連れてきなさいよ。 きっと病院よりずっといいわ。ママもいるし」 「……本邸では、重積発作に対応できません」 「まあ。そんなに悪いの?」 「念には念を、です」 「あらっ。本当に難しい子ね でも、ママも会いたいわぁ。とっても頑張ったんだもの。いいこいいこしてあげなくちゃ」 「面会謝絶です」 「あら、冷たいこと! 私は、櫂ちゃんのママなのに!」 「主治医と瀬戸以外、今はお通しできません」 「じゃぁ、ママの気持ちはどうなっちゃうのよ」 「……私から、伝えます」 「櫂ちゃんもきっとママに会いたいと思うわ。 あんなに甘えん坊でさみしがりやさんなのよ?」 航が、フォークを置いた。 その小さな音が、妙にはっきりと響く。 続く声は、非常に冷たいものだった。 「必要ありません」 紗栄子の目が、わずかに丸くなる。 「あら。櫂ちゃんがそう言ったの?」 「私の判断です」 「そうよね、そうよねえ。 まったく、航ちゃんはいつもそうやって怖いお顔で、櫂ちゃんの気持ちも考えずに勝手に決めちゃって」    航は、再びフォークを取るだけで、何も答えなかった。 すると、当主がゆっくりとグラスを置いた。 「航の好きにさせてやれ」 「……お義父さま?」 「もとより、儂が一ヶ月間は航に任せると命じたのだ。航には航の、考えがあってのことだろう」 「もう、お義父さまがそう仰るなら仕方ないわね」   紗栄子は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに機嫌を直したように笑った。   「……ママは、しばらくはこれで我慢するわね」 そしてそう言って、テーブルの上に置いていたスマホを手に取る。 画面を軽く撫でると、そこには櫂の写真があった。   「見て。櫂ちゃん、ホントに可愛いわあ」 「ほう」 すると、当主が珍しく興味を示した。   「今日のものか」 「ええ、頂いたのよ。便利になったものよねえ」   紗栄子はスマホを傾け、当主へ見せる。 「本当に、お人形さんみたいに可愛いの。自慢の子よ」 それから嬉しそうに笑い、そのまま指先で画面をなぞる。 ロックが外れ、ホーム画面が開いた。 「それにね、お義父さま。こちらも見てください。 とっても素敵なのよ」 そこには、同じく祝賀会で撮られた写真があった。 当主はわずかに目を細め、感心したように言う。 「……三人で撮ったものがあったか」 「今はうまく直せるものがあるんですよ。 ママ友たちの間でも流行っているんです」 紗栄子は、何でもないことのように笑った。 「いらないものを、簡単に消せるのよ。 とーっても便利でしょう?」 それから笑顔のまま、スマホの画面を向かいの二人にも見せつけてくる。征一郎の手が止まり、航は一瞬で目を伏せた。 そこに写っていたのは、当主と航。そして、櫂だけだ。 わなわなと肩を震わせる征一郎を尻目に、紗栄子は言う。 「あとで、プリントして差し上げますわね」 「……うむ」 「航ちゃんにも送ってあげる」 「……ありがとうございます」 紗栄子はスマホのカバーを閉じながら、得意げに笑った。 「ふふっ、明日のママ会で自慢しなくっちゃ」 航は母から目をそらし、グラスを持ち上げた。 赤ワインの味が、やけに渋く感じられてたまらなかった。 ——その時。 左手首に小さな振動を感じた。 航はグラスを置き、ちらりとスマートウォッチを見る。 文字盤に、着信の知らせと「吉高 満」の文字。 その目が、わずかに見開かれた。 反射的に、内ポケットの端末へ手が伸びかける。 けれど、その手を途中で止めて目を上げ、当主を見る。 「出なさい」 「失礼します」  そう促されてようやく端末を取り出し、声を潜める。   「……どうした」 短い沈黙の後、航は静かに目を伏せた。 「わかった」 それから、もう一度当主の方を見る。 「行きなさい」 当主に再び促され、航は頷いた。 「すぐに行く」   航は端末を耳に当てたまま、軽く頭を下げる。 「申し訳ありません」  「あらぁ、お仕事?仕方ないわねえ」 紗栄子が、にこにこと手を振る。   「頑張ってねえ、航ちゃん」 航はもう一度会釈をし、征一郎が何かを言う前に席を立った。 廊下に出た瞬間、ふっと身体が軽くなった気がした。満と通話をつないだまま店を出て、足早にエレベーターへと向かう。 途中、満がため息交じりに尋ねてくる。   『ご気分は?』 「……よくはない」 『でしょうね。飲んだ量に対し、倍の水を飲んでください』 「うるさいな。言われなくてもわかってる」 電話の向こうで、満が少し黙った。 けれども、すぐにいつもと変わらぬ感情が乗らない声で淡々と話を続ける。   『櫂の様子は見ました?』 その言葉にわずかに動揺し、航は食い気味に返す。 「なんかあったのか?」 『いいえ?ただの確認です』 「……言い回しが紛らわしい」 『いつもと変わりません』 「……今から、向かう」 『それがいいでしょう』 エレベーターの扉が閉まる。 航はその真ん中でネクタイを緩め、小さく息を吐いた。   電話を切った満は、通話画面を見つめながらふっと笑う。  ——ご機嫌斜めな若さまのお相手は、任せるとしよう。   「お願いしますよ、誉」 満はそう独りごちた後、そっとテーブルにスマホを伏せた。

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