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4-24.
「……誉先生。今日も調子良さそうだね!
ご機嫌は……まあまあってとこかな」
アースは、今しがた閉じようとした扉を逆に開き、にこやかにそう言って微笑んだ。
前職がホスト、しかもナンバーワンという異色の経歴を持つアースは、数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けた経験をもとに、今では患者やその家族の感情を受け止めることを生業にしている男である。
多少機嫌が悪い患者の恋人が乗り込んできた程度で、動じるほどヤワではない。
それに対する誉もまた、その内に秘めた感情を抑え込み、にこやかに答えた。
「お察しの通りだよ。ちょっと、大地くんに聞きたいことがあるんだけど」
「あー。
先生がわざわざ来るってことは……旦那のことだ」
「話が早くて助かるよ」
「瀬戸さん情報?」
「いいや、本人から。電話がかかってきてね」
「旦那が、電話!?」
アースの顔が、ふっと緩む。
「そうなんだ。
旦那、電話できたんだ、それは良かった!」
そう言って微笑むアースが、心から嬉しそうだったので、誉の表情もわずかに和らいだ。
だが、それはそれ、これはこれである。
「それで、その電話でいろいろ聞いたんだけど」
「あー……。
とりあえず、ここじゃアレなので……中へどうぞ」
アースはバツが悪そうに頭をかきながらそう言うと、観念したように誉を中へと招き入れた。
そのまま相談室へと通された誉は、とりあえず促されるままソファーに腰を下ろす。
アースはそんな誉の対面に同じように座ると、タブレットを開いて誉に差し出した。
画面には、カイのリハビリ記録が記されたカルテが映っている。
「確認しても?」
「確認しないと納得しないでしょ」
誉は差し出されたタブレットを受け取る前に、一度だけ画面とアースの顔を見比べた。
「大丈夫、北丘の医師ならみんな見れる権限内だよ。しょせん……って言うと怒られちゃうかもだけど、まあ、ただのリハビリ記録だからね」
アースはそう言って肩をすくめる。
「誉先生なら、とっくに見てると思った」
「まさか、もうリハビリまで進んでるとは思わなかった。祝賀会の時は、まだ相当具合が悪そうだったから」
「そうなんだ。けど、もう元気いっぱいだよ。
特に心の方は、見違えるくらい」
アースの口調は相変わらず軽いが、その視点がいつも的を射ていることを誉は知っている。
「身体はまだだけど、病は気からっていうからね。あの調子なら、すぐ良くなるんじゃない」
「……そっか」
誉はそうと返すと、タブレットへ視線を落とした。
そこには、歩行距離や疲労の程度、関節可動域、疼痛の有無、実施したストレッチの内容などが、簡潔な文章と数値で記されている。その軽い態度とは裏腹に、緻密な記録だった。誉は一行ずつ、丁寧に読み進めていく。
アースはしばらく黙ってその様子を見ていたが、やがて誉の指がある項目で止まると、小さく肩をすくめた。
——やっぱ、そこ気になっちゃうよね〜。
そう思いながら人知れず苦笑いをすると、案の定誉がその一節を口にする。
「……股関節、可動域制限あり」
「うん」
「徒手的なストレッチを実施」
「うん」
「……大地くんが?」
「俺以外に、誰がいるのさ」
誉の眉間に、ゆっくりと皺が寄った。
アースはその顔を見ても動じずに、口元を緩めながら穏やかな表情で返した。
「ちゃんと、必要な範囲しかやってないよ」
「それは分かってるよ」
「分かってる顔じゃないなあ」
「でも、股関節を開かせるのは違うと思う」
「何が?」
アースが即座に聞き返す。
誉は一瞬言葉に詰まり、それでも至極真面目な顔で続けた。
「……股関節は、退院したら俺が時間をかけて丁寧に解して開けるようにするから」
「それ、リハビリじゃないよね?」
「リハビリだよ」
「絶対違うと思うなあ」
アースはとうとう堪えきれず、声を立てて笑った。
誉は不服そうに口を結び、さらに記録を下へと送っていく。すると今度は、徒手療法の欄でまた指が止まった。
「……筋緊張緩和のため、肩背部および腰部へ徒手的介入」
「そこも引っかかる?」
「モミモミも俺がする。過剰な接触は不要だから」
「過剰ではないんだけどなあ」
「君は必要最低限、ホントにカルテに書ける最低限でいいから」
「今まさに、カルテに書ける最低限しかしてないんだけど……」
アースは苦笑しながら、ソファーの背もたれに身体を預けた。
「相変わらずだねえ」
「何が?」
「重い、重すぎる」
「愛は重たいものさ」
「そうだとしてもさ……」
軽く受け流して息を吐くアースを、誉はそんな訝しげに見つめた。
「というか、君には言われたくないんだけど。
君も相当だよね、海音くんに対して」
「いやいや、誉先生にはかなわないよ」
軽く返したあと、アースはタブレットへ目を落とした。そのまま画面を閉じると、今度は膝の上に置いて指を組む。
「まあ、でも誉先生の気持ちはわかる。愛する人は、目と手の届くところに置いておきたいよね」
「……」
「自分が見てないところで何か嫌な思いなんかされたら、絶対許せない。やった奴はもちろん……守れなかった自分自身も」
ほんの一瞬だけ、アースの表情がスンと冷えた。
だが、すぐに穏やかな温かさをその瞳に戻して、誉に向き直る。
「……だからさ。
誉先生が旦那を置いてフェローに行ったって聞いたときは、ほんと驚いたよ」
「……俺だって、行きたくて行ったわけじゃないよ。
むしろ行きたくなさすぎて、開業まで考えた」
「あ、やっぱり?」
「……けど、あの子が。
カイが、どうしても行ってほしいって言ったから」
「旦那が?」
「うん。フェローが俺の人生にとってどんなに有意義か、毎晩、寝る前にプレゼン三時間」
「なにそれ、超力作じゃん」
「これがまた、ぐうの音もでないくらい正論なんだ」
「あはは、目に浮かぶ」
「もちろん、俺がいない間のカイ自身の生活についても言及してた。非の打ち所がなく、納得性もある完璧な計画だったけど……」
「理想と現実ってやつ」
「そう。カイは、現実を知らないからね」
「……それでも、行ったんだ」
「カイの願いは、全部叶えてやりたいからね。
カイが本当に俺のフェロー行きを望むなら……、そう思った」
アースはそこで少し目を丸くしたあと、何かに納得したように「あー」と小さく声を漏らした。
「……だからか」
「?」
「だから旦那、あんなふうに拗らせてたんだ」
「……どういうこと?」
アースはその様子を見て初めて、誉があの二年間のことをほとんど何も知らされていないのだと気がついた。
——旦那も、話したくないのか……仮に話せたとしても、いつも通り言葉が足りないだろうし、誉先生が納得いく説明はまあ、無理だろうなあ。
そんなアースの予想通り、誉が半ば食いつくように、ストレートな疑問をぶつけてくる。
「君は、フェロー中のカイを知ってるの?」
「もちろん。リハビリ担当してたから」
「君が?」
誉は、思わず身を乗り出した。
「というか、そもそも君たちは別の病院にいたよね。まさかカイのために、航が……」
「うーん、半分正解、半分間違い」
アースはまた軽い感じでそう言うと、指を二本立て左右に軽く揺らした。
「航さんがここの院長になってすぐに、北丘で働いてた友達から、ものすごく人が足りないって聞いてね。それで、ここに来たんだ」
「来たって……君たちは当時、開業準備をしていたんじゃなかったっけ」
「うん、そうだよ。テナント契約寸前だったから、間に合ってよかったよ」
「そういう問題じゃないでしょ。
開業は、君たちの悲願で……」
するとアースは、何でもないことのように笑う。
「開業は、後からでもできる。
けど、恩返しは、今しかできないから。
……今の俺たちがあるのは、航さんと旦那……櫂さんのおかげだからさ」
「……どれだけお人好しなの、君たちは」
「あの兄弟には、負けるよ」
アースはそう言うと、小さく肩を竦めた。
「それで、俺たちが北丘に来て少ししてから、櫂さんもこっちに来たんだ。本家のあの次男もこっちに来るって、当時ちょっとした騒ぎになったよ」
「……それは、コンサルとして?」
「ううん、脳神経内科所属だったよ。
課長補佐だったような」
誉は記憶を探るように目を細めた。
当時、櫂が北丘へ移ったこと自体は聞いていた。
けれど、具体的にどんな立場で、どんな働き方をしていたのかまでは知らない。
海の向こうから何度尋ねても、本人から返事はなく、航からも「大丈夫だ」「うまくやっている」としか聞かされていなかったからだ。
「課長補佐って……外来や、夜勤も?」
「うん、普通にやってたよ。
けど、やっぱ今よりもさらに人が少なかったから、結構入っててさ。さすがに俺も体調が心配になって聞いたんだ。そしたら旦那、『記念病院にいた時もやってたし、平気』って」
「いやまあ……記念院の時は、俺がいたからね……」
誉はなんとも言えない顔で額に手をやった。
記念院にいた頃の櫂も、確かに同じように外来を持ち、夜勤にも入っていた。
けれど、それは居を共にすることによるきめ細やかな体調管理に加え、必ず自分とシフトを合わせ、無理のない範囲でやらせていたからだ。
「確かにそうだけど、最初は誉先生がいた頃と、そんなに変わらない感じだったんだよ」
アースは当時を辿るように記憶を巡らせながら、ゆっくりと視線を上げた。
「そりゃ、ちょっと疲れた顔はしてたけどさ。
話せば普通に話すし、笑う時は笑ってた。仕事もちゃんとしてたし。
だから俺も、ああ、誉先生がいなくても意外としっかりやれるんだなあって思ってた」
「……」
「ただ、一個だけ気になってたのが、右腕かな」
アースは自分の右上腕を、左手で掴んでみせる。
「こうやって、やけに強く握るんだよね。
それも、割と頻繁に」
「ああ、それ、やるね。
……痣になってるから、俺も最初は驚いた」
「前はやらなかったんだ?」
「少なくとも、俺がフェローに行く前はやってなかった。癖になったのは、あの二年の間だと思う」
「へえ……」
アースは自分の腕から手を離し、少し考えるように指先を見つめた。
「一番ひどいときは、ずっと握ってたよ。
それも爪が食い込むくらい、強く。」
「……そうなんだ」
誉の声が僅かに低くなる。
「でも、それ以外はホント普通で。
……少なくとも、俺にはそう見えてた」
そこでアースは、一度言葉を止めて思案する。
誉から聞いた話を頭の中で巡らせ、そして。
「あー……」
やがて、アースが小さく声を漏らした。
「旦那は、平気だったんじゃなくて……平気でいなきゃって、思っちゃったんだな、きっと」
誉が視線を上げて、アースを見る。
「だって、誉先生が行きたがってないのに、旦那がゴリ押しして行かせたんだよね」
「……そうだね」
「だったら旦那、絶対思うよ。
自分がちゃんとしてなきゃって」
「けど、最後にそれを飲んだのは俺。
行くと決めたのは、俺だよ」
「そんな細かい感情の理解や割り切り、旦那ができるわけないじゃん!」
「……」
そんなアースの言葉に対して、誉はもう、何も言えなくなってしまった。
——そうだ。櫂はそういう子だ。
あまりにも素直で、妙に責任感が強くて……。
自分が大丈夫だと証明できなければ、誉を送り出した自分の判断が間違っていたことになる。
そうしたら、誉を送り出した事自体が、自分が導き出した最適解ではなくなってしまう。
誉は、フェロー先で実績を出し医師として大きくステップアップする。
自分は、誉の留守を完璧に守り通し、帰国の時が来たら、ちゃんと元気に迎え入れる。
ーーそれが、カイが作った最適解のストーリーだ。
「……だから、俺がいた頃と同じようにしようと必死だったんだね」
誉が、ぽつりと呟く。
「同じように働いて、同じように笑って。俺がいなくても大丈夫だって、自分でも信じられるように」
アースは静かに頷いた。
「誉先生がいる時の旦那を、そのまま一人で続けようとしたんだ」
櫂は、誉がいたからこそ成立していた日常を、誉のいない場所で同じ形のまま維持しようとした。その支えを失った状態で、必死に取り繕い続けたのだとしたら……。
「……そりゃ、もたないよね」
誉が言語化する前にアースはそう呟き、目を伏せた。
「旦那自身も、まだ頑張れると思ってたんじゃないかな」
「……何の疑いもなく、そう思ってただろうね」
次にアースは、あの頃のカイをなぞるようにその右上腕をゆっくりと撫でながら頷いた。
「……ああ、でも。そっか。
だから、やらなくなったのか」
「何が?」
「これ」
そして再び、自分の右腕を軽く揉む。
「少なくともリハビリに来てる間は、一度もやってないんだよ。きっと、誉先生が帰ってきたからだ」
その言葉に、誉がゆっくりとアースを見る。
アースは握っていた腕を離して、今度は両手を自分の膝に戻した。
「あれは、自分を傷つけてたんじゃなくて……抱きしめてほしかったんだね」
「……」
「不安で、怖くて。けど、誰にも言えないから、自分で自分を抱きしめてたんだね」
それからアースは、柔らかく笑った。
「誉先生が帰ってきて、ちゃんと抱きしめてもらえるようになったから、もう自分でやる必要がなくなったんだ」
誉は何も言わずに、ただ一度ゆっくりと息を吐いた。
帰国後、あの癖を初めて見た時のことを思い出す。
強く、きつく、まるで自分を戒めるかのようにしていたあの仕草の痛々しさを思い出して、思わず眉を寄せる。
二年間、何度自分の腕を握ったのだろう。
どれほど不安な夜を、そうして一人でやり過ごしたのだろう。
「……それでも当時は、みんなちゃんとやれてると思ってたから、倒れたときは本当に驚いた」
アースの言葉が、誉を現在へ引き戻した。
「……倒れた?
体調を崩したとは聞いてるけど……倒れたの?」
その表情から、残っていた穏やかさが一気に消える。
「外来が終わって、医局に戻る途中に突然倒れたんだ。何の前触れもなく、廊下で崩れてね。
さっきまで普通に患者さん診てた人が、いきなり意識を失って倒れたから、そりゃもう大騒ぎになったよ」
「……」
「そしてそのまま旦那は、戻ってこなかった」
アースは静かにそう言ってから、タブレットの縁を指先でなぞった。
「それから半年くらい経ってからかな。
俺、ある日、航さんから呼ばれたんだ」
「……リハビリのため?」
「名目上はね。実際は、ただ、話し相手になってほしかったみたいだよ」
誉の眉が、僅かに寄った。
「話し相手?」
「うん。まあ、俺一応心理相談員だし、旦那とは友達だしね。航さんも全く知らないカウンセラーをつけるより、気安いだろうって思ったんじゃない。
旦那、かなりの人見知りだからね」
「まあ、航が考えそうなことだね」
「航さんが話すのが一番いいと思ったんだけどね。
旦那に対して、変な遠慮があるよね、あの人」
「あの二人は……いや、航が一方的に、かな。
昔ちょっと一悶着あったみたいでね。それもあって、カイを傷つけたくないと思うあまり、拗らせてるところはあるね」
「そうなんだ。あんなに仲いいのに」
「まあ、特殊な家庭だからね」
「わかる。金持ちも大変なんだなって思うよね」
「同感」
そこまで言って、誉は視線を落として数秒考え込んだあと、改めてアースを見た。
「……大地くん」
「ん?」
「ひとつ、お願いしてもいいかな」
誉からはもう、先程まで滲んでいた嫉妬心は微塵も感じなかった。
「君の目から見た、あの二年間のカイのことを教えてほしい」
「……」
その視線があまりにも真っ直ぐなものだったので、アースも自然と姿勢を戻す。
間を置かず、誉はさらに切実そうな声で続けた。
「俺は、ほとんど何も知らないんだ。
航に聞いてもずっと“大丈夫だ”って言われてたし、カイは……今さら聞いても、ちゃんとは話さない。
いや、話せない……が正しいかな」
誉は困ったように、ほんの少し笑った。
「だから、君が見てたカイを知りたい。
もちろん話せる範囲でいいから、教えてくれないかな」
アースはしばらく誉を見つめたあと、ゆっくりと背もたれへ身体を預けた。
「……長くなるよ」
「構わないよ」
間髪入れずに返されて、アースは小さく笑う。
そして少し考えたあと、静かに話し始めた。
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