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4-8.
来賓の流れに紛れながら、誉は会場を後にした。
ホワイエには、まだ祝賀会の余韻が残っている。
クロークへ向かう者、迎えの車を待つ者、立ち止まって挨拶を交わす者。
そのざわめきの中を、誉は足を止めずに進む。
「櫂先生、本当に立派でしたわね」
「ええ。最後まで丁寧にお見送りまでなさって」
「少し、お顔の色が悪いようにも見えましたけれど……」
「体調を崩していらっしゃると仰っていましたものね」
「それでもあれだけきちんとお話しなさって。
ご立派でしたわ」
誉は、そんな声の間を進んでいく。
――何とか最後までもったようだが……。
恐らくもう、限界だろう。
するとホワイエの端に控えていたスタッフが、誉に気づいて顔を上げる。
「卯月さま」
誉が病院IDの裏に潜ませている、如月家職員証に手を伸ばすより早く、スタッフは小さく頭を下げた。
「瀬戸さまが、先ほど坊ちゃまを。
あちらのエレベーターへ」
「ありがとうございます」
誉は短くそう返し、人の流れから外れた。
一般の来賓が向かうロビーとは逆方向。
壁際に控えていた別のスタッフが、すぐに扉を開ける。
「こちらです」
「恐れ入ります」
表側の明るさとざわめきが、背後で遠ざかる。
扉の先は、先ほどまでの華やかさとは別世界のように静かだった。
厚い絨毯が足音を吸い込み、壁際の照明だけが低く光っている。誉は迷わず奥へ進んだ。
角を曲がると、要人用のエレベーターホールがある。歩を進めると、すぐに瀬戸と行き合った。
その腕の中には、ぐったりと力を抜いた櫂がいる。
すでに上着は脱がされ、ネクタイも緩められていた。白い髪が瀬戸の腕にこぼれ、赤い目は半分ほど閉じている。
それを見た途端、誉の眉間に深い皺が刻まれる。
だが、すぐに表情をいつもの通り穏やかなものに整え、2人に歩み寄った。
「カイ」
静かにその名を呼ぶと、白い睫毛がわずかに揺れた。
「……ほまれ」
ひどく小さな声だった。
「……ほまれだぁ」
追って、小さな手が宙を彷徨う。
誉はその手を取り、優しく返した。
「うん。誉が、来たよ」
カイは嬉しそうにふんわりと微笑むと、体をわずかに誉の方へと傾ける。
瀬戸の腕の中にいるのに、もう半分、誉の方に移ろうとしている。その様子を見た瀬戸は、わずかに目元を和らげた。
「卯月さま」
「はい」
誉はカイの手を握ったまま、瀬戸を見る。
「恐れ入りますが、坊ちゃまをお任せしてもよろしいでしょうか」
「私は構いませんが……よろしいんですか」
誉が思わずそう返すと、瀬戸は柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。……実は先日、少々腰を痛めまして。
このままでは、いささか厳しゅうございます」
その笑みの裏にあるのが、本音なのか建前なのかは分からない。
ただ、その一方で櫂は、瀬戸の腕の中から手を伸ばし、ぎゅっと誉の袖を掴んでいる。
誉は小さく息を吐き、頷いた。
「かしこまりました。では、僕が引き継ぎます」
それから、櫂へ顔を寄せる。
「カイ、おいで」
その一言で、カイは両手を大きく広げて伸ばした。
誉が受け取るように腕を差し入れると、カイはほとんど自分からしがみついてくる。
誉はそれを受け止めて、慣れた様子で背中と膝裏を支えながらゆっくりと抱き上げた。
軽い。
思っていたよりも、ずっと。
入院から、まだ二週間強。
腕にかかる重さ。
肩へ預けられる骨の感触。
腰を支える手の中の薄さ。
どう少なく見積もっても、三キロは落ちている。
誉の眉間に、一瞬だけ皺が寄った。
――航、どういうこと。後で、絶対に詰めてやる。
「おもい?ごめん……」
誉の様子を感じ取ったカイが、もぞもぞと体を揺らして降りようとする。
「全然」
「うそ」
「嘘じゃないよ、軽すぎるくらい」
「……また、軽くなっちゃったかな……、ごめん」
「大丈夫。
帰ったら、カイが好きなものたくさん作るから。
きっとすぐに戻っちゃうよ」
「……ほんと?」
「ほんと。 食べたいの、ある?」
櫂は少しだけ考えるように、誉の肩口へ額を擦りつけた。そして、ポツリと言う。
「……オムレツ」
「いいね」
「あと、パンケーキも。それから……」
「うん」
誉はカイを抱え直しながら、優しく頷く。
「カイが食べたいもの、全部、一緒に作ろうね」
その言葉に、カイは、ほっとしたように息を吐いた。
「……一緒に作って、一緒に食べたい」
「そうだね」
誉は少しだけ笑って返した。
「いつもみたいに、抱っこして食べようね」
カイは嬉しそうに目を細めながら、頷いた。
そして、二人の様子を見守っていた瀬戸が一歩下がり、深く頭を下げる。
「卯月さま。
坊ちゃまを、よろしくお願いいたします」
「はい」
誉は瀬戸に軽く会釈をして返し、エレベーターへ乗り込む。頭を下げる瀬戸を残して、扉が閉まった。
すると、途端に辺りがしんと静まり返った。
上昇していく小さな駆動音だけが、密やかに響いている。
先ほどまでの喧騒も、多くの人の気配もない。
扉一つを挟み、まるで世界が二人きりになったようにさえ思えた。
誉はカイを抱えたまま、壁際へ身を寄せる。
カイは完全に力を抜き、安心したように誉にその身を預け始めていた。
「疲れたねえ」
「……ん」
誉が声をかけると、カイは小さく頷きながら眉を寄せた。
「……最後まで、ちゃんとしようと思ったんだけど」
「最後まで、ちゃんと出来てたよ」
その言葉に、カイの表情が和らぐ。
「ちゃんと、見てたよ。全部」
さらに誉がそう続けると、白い指先が誉のジャケットをぎゅっと掴む。
「……今日、誉がいてくれると思ってなかった」
誉は、カイの柔らかな髪に頬を寄せ、答える。
「カイが頑張る日だもの。
そばにいるに決まってるでしょ」
誉がいつもの調子で言うと、カイは嬉しそうに微笑みながら噛み締めるように続けた。
「誉が、いてくれたから……。
オレ、安心して、頑張れたんだ」
誉は一瞬だけ息を詰めた。
カイを抱くその腕に、思わず力が込められる。
その胸が、高鳴った。
嬉しくて緩みそうになる口元を懸命に抑える代わりに、小さく息を吐く。
「……そっか」
そしてやっとそう言うと、カイを抱き直す。
まるで抱きしめるようにして、誉は低く、甘く囁いた。
「さすが俺のお嫁さんだ」
カイは、ぱちりと瞬きをして繰り返す。
「……およめさん?」
「うん」
「オレが?」
「他にいないでしょ」
カイは少しだけ考え、誉の肩口に額を擦りつけると、照れたように笑った。
「……えへへ」
その様子があまりにも可愛らしくて、誉も笑みをこぼす。すると、ちょうどそのタイミングで、エレベーターが止まった。
静かに、扉が開く。
廊下は、より静まり返っていた。
厚い絨毯に、落とされた照明。
そして、人の気配がない、まっすぐな通路。
――フロアごと押さえてるのか……。
新病院からここまでは、泊まるほどの距離ではない。
おそらく、カイを一時的に休ませるためだけに用意されているのだろう。
さすが如月家、と誉は内心で苦笑する。
一方で、カイは全く興味がないようで、誉の服を掴んだままあくびまでしている。
誉は苦笑しながら、優しく告げた。
「もう少しで、着くからね」
「……うん」
「お水を飲んで、少し横になろうか」
カイは小さく頷いて、眠たげに目をこする。
本当に、そろそろ限界が近いようだ。
そんな中、カイが肩に回した手に力を込めながら小さな声で問うてくる。
「……誉、あのさ」
「うん、なあに?」
「えっと、その……。お部屋にさ、行ったら……」
「うん」
「……誉、帰っちゃう?」
こんな時に目を伏せてしまうのは、不安と自信のなさの表れだ。
誉は目を細めながら、優しく背中を撫でた。
「帰らないよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
「……もし寝ちゃったら、帰っちゃう?」
「起きるまで、そばにいるよ。
俺も疲れちゃったしね」
「じゃあ、一緒に寝る?」
「いいね、それ。最高」
そこまで言われて、カイはようやく安心したのか、パッと顔を明るくした。
甘えるように誉の胸に頬を押しつけてくる。
誉は、そんなカイが愛しくてたまらない。
もっともっと甘やかしたい、そんな欲が溢れて止まらず、その足が自然と速まった。
指定された部屋の扉にカードキーをかざす。
そこは、当たり前のようにスイートルームだった。
誉の自宅より広いのではないかと思うほどだ。
室内の空調はすでに整えられ、明かりもカイの目を刺激しない程度まで落とされている。
入ってすぐの空間には応接用のソファと低いテーブル、その奥には小さなダイニングまである。
さらに奥の扉が、半分だけ開けられていた。
そこから覗く柔らかな照明と、整えられたベッドが見える。誉は、迷わずそちらへ向かった。
ベッドサイドには水と白湯。
柔らかいタオル。
替えの寝間着。
小さなトレイには、薬と体温計まで並んでいる。
まるで、最初から大切な"坊ちゃま"を誰かに託そうとしていたかのような――。
誉は、小さく息を吐いた。
――瀬戸さん、本当に抜かりがないな。
そう独りごちながら、カイをそっとベッドへ下ろそうとした。が、腕を離そうとした瞬間、カイの手が、誉の襟元を掴んだ。
「カイ?」
思いのほかしっかりとした眼差しで、赤い瞳が誉を映している。誉は少しだけ身を屈め、努めて優しく問う。
「どうしたの?」
カイは返事をしない。
ただ、誉の襟を弱く引いた。
それは、簡単に止められる程度の弱い力だったが、誉はそれに従い、引かれるままに近づく。
その拍子に、誉の口元がカイの視界に入った。
右の下唇の少し下。
キスするときにいつも見える、小さなほくろ。
それを見ていたら、急に触れたくなって――。
ほとんど反射のように目を閉じ、顔を上げた。
その次の瞬間。
ちゅ、と小さく可愛い音が、静けさの中響いた。
全く予想外なカイの行動に、誉は目を大きく開いたまま、止まってしまう。
カイはゆっくりと目を開く。
だが、自分が狙いを外したことに気づくと、悔しそうに眉を寄せた。
「……もー、お口がよかったのに!」
――カイの唇が触れたのは、誉の顎の方だったのだ。
その言葉が、あまりにもまっすぐで、あまりにも無防備で――。
ようやく頭が動き出した誉は、胸の奥が詰まるのを感じた。
「……もう、君って子は」
そうやって半ば呆れたように笑う声が、少しだけ掠れる。そして、ベッドに片手をつき、もう一方の手でカイの頬に触れた。
指先に触れる肌は、まだ少しだけ冷たい。
「……先を越されてしまったな……」
そう言って視線をわずかに逸らすと、カイがふふっと笑った。
それが、調子が狂ったときの誉の癖だと知っているから、余計に可笑しくてたまらなかった。
「……ホントはお水の後と思ったんだけど」
誉はため息交じりにそう言って、親指でゆっくりとカイの唇をなぞった。
それを合図に、カイは嬉しそうに目を閉じて待つ。
すぐに降りてくる、誉の優しいキス。
唇同士が静かに重なる、触れるだけのキス――の、つもりだった。
カイの指が、誉の襟をぎゅっと掴んで引き寄せた。
少しだけ息を吸う音がして、カイが小さく口を開く。そしてそのまま、はむっと誉の唇が食まれた。
誉が離れようとしても、カイが、追いかけるように顎を上げる。
「もっと」
その一言は、誉の理性をかなり揺さぶった。
が、どうにか踏みとどまると、
「……だめ?」
カイがまた襟を引いてそう追い打ちをかけ、さらに小首をかしげた。
誉から、ふーっと深く息を吐く音が響く。
「カイ……あのね」
カイはちょんと自分の唇をつつき、再び目を閉じる、誉は低く息を吐いた。
本当に。
本当に、この子は……。
誉は一瞬だけ目を伏せて、
「……もう、知らないからね」
そう言うと、期待でいっぱいといった様子のカイの顎に優しく触れ、そっとその薄い唇に口付けを落とした。
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