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4-25.

それは、櫂が倒れてから半年ほどが経った頃のことだった。   航が、突然リハビリ室を訪ねてきたのだ。 彼はアースを見つけるなり、歯切れの悪い様子で、弟の話し相手になってくれないかと申し出てきた。   その頃になると、櫂の休職が長引いていたこともあり、その容態がかなり悪いのではないかと院内では噂になっていた。 アースも何度か櫂にメールをしたものの返事はなく、心配していたところだったので、航の依頼を二つ返事で承諾した。 善は急げということで、アースはその日のうちに、櫂の病室を訪れた。 「失礼しまーす。旦那、久しぶり!」 そんな風に、いつもの調子で明るく声をかけながら扉を開けたアースが見たものは、ベッドの上で上体を起こし、オーバーベッドテーブルに置かれた本に視線を落としている櫂の姿だった。 以前から華奢ではあったが、さらに痩せてしまったように見えた。白い寝間着の肩が余り、輪郭も以前よりほっそりとしている。 櫂はアースの呼びかけに、肩をかすかに揺らした。 顔を上げないまま、オーバーベッドテーブルの上に置かれていた左手を、ゆっくりと右の二の腕へと伸ばすと、そのまま、ぎゅっと握りしめた。   それから、赤い瞳だけがちらりとアースへ向けられる。 途端に、腕を握る指にさらに力がこもった。白い寝間着の袖が深く皺を刻み、指先が布越しに食い込んでいるのが見えた。   アースはその様子に、わずかに眉を寄せた。 けれども、その時にはもう、櫂の視線は本へと戻っていた。 「アースさま。 お忙しい中お越しくださり、ありがとうございます」 すると、そばに控えていた瀬戸が静かに頭を下げる。 「いえいえ。 見舞いに来たいとずっと思ってたんです。 ……やあ、旦那。調子どう?」 返事はなかった。 櫂は変わらずに本へと視線を落としたまま、じっとしている。   しばらく待ってみたが、櫂が顔を上げる気配はない。その横顔からは、何の感情も読み取れなかった。 「アースさま、こちらへどうぞ」 「ありがとう! 瀬戸さんも、お変わりなくて良かったです」 「ええ、ありがとうございます」 アースはそう言って笑い、瀬戸がベッドサイドに用意してくれたイスに腰を下ろしながら、改めて櫂の様子を見つめた。 櫂が眺めていたのは、かなり分厚い専門書だった。 以前から、本に熱中するとこちらに目が向かないことがあったが、今の感じは、それとは少し違う気がした。 だって、アースが部屋に入ってから、ページが一度もめくられていないのだ。 よく見ると、その視線が文字を追っているようにも見えなかった。伏せたままの睫毛が時折震えるだけで、赤い瞳は同じ辺りに留まり続けている。 そのうち、右手の親指がページの端をそっと撫でた。 そのままめくるのかと思ったが、指はそこで止まってしまう。代わりに、紙の角を小さく折り曲げ、また元へ戻す。それを、何度もゆっくりと繰り返し始めた。 ——……読んでる、わけじゃないのかな。 「坊ちゃま。 お客さまがおられますから、こちらは一度……」 瀬戸が穏やかに声をかけ、本に手を伸ばした。 その瞬間、櫂が動いた。瀬戸の手首を掴んだのだ。 「……坊ちゃま」 だが、櫂は何も言わなかった。 ただ瀬戸の手を掴んだまま、じっと本を見つめている。 その指に、さらに力が入った。 細い手首からは想像できないほど懸命な力だった。 瀬戸が本を取り上げようとするのを止めても、すぐには離そうとしない。 「お客さまが帰られたら、また後でお持ちしますから」 瀬戸がそう言っても、櫂は動かなかった。 やがて、いやいやと首を横に振り始める。   瀬戸が困ったように眉を下げたところで、アースはにこりと笑った。 「俺は構いませんよ」 「ですが……」 「そのままでいいですよ。 俺、勝手に喋りますから」   その言葉に、櫂の指がぴくりと動いた。 「カインもいつもそうなんだよ。頭がいい人って、二つ同時に違うことできて、すごいよね」 やはり、櫂の反応はない。けれども、瀬戸の手首を握っていた指が、少しずつ緩んだ。 瀬戸が静かに手を引くと、櫂は両手で本を押さえ直し、また視線を落とした。 アースは瀬戸が用意してくれた紅茶を受け取ってひと口飲んでから、さて、と本当に勝手に話し始めた。 「そうそう、旦那。最近さ、リハビリ室に新しい機械が入ったんだよ。しかも、最新モデル。 俺、ちょっとテンション上がっちゃって」 当然、返事はない。 「で、さっそく使おうと思ったら、カインに『説明書を先に読んでください』って怒られたんだよ。そんな小難しい説明書よりも、まず触ってみたいじゃんか」 櫂は、本を見つめたままだ。 「しかもあいつ、俺が説明書を読んでる横で、ちゃんと読んでるか、ずーっと見張ってんの。 信用なさすぎじゃない? 確かに俺は、文字読むのあんまり好きじゃないけどさあ」 笑いながら話していると、櫂の親指がまたページの端へ伸びた。一瞬、めくろうとしたようにも見えたが、やはり、それ以上は動かない。 「でね、結局横で読んでたカインの方が先に使い方覚えちゃってさ。俺の機械なのに、俺より詳しいんだよ。悔しいよねえ」 櫂の反応には、何の変化もなかった。 それでもアースは構わず、最近あった出来事を次々と話していった。 カインが夕飯に作った料理のこと。 リハビリ室で聞いた噂話や、院内でちょっとした騒ぎになった出来事、休みの日に見つけた面白い店のこと。 以前の櫂なら、気になることがあれば途中で口を挟んできたし、くだらない話には呆れたような顔もした。 特にカインの話をすると、双子なのに性格が全然違うと面白がって、あれこれ質問してきたものだ。 けれど、今目の前にいる櫂は、何も言わない。 時折、アースの声に反応するように指先が動いたり、瞼が持ち上がったりはするが、発語には至らない。 話している間に一度だけ、アースがカップをソーサーへ置いた音に、櫂の肩がびくりと震えた。 「あ、ごめん」 櫂は何も答えぬまま、右上腕を強く握りしめてしまった。 「……びっくりさせちゃったね、ごめんね」 アースはそう言うと、カップを口元へ運びながら、そっと櫂の横顔を見つめた。 櫂は確かに多弁ではないが、そこまで無口というわけではなかった。 特に気を許した相手に対しては、機嫌が悪ければ遠慮なく文句も言うし、嬉しいことがあれば笑う。その感情は、思いの外わかりやすく顔にも出やすい。 けれども……。 ——今の旦那、なんだかお人形さんみたいだな。 アースはそう思いながらも、すぐに先程瀬戸の手を掴んだ櫂の姿を思い出す。 ——けど、全く何も考えていないわけじゃないんだよな。少なくとも嫌だって感情はあって、それを伝えることはできるみたいだし……。   アースは小さく口元を緩めた。   ——じゃあ、今日はそれだけで十分かな。 今は返事がなくても構わない。せっかく久しぶりに会えたのだから、もう少し話して帰ろう。   「……あ、そうだ。 カインもね、今度旦那と話をしに来たいって」 ほんの一瞬だけ、上腕を握りしめる櫂の指先に力がこもったことにアースは気づいたが、特に触れることなく続けた。 「最近ハマってる小説があるんだって。 恋愛ものらしいんだけど、旦那にも読ませて語り合いたいらしい。 旦那、興味ある? ちなみに、俺は全然!」 すると、櫂が再びページの端を撫で始めたので、アースは笑いながら、すっかり空になったカップをソーサーへ戻した。 ふと時計を見ると、部屋に来てから三十分ほどが経っている。 「さて、と」 ——そろそろ、潮時かな。 アースは、ゆっくりと立ち上がりながら、からりとした笑顔を見せた。 「そろそろおいとまするよ! 久しぶりに旦那と話せて、楽しかったよ。ありがと!」 アースが椅子を元の位置へ戻すと、その赤い瞳がわずかに動いた。けれども、その顔までは上がらない。 その気持ちを察したアースは、明るく問いかけた。   「また遊びに来てもいい?」 櫂の睫毛が震えた。 しかし、やはりそれ以上の反応はなく、再びその視線が本へと戻された。 そしてアースが『またね』と言いかけた、そのときだった。それまで本へ向けられていた赤い瞳が、ふっと持ち上がった。 櫂の視線が、初めてまっすぐにアースを捉えた。 そればかりか、ほんの少しだけだったが、顎を上げて、立っているアースを確かに見つめている。 試しにアースが軽く首を傾げても、今度はすぐに目を逸らすことはなかった。 やがて、その右上腕を握る指がゆっくりと緩んでいく。 「……旦那」 呼びかけに対して、赤い瞳がかすかに揺れた。 ようやく得た反応が嬉しくて、アースは微笑みながら、弾けるような声で続けた。   「うん、また来るね!」 そして、アースがそう言った途端、櫂はまた本へ視線を落としてしまう。 アースはそれ以上は何も求めず、瀬戸に軽く頭を下げて病室を後にした。 扉が閉まる直前、何気なく振り返る。 櫂は静かに座ったまま、右手で本をおさえ、左手でページを捲り始めていた。 そんな小さな姿を見届けてから、アースはホッとしたように、静かに扉を閉めた。   それからアースは、仕事の合間を見つけては、櫂の病室へ足を運ぶようになった。 相変わらずほとんど反応がなかったが、それでも三度目に訪ねたときには、声をかけるとほんの少しだけ顔を上げてくれた。 次の面会では、アースが最近ハマっている配信の話をしたところ、ちらりとこちらへ視線を向けてくれたので、 「……興味出た?」 と何気なく尋ねてみた。 すると、少し考えるような間があったものの、小さく頷いてくれたのだ。 「そっか! じゃあ、あとでリンク送るよ」 アースは嬉しくなった。 だが、あえて大げさにすることをせず、いつもの調子で笑った。 その日は、帰り際にも一度だけ顔を上げてくれた。 ——……少しは、慣れてくれたかなあ。 けれども、その翌日は、まるで最初の日に戻ってしまったかのようだった。 「涼しくなってきたねー! 俺、まだ衣替えしてなくてさあ」 そう声をかけても、櫂は本へ視線を落としたまま、ぴくりとも動かない。 アースが椅子に腰掛けると、左手がゆっくりと右の二の腕へ伸びた。細い指が寝間着の袖を掴み、そのまま強く握りしめる。 「……旦那も、寒い?」 ほんの少し声を落として呼びかけてみたが、赤い瞳は持ち上がらなかった。   やっと興味を持ってくれた配信の話をしても、今日は何の反応もない。それどころか、話しかけるたびに腕を握る指へと力がこもるように見えた。 ——……今日は、あんまり話したくない日なんだな。 アースはしばらく紅茶を飲みながら、区切りのよいところまで話すと、静かにカップを置いた。 「旦那、また来るね!」 結局、その日は最後まで一度も顔を上げてくれなかった。   ところが、そのまた次に訪ねてみると、今度はアースが部屋へ入った途端、ちらりとこちらを見た。 「やあ、ご機嫌いかが?」 アースがそう尋ねると、少し間を置いてから、こくりと頷いた。 「そっか! よかった!」 けれどもそれ以上は続かず、近況を話しているうちに、櫂はまた本へ視線を落としたかと思うと、やがて何を言っても反応しなくなってしまった。 ともかく櫂の様子は、かなり不安定だった。   日によって、アースの冗談にほんの少しだけ口元を緩めてくれることもあれば、人形のように何の反応もしないこともある。 何を話しかければ反応してくれるのかが、正直よくわからない。まさに手探り状態だ。   ——……なかなか、難しいねえ。 アースはそう思いながらも、何度も病室に足を運んだ。 少しでも、櫂の役に立ちたい一心だった。 そんな、ある日のことだった。 「旦那、来たよ〜」 いつものように病室へ入ったアースは、少しばかり奇妙な光景に出くわした。 櫂が、本のページをめくっていたのだ。 ——今日こそは、本当に読書中、か? だが、櫂は顔を上げることもなく、ひたすらページをめくり続けている。 ぱらり。 ぱらり。 ——……いや、違うな……。 アースは、櫂の指先に注目した。 ページをめくる動きに、ほとんど迷いがない。 ページを読み終えてめくっているわけではなく、ただ決まった動作を繰り返しているように見えた。 アースはごくりと喉を動かしたあと、またいつも通り話し始めた。    「旦那、聞いてよ。 今日はさ、カインが朝から珍しく寝坊しちゃってね」 ぱらり。 「俺が起こしに行ったら、すっごい不機嫌なの。 朝活しそこねたのが、悔しかったみたい」 櫂は一度も顔を上げなかった。 それどころか、ページをめくる指を早めていく。 やがて最後のページへ辿り着いたが、櫂の手は止まらなかった。 すでに、めくるページは一つも残っていない。 それでも櫂は、次のページをめくろうとしてい。 指先が、宙に浮いてふるふると震えた。 「……旦那、それ……」 思わず呼びかけたが、櫂は反応しなかった。 本を見つめたまま、何もないところで指先を動かし続けている。   すると、そばに控えていた瀬戸が、静かに歩み寄った。 「坊ちゃま、もう一度お読みになるんですね」 そして穏やかにそう言うと、櫂の前に置かれた本をそっと最初のページへ戻してやった。 櫂は、何も答えなかった。 ただ、開かれたページをじっと見つめると、また左手を伸ばした。 ぱらり。   ぱらり。 また先ほどと同じ動きが、繰り返される。  アースは思わず瀬戸の顔を見た。   瀬戸は小さく眉を下げたが、それ以上は何も言わなかった。アースもまた、何も聞かなかった。  それから十分ほどその様子を見守った後、アースはいつものように明るく声をかけた。 「じゃあ、また来るね!」 返事の代わりに、紙の擦れる音だけが静かな病室に響いた。 廊下へ出ると、見送りに来た瀬戸が深々と頭を下げた。 「……申し訳ございません」 「謝らないでくださいよ。 旦那は、本が好きですもんね」 アースがそう言って笑うと、瀬戸は少しだけ疲れたような様子で、その目を伏せながら頷いた。 「また、寄らせてもらいますね!」 そんな瀬戸に手を振り、アースはその場を後にした。 それから数日後。 アースが病室を訪ねると、櫂は、また本を開いていた。 「旦那、こんにちは!」 すると、赤い瞳がふっと持ち上がった。 すぐに逸らされてしまったが、アースが椅子へ腰掛けると、また視線が上がる。 「ねえ旦那、今日の昼休みにさ……」 そして、そう話し始めてみると、ちゃんと耳を傾けてくれているようだった。 話の途中で一度頷き、アースがわざと大げさに肩をすくめてみせると、その口元がかすかに緩む。 ——……あ、笑った。 途端に、アースは嬉しくなった。 だが、その表情に気づいた櫂はすぐに本へ視線を戻してしまう。 右腕を握る指に、また力がこもった。 それでもアースは、何事もなかったように話を続けた。 そんなふうに、良い日と悪い日が入り交じりながら、面会は続いていった。 そして、何度も面会を重ねるうちに、アースは少しずつ手応えを感じるようになっていった。 やがて、顔も見ずに面会が終わることはなくなり、小さな頷きも増えてきた頃のことだ。   「ねえ、旦那。 俺、今朝、初めてアメリカの人と会議したんだ」 アースはそう言いながら、ふと窓の外を見た。 午後の陽射しが、病室の床を柔らかく照らしている。 「時差って、もちろん理解はしてたけど、改めて考えると、なんか不思議な気持ちになるよねえ」 それは、何気なく口にした言葉だった。 「こっちはもう午後なのに、向こうはまだ夜中だったりするんだもん。あっ、向こうは今、何時なのかなあ」 アースは、そんなほんの好奇心からスマートフォンを取り出して、アメリカの現時刻を調べてみる。 「えーっと……あ、夜中の二時かあ」 画面を眺めながら、首を傾げる。 「そういえば、誉先生も今、アメリカにいるんだったよね。やっぱりもう、寝てるかなあ」 「……たぶん、おきてる」 「そうなの?」 アースは普通に答え——数秒遅れで気がついた。 ——……あれっ? 今、喋った? 思わず櫂の方へ目を向ける。 けれども、櫂の視線は本に落ちたままだ。 アースは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐにいつもの調子で言葉を返した。 せっかく話してくれたのだ。驚かせては、いけない。 「へえ。誉先生、夜更かしなんだねえ」 少しの間を置いて、櫂がこくりと頷いた。 「じゃあ、その分、朝はゆっくりめ?」 櫂は、首を小さく横に振った。 「そっかあ。ショートスリーパーってやつだ。 カインと一緒だねえ」 アースは笑いながら、カップをテーブルへ戻した。 「じゃあ、いつも旦那が一人で先に寝ちゃう感じ?」 櫂は本へ視線を落としたまま、右腕に手を伸ばした。黙ったまま指先でそこを軽くさすってから、ぎゅっと力を込めていく。 ——……これ以上は、厳しいかな。 そこでアースが別の話に移ろうとした、その時だった。 「……寝るまで、そばにいてくれる、から……」 「あー、なるほど。 そうだよねえ、寝るときは、好きな人にぎゅってしてたいよね」 櫂が、こくん、と頷く。 「わかるよ、俺もそう。安心するから」 また、頷く。 「だから、夜中にふっと目が覚めた時に、横にいないと不安になったりしてさ」 アースは椅子の背にもたれながら、少しだけ肩をすくめた。 「それで、どこ行っちゃったのかなあって思ってると、なぜかすぐに戻ってくるんだよね」 右腕を握りしめる櫂の指が、ぴくりと動いた。 それから、小さな声が響く。 「……誉も……すぐにもどってきてくれる」 「えっ、誉先生も?」 ——こくん。 「すごいよねえ。なんでわかるんだろ」 「……音でわかるって」 「音?」 「……寝息とか……寝返りの、音とか……」 アースは、思わず首を傾げた。 「えっ、それ、別の部屋にいてもわかるの?」 櫂は小さく頷いた。 「……カインもそうなのかなあ。えっ、頭いいやつって、皆そういう特殊能力持ってんの?」 アースが腕を組み、うーんと唸ると、櫂の口元が、わずかに動いた。 ——笑った、のだろうか。 ほんの一瞬のことだったので、はっきりとはわからなかった。けれども、アースは無理にそれを追いかけることなく、楽しそうに続けた。 「よし。今日帰ったら聞いてみよう」 櫂が、こくりと頷いた。 先ほどよりもさらに、口元が柔らかくなっているように見える。 久しぶりに櫂と会話ができたことが嬉しくて、アースはもう少し話を続けようとしたのだが、残念ながら次の話題を口にしたときには、その反応は再び途切れてしまった。 「……旦那?」 呼びかけても返事はなく、赤い瞳は本へ向けられたまま、まったく動かなかった。 アースは少しだけ待ってみたが、櫂が顔を上げる様子はなかった。 ——……今日は、ここまでかな。 「さて、と。そろそろ戻るよ」 アースは深追いすることなく、ゆっくりと立ち上がった。 「旦那、今日はありがとね。 次に来たときに、カインに聞いた結果を教えるね!」 するとそのとき、櫂の赤い瞳がわずかに持ち上がり、小さく頷いて返してくれた。 「うん、じゃあ、またね!」 嬉しくなったアースはいつものように手を振って、病室を後にする。 「……やっと、話せたなあ」 そして、扉を閉めると同時にそう嬉しそうに呟くと、軽い足取りでリハビリ室へと戻っていった。

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