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4-23.
「じい、ただいま。つかれたー!」
リハビリを終えた櫂が自室の扉を開けると、真っ先に窓際に立つ瀬戸の姿が目に入った。
「おや、初物が入りましたか。
もうそんな時期なのですね……。
昨年も坊ちゃまが大層お気に召して……ええ、もちろん。ぜひお願いいたします。
はい、いつも通り、香りが強すぎず、甘みのしっかりしたものを……」
どうやら、電話中らしい。
櫂が部屋へ入ったところで足を止めると、瀬戸がスマホを耳に当てたまま軽く頭を下げる。
せっかくリハビリを頑張って帰ったのに相手をしてもらえないのがなんとなく面白くなくて、櫂はその場でじっと瀬戸を見つめた。
「はい……実は今、入院されておりますので、よい励みになるかと。きっとお喜びになります。
ありがとうございます。美山農園の皆さまにも、よろしくお伝えくださいませ」
あまりにも瀬戸の電話が長いので、櫂はソファーに腰を下ろした。うさちゃんを抱きしめながら、おとなしく瀬戸の声に耳を傾ける。
どうやら、自分のおやつの発注をしているらしい。
——電話かあ。
数日分のおやつの予想を立てながら、櫂はふと昔を思い出してふふっと笑った。
まだ高校生で、誉が家庭教師だった頃。
よく、夜に寂しくなると瀬戸に頼んで誉に電話をかけてもらった。
内容はなんてことのないものが多かったけれど、会えない日も誉の声を聞くと安心して、よく眠れたっけ——。
「あっ」
櫂は、思わず声を上げて立ち上がった。
「そうじゃん、電話したらいいんじゃん」
するとそのタイミングで、瀬戸が通話を終えた。
すぐに櫂の方を向き、いつものように穏やかな声をかけてくる。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「会うのはだめだけど、電話はだめって言われてないもん!ねえ、じい!」
「は、はい……?」
櫂は瀬戸に半ば飛びつくと、ねだるようにその手を引っ張った。
「電話!オレも電話したい!できる?!」
「お電話については、特に制限を伺っていないので可能かと存じますが……どなたにおかけになりたいのですか?」
「誉!」
その言葉に、瀬戸の目元がわずかに緩んだ。
「かしこまりました。
では、坊ちゃまのお電話をお持ちしましょう」
「やった!」
しばらくして瀬戸が持ってきたのは、櫂が以前から使っている折り畳み式の携帯電話だった。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
櫂はそれを受け取り、ぱかりと開いた。
それから画面を見て、並んだボタンの上で人差し指をさまよわせ……もう一度、画面を見る。
「……うーん」
櫂は、それからしばらく眉を寄せて考えていたが、やがて無言のまま携帯電話を瀬戸へ差し出した。
「かしこまりました」
瀬戸がごく自然に携帯電話を受け取ると、櫂はその横から画面を覗き込みながら続ける。
「番号はね、090……」
「……覚えていらっしゃるのですか?」
「うん。誉にかけるの、久しぶりかも」
「そうですね。
坊ちゃまからの最後の発信は、十年ほど前ですね」
「じゅうねん!
……まあ、ずっと横にいてくれてるからなー。
わざわざかけなくても済んじゃってたんだよね」
「着信はたくさん残ってございますが」
「どこ見たらわかるの?」
「こちらでございます」
「……」
その画面を見て、櫂は気がついてしまった。
——誉、フェロー中に、電話かけてきてくれたんだ。
その回数は、一度や二度ではない。
でも、櫂は一度も出なかった。
というか、出られる状態ではなかった。
誉がフェローに行ってすぐに体調を崩し、二年間の半分以上の時間を、療養に費やしていたからだ。
にわかに表情を暗くして俯いた櫂の背中を、瀬戸はゆっくりと撫でてやる。櫂がわずかに顔を上げると、瀬戸がそっと携帯電話を差し出した。
「こちらのボタンを押せば、卯月さまに繋がりますよ」
「うん……」
櫂はそれを受け取ると、ほんの少しだけ躊躇うように発信ボタンを指先で撫でたのち、意を決したように力を込めた。
——胸ポケットで、スマートフォンが震えた。
誉は手元の資料から顔を上げると、白衣の胸ポケットにそっと触れる。確かにスマホが震えている。
長く、一度。
それから続いて、短く二度。
それだけで、誰からの着信なのか、誉はすぐに分かった。同時に、不安になる。
——櫂から電話がかかってくるなんて、相当珍しいことだ。まさか、何かあったのか。
誉はすぐに胸ポケットからスマートフォンを取り出した。そして着信画面を確認することもせずに、そのまま流れるように通話ボタンを押した。
『……誉?』
スマホを耳に押し当てるとすぐに届いた声がしっかりとしていたので、誉はホッと胸を撫でおろした。
「うん、そうだよ」
『……今、平気?』
「もちろん」
すると、少しだけ溜めた後、電話の向こうから嬉しそうな声が漏れた。
『えへへ、誉だあ』
「……こんにちは。調子良さそうだね」
『ごきげんよう! うん、だいぶ良くなったよ 』
「そっか。それなら、まずは安心だね」
誉がそこまで返したところで、コホンと小さな咳払いが響いた。
——あ、今、部科長会議の真っ最中だったな……。
その間も、カイの話は止まらない。
『うん!
あのね、 退院後に向けて、リハビリはじめたんだ』
「うん」
誉は、一気に集まった部長たちの視線にも動じない。スマホをほんの一瞬だけ耳から離し、慣れた手つきでマイクをミュートにすると、そのまま席を立った。
「……お騒がせしました。大変恐縮ですが、大切な電話が入りましたので、失礼します」
そしてそう言い放つと、会議の席を囲んでいた面々へ軽く頭を下げ、退室の許可を待つこともなく、さも当然のように会議室を後にする。
それから、無駄に重たい扉を静かに閉めると同時に、ミュートを解除し、何事もなかったかのようにカイに返事を返した。
「もうリハビリ?! すごいじゃないか!」
『えへへ。
今日もちゃんとアースのとこ行ってきた』
「……大地くん?」
誉の眉が、ピクリと動く。
だが、そんなことには気づかないカイは、嬉しそうに話を続けた。
『でね、アースが身体が硬くなってるって言ってて……』
「ん? そんなにがっつり身体触られてるの?」
『うん。モミモミしてもらうよ』
「モミモミ?!」
思わず声が大きくなった。
同時に、自然とリハビリ室の方へと足が向く。
廊下を歩いていた看護師がちらりとこちらを見てきたので、誉は何事もなかったように軽く会釈すると、そのまま歩調を緩めずに進んだ。
電話の向こうでは、カイが楽しそうに話している。
『肩とか背中とかね。あと、股関節が特に硬いらしくて、やわらかくしてもらった〜』
「股関節?!」
また声が上ずった。
『うん。開きにくいんだって』
「開きにくいって……開いて見せたの?」
『見せたというか、開いてもらったよ』
「…………開いてもらった」
誉の足取りが、少しずつ速くなり始める。
もちろん、アース——大地がカイに行っているのは、医療行為だ。
リハビリなのだから、可動域を確認するために身体を動かすこともある。
そんなことは、当然分かっている。
分かってはいるが……。
『でもね、きちんと伸ばしたり、モミモミしてリハビリすれば、ちゃんと開くようになるって。
心配いらないよって言われた。良かったあ』
「へ、へえ……」
カイに返す声こそは穏やかなままだが、その表情はどんどん真顔になっていく。
「リハビリって、結構その……本格的なんだね」
『うん。あっ、それからね。
アースもカインとするときは、正常位……? いつもオレたちがする体位が一番好きなんだって!だからね、オレもね、頑張ることにしたんだ!』
「…………」
とうとう誉は無言になった。
双子がどんな関係で何をしてても興味はないし、そもそも何故リハビリから好きな体位の話になったのか、そして急に何をそんなに頑張ろうと思い立ったのか、因果過程が全く分からない。
聞きたい。
非常に聞きたい。
根掘り葉掘り聞き出したい。
だが、今ここで問い詰めれば、カイはまた萎縮してしまう。動機はさておき、せっかく退院に向けて前向きになっているのに、ここで水を差すのは得策ではない。
『誉?』
「……うん、ちゃんと聞いてるよ。
カイの声がかわいくて、つい聞き入っちゃった」
『ふふっ、なにそれ』
腹の底から溢れ出すドロドロした感情を何とか取り繕って返す誉に、カイがさらに無邪気な追い打ちをかけてくる。
『痛い時もあるんだけど、アースにしてもらうとスッキリするから、明日もまた行くんだ』
「そ、そうなんだ……無理しないでね……」
誉がふと気づけば、もうリハビリ室は目前だった。
『うん! 早く復帰したいな。
誉と一緒に仕事したい。……もちろん、それ以外も』
「……俺もだよ」
誉は、即答して頷いた。
さっきまで胸の中を渦巻いていたどす黒い感情も、その一言でほんの少しだけ薄れる気がした。
「……カイが、こんなに元気になって、頑張る気持ちになってくれたこと、すっごく嬉しい。
けど、頑張りすぎて無理だけはしないでね。
焦らず、ゆっくりだよ。
俺は、ずっと待ってるからさ」
『うん。また倒れたら、意味ないもんね』
そう言った直後、電話の向こうで小さく咳き込む音がした。誉の表情が、すぐに変わる。
「カイ、大丈夫?」
『ん……だいじょぶ』
少しだけ間を置いて、また小さな咳が続く。
きっと、長く話し過ぎてしまったせいだろう。
元気になってきたとはいえ、まだ体力は完全には戻っていないのだ。
誉は扉の前で足を止めた。
「たくさんお話して、ちょっと疲れたね。
そろそろ休もうか」
『うん……』
カイは頷いて、ほんの少しだけ黙ったあと、甘えるように小さく続けた。
『ね〜、誉』
「ん?」
『また、電話してもいい?』
誉の顔が、ふっと緩む。
「もちろん。いつでも待ってるよ」
『えへへ、ありがと』
すると今度は、電話の向こうでカイが少し迷うような気配を見せた。誉が黙って次の言葉を待つと、カイがおずおずと口を開く。
『……あのね、誉』
「うん?」
『オレ、誉が何回も電話くれてたの、さっき気がついたんだ……』
その言葉だけで、カイが何を言わんとしているのか、誉はすぐに分かった。
カイと離れ、フェローに出ていた間のこと。
何度メールをしてもカイからの返事は来ず、航に問うても「大丈夫だ」「うまくやってる」と繰り返すばかりだった二年間。人づてではなく、直接カイから話を聞きたい一心で、何度も電話をかけた。
だが、それが繋がったことは一度も無かった。
『いっぱい、かけてくれてたんだね。ありがとね』
カイの声が、少しだけ沈む。
『なのにオレ……一回も返事できてなくて……。
ほんとに、ごめんね』
誉はしばらく何も言わなかった。
あの頃は、心身ともに弱っていて、とても電話に出られるような状態ではなかったと、先日ちゃんとカイが教えてくれた。だから誉にとってそのことは、もう過ぎたことだった。
どうにもならなかった過去を悔やむより、今こうやって自発的に電話をかけてきてくれたこと。
その方がずっと価値がある。
「ううん」
だから誉は、いつも通りの穏やかな声で言った。
「今日、かけてきてくれたでしょ。
それで十分だよ」
電話の向こうで、ほっと息をついたのが聞こえた。
それから、小さく鼻をすするような音がして、
『……えへへ』
と、またいつもの笑い声が返ってきた。
誉もまた、小さく息をついて表情をやわらげた。
「じゃあ、そろそろカイは休もうか」
『……うん。誉も、お仕事中……だよね』
「そうだけど、俺もカイの声が聞けて、やる気が出たよ。また、いつでもかけてきていいからね」
『ふふっ、ありがと。じゃあ、ごきげんよう!』
「うん、ごきげんよう」
通話が切れる。
誉はしばらく、暗くなったスマートフォンの画面を見つめていた。
ただ声が聞きたかったと、自分から繋いでくれたことが嬉しくて、自然と頬が緩む。
——だけど、それはそれ。これは、これ。
誉は、すっと顔を上げた。
リハビリ室の扉を見据えると、柔らかい表情が真顔に変わる。
「あっ」
その次の瞬間、ちょうど内側から扉が開き、出てきたアースと、真正面から目が合った。
アースは誉の顔を見るなり、一瞬だけ目を見開いた。そして、何事もなかったかのように扉を閉めようとした——が。
その閉まりかけた扉に、誉の手がかかる。
「大地くん、こんにちは」
「チッ。
おや!誉先生〜。こんにちは!」
「……今、舌打ちしたよね」
「あはは、まさか!」
逃げ損ねたアースはそう取り繕いながら返事をすると、ゆっくり扉を開き、いつも通りの人懐っこい笑顔を誉に向けた。
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