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4-9.
二人の唇が、静かに重なった。
誉は片手でカイの頬を包み、もう片方の手で細い背を支えながら、少しずつキスを深めていった。
「……ん」
息つぎの合間、カイはそう声を漏らしながら一瞬顎を引いた。胸を大きく膨らませて息を吸う。
苦しかったかと誉が離れようとすると、その襟をぎゅっと掴んで引き寄せる。そしてすぐに、今度は自分からまた唇を重ねてきた。
こんな強い衝動を、この子は持っていたのか。
誉は感心する一方で、理性の糸がじわじわ焼けていく。このまま押し倒してしまいたい欲が、胸の奥で暴れ回った。
――だめだ。今じゃない。耐えろ。
カイの体力は、もう限界だ。
指先だって、こんなにも冷たい。
そう思った瞬間、カイは誉の指に己のそれを絡め、ぎゅっと握った。
その不意打ちに、誉は思わず唇を緩めてしまう。
そこへ、カイがゆっくりと小さな舌を挿し入れる。
甘えるように誉を探し、誉がわずかに逃げると、すぐに追ってきた。
「ちょっ、待っ……」
思わずそう言い、肩を押して引き離すと、カイの瞳が揺れた。
「……いやだった?」
すぐに小さな声が響く。
――まずい、泣きそうだ。
すぐさま誉は察して、再びカイに口づける。
甘く丁寧に、角度を変えながら、三度。
その後またわずかに唇を離し、そっと頬を撫でながら囁いた。
「嫌なわけないでしょ」
カイがわずかに口を尖らせて俯く。
誉は安心させるように両手を広げ、「おいで」と合図をした。
するとカイが、おずおずと膝に乗ってくる。
「ちゃんと、ぎゅーってしながら。ね?」
「……ん」
そう言われてようやく安心したのか、カイはコクリと頷き、誉の胸に頬を預けた。
優しく抱きしめてやると、ようやく大人しくなる。
誉もほっと息をついた。
あのままだと危なかった。
カイの体力も、自分の理性も、もう限界だ。
――このまま入眠してくれれば。
そんな誉の思いはすぐに裏切られる。
「誉、もっと……」
カイがついと顔を上げて、熱い視線を向けてきた。
「ぎゅーって、しながら」
「……ん"っ」
その程よくトロトロになったカイのあまりの可愛さに、誉は思わず下唇をかみしめる。
その間にも、カイの唇は近づいてきて……。
――ちゅ。
小さな音と共に、唇が吸われた。
誉が反応できずにいると、カイは啄むように、何度も小さな音を立てて唇を重ねた。
ちゅ、と吸って。
離れて。
また、ちゅ、と触れる。
そのたびに、誉の腕の中で、細い身体が少しだけ甘えるように寄ってくる。
誉は、短く息を吐いた。
ここで誤魔化したら、また不安にさせてしまう。
「嫌だった?」なんて悲しい確認をさせてしまう。
誉は、カイの背中に回していた腕に少しだけ力を込めた後、応えるように自分から唇を重ねる。
カイの体がぴくりと跳ねた。
が、すぐに安心したように力が抜ける。
誉はカイを抱きしめたまま、ゆっくりと口づけていく。臆病で可愛らしい恋人の願いに応えるために、何度も、何度も。
「……ん」
カイが小さく息を漏らした。
わずかに目を開く。
すぐ近くに、誉の顔がある。
甘く口内を探られると、腰が抜けそうになるくらい気持ちいい。
キスをされるごとにふわふわとした感覚に包まれて、もうすっかり体の力が抜けてしまった。
――でも、大丈夫。
誉の腕がちゃんと支えてくれているから、大丈夫。
そう思うと、胸のあたりがきゅっとなった。
恐らく世界で一番安心な場所にいるのに、どこか落ち着かない。 それは、不思議な感覚だった。
誉の唇が離れるのが惜しくて、すぐにまた欲しくなる。
誉の息が遠ざかるたびに、胸の奥がきゅうっと縮む。
もう十分抱きしめてもらっているのに、足りない。
何度キスをされても、もっと欲しくなる。
誉以外――例えば、兄や爺に抱きしめられても、こんな気持ちにはならない。
どちらも、すごく安心はする。
でも、それだけ。もっと欲しいとは思わない。
それなら、今日会った令嬢たちは?
――抱きしめたいとすら、思わない。
そこで、ようやくカイは気がついた。
そう、こんな気持ちになるのは、誉に対してだけ。
これって、どういうことなんだろう?
その時ふと、以前読んだ本の一節が脳裏に過った。
キスは親密な相手への接触行動であり、求愛や性的欲求と結びつくことがある。
キスが欲しくなるのは、誉だけ。
この症状に名前をつけるなら、確かに「求愛」といえる気がする。でも、性的欲求って……。
「……ふっ、んん」
このタイミングで、誉のキスがより深くなる。
もう少しで考えがまとまりそうなのに、頭の中がふわふわして、思考が途切れてしまえ。
「んー……っ」
「……おっと、苦しかったね」
ぎゅっと襟を掴み直すと、誉がそう言ってすぐに離れた。
乱れた呼吸を整えるように、背中を撫でてくれる。
カイは、とろりとした赤い瞳で誉を見上げた。
優しい瞳と視線が交わると、お腹の底まできゅんとしてきた。
その瞬間、カイは本能的に悟ってしまった。
――あ、オレ、今、誉に抱かれたい。
これ、きっと性的欲求ってやつだ。
誉とは、これまで何度も身体を重ねてきた。
それでも、こんなふうにはっきりその欲を感じたのは初めてだった。
呼吸が整ったのを見計らい、誉の身体がそっと離れていく。ベッドサイドテーブルの水差しに伸びたその腕を、カイは反射的に引き留めた。
誉は困ったように微笑みながら、それでもカイの手を払わずに言う。
「お水、飲もうか。きっと落ち着くよ」
「落ち着いてる」
「ちょっと、やりすぎちゃったね」
「ちがう、ちがうよ、誉」
カイは首を大きく横に振り、誉を抱きしめる。
そして、もう一度まっすぐに誉を見ながら、はっきりと告げた。
「オレ、今、発情してる」
「……え?」
「誉に発情してる!」
誉は目を大きく開いて、言葉を詰まらせた。
カイは誉の手を取って、自分の薄い胸に押し当て、
「誉と、したい。今、したい。すごく、したい」
そう言って、ふうっと熱い息を吐いた。
布越しに伝わるカイの体温に、誉はハッと我に返る。思わずシャツの中に伸ばしたくなった手を止めて、目を伏せた。
それからすぐにカイに向き直り、もう片方の手で大きくその頬をなでながら、少しだけかすれた声で呟くように言う。
「……俺も、カイとしたいよ。すごく、したい」
カイの顔が、パッと華やいだ。
「じゃあ」
そしてそう言って、シャツのボタンに手をかける。
しかし、誉はそれをそっと制した。
「……?」
途端、カイは不安げな顔で誉を見上げてくる。
誉はゆっくりとカイの手を両手で包んでやりながら、ゆっくりと首を横に振った。
「今は、だめ」
「どうして?」
即座にそう問い返したカイの声が、震えている。
「誉もしたいって」
無理もない。
誉がこんなふうに「だめ」と言うことは、ほとんどなかった。
「誉もしたいって」
「うん、したいよ」
「オレも、したい」
「うん」
「じゃあ、どうしてだめなの?」
徐々に弱まる語気。
誉は包んだカイの手をゆっくり撫でながら、返す。
「カイのことを、愛してるから」
「……愛?」
「うん」
誉は少しだけ息を吐いて、そのままカイをその胸に引き寄せた。
そして、ぎゅっと改めて抱かれ、カイは気がつく。
――誉の鼓動の速さ。そして、身体の熱さ。
誉は続ける。
「するだけなら、できる。
今すぐにでも、できるよ。なんなら、こう言ってる今すら、このまま押し倒してしまえたら……なんて、頭の端っこで思ってたりする」
カイを抱く誉の手に、力がこもる。
「でもさ、君は今、とても疲れてる。
体力的に限界だ。
だって、倒れたんだよ?普通の状態じゃない。
そんな愛する恋人に、今、俺がするべきことは、休息を取らせることなんだ。
それなのに、俺が自分の欲を優先したら。
カイが欲しいからって、カイの身体を後回しにしたら、それはもう、愛じゃないと思う」
誉の声は、いつものように穏やかではなかった。
背中に回された手もわずかに震えている。
必死に律しているのだと気がついて、カイは何も言えなくなった。
「君がこんなにも俺を求めてくれること。
すごく嬉しい。本当に、嬉しい。
俺も君が欲しい、君に触れたい。
それは本当だよ。
でも、愛してるから、大事なことを間違えたくない。俺は、いつだってカイにとって一番いいことを選びたい」
カイは、誉のシャツをぎゅっと掴む。
その顔を見上げる勇気が出ず、そのまま小さく尋ねる。
「……愛してるから、しないの?」
「そうだよ」
「愛してるから、するんじゃなくて」
「愛してるから、今は、しないんだよ」
「……でも、誉、我慢してる」
「カイだって、我慢してるでしょ。一緒」
「……」
カイはぎゅっと唇を噛む。沈黙が続く。
しかし誉は、ずっとカイを抱きしめたまま、次の言葉が出るのをゆっくりと待っている。
少しの後、カイが小さな声でやっと言った。
「……ごめんなさい。オレ、わがまま言った」
「違うよ、カイ。
君はわがままなんて言ってないし、謝る必要もない。愛している人が目の前にいて、その人に触れたいと思うのは、自然なことだよ。
それを口にすることは、決して悪いことじゃない」
——でも。
そう言いかけて、カイはぐっと言葉を飲み込んだ。
そのまま誉に包まれながら、しばらく考える。
やがて、少しだけ体を起こすと、誉を見上げた。
「……お水、飲む」
「うん」
誉は頷いて、カイの頭をもう一度撫でた。
カイは白湯を飲んで息を一つつくと、ベッドの端の方へ、もそもそと移動する。
枕元に置いてあったうさちゃんを抱えながらトントンと手前のマットレスを叩き、
「……一緒に、寝るのは?」
と、小さく聞いてくる。
「もちろん、いいよ」
誉は微笑んでジャケットを脱ぎ、その横に横になる。カイもころんと転がって、すぐに誉の腕の中に収まった。
それから、不安げに問うてくる。
「……オレが寝たら、誉、行っちゃう?」
「ずっといるよ。大丈夫。」
「……よかった」
「俺も疲れちゃったよ。
ああいう場はちょっと苦手。緊張しちゃった。」
「誉でも緊張するんだ」
「もちろん、するよ。
壇上でなんて絶対話したくない。
よく頑張ったと思うよ。本当に、頑張った」
そう言って抱きしめてやると、カイからふふっと笑いがこぼれた。
「誉に褒められるのが、一番嬉しい」
そのまましばらく背中を撫でてやっていると、カイからふわっと小さな欠伸が漏れた。その体温がうっすらと上がって、呼吸が穏やかになっていく。
「……オレ、元気になるね」
やがて、カイがポツリと言った。
「ホントは……まだ……したい、けど。
誉が、せっかくオレのために我慢してくれたから。
だから、オレ、元気になる。
誉が、安心して、できるように」
誉は小さく微笑んで、「うん」と頷く。
そして、カイの体を更に抱き寄せて、
「——ありがとう。待ってるよ」
と囁いて、その額に軽く口づけた。
「ほまれ」
だいぶ眠たげになってきたカイが、最後にそう小さく口を開く。
「……元気になったらさ」
「うん」
「……いっぱい、しようね」
背中を撫でる誉の手が、一瞬だけ止まった。
思わず腕の中のカイを見下ろす。
まっすぐな赤い瞳と目が合った。
「……うん、約束ね」
「やくそく」
その返事を聞いて、カイは満足したように誉の胸元へ頬を擦り寄せ、誉は髪を撫でて応える。
カイは、再び大きな欠伸をし、もう一度誉を見上げる。——そして。
「誉、大好……ううん」
一呼吸をおいて、ふにゃりと微笑んだ。
「愛してる」
カイは再び誉の胸に顔を埋め、ぎゅっとシャツを掴んだ。
これ以上安心な場所は、きっと他にないと思った。
すると、どんどん眠くなって世界が遠のいていく。
「――俺も」
意識が途切れる間際、優しい声が聞こえた。
「俺も、愛してるよ、カイ」
すぐに、やわらかな寝息が響き始める。
誉はしばらくそれを聞き、腕の中の重みと体温を大切に抱くと、眠るカイの髪にそっと唇を落とした。
「……ありがとう」
そう呟いて、誉は少しだけ目を伏せる。
睫毛の先が、かすかに濡れていた。
そして、それを指先で拭い、何事もなかったようにカイを抱き直すと、ゆっくりと瞼を閉じた。
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