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4-22.

翌日、午前中の予定を終えた櫂は、うさちゃんと一緒にリハビリ室へと入った。   部屋の壁際には訓練器具が並び、中央には歩行練習のための広い空間が取られている。    その一角では患者と療法士がゆっくりと歩いており、少し離れたところでは、椅子に座った高齢の女性が若い療法士と楽しそうに話していた。 「お、旦那。いらっしゃい」 すると、奥からこちらへ歩いてきたアースが、片手を上げて、人懐っこくニコッと笑った。 ホスト時代から変わらない軽い笑顔は、黒スーツではなく医療職の格好をしていても妙に馴染んでいる。 「……ごきげんよう」 「はい、ごきげんよう。今日の調子はどう?」 「うん、大丈夫」 「ならよかった」 すると櫂は、あたりをぐるりと見渡して、少しだけ隠すようにうさちゃんを抱き込みながら言う。   「今日はずいぶん人がいるな」 「そうなんだよ。 なんかちょっと立て込んじゃってて。 もう、てんてこまい」   アースはそう言いながら、いつものマットを越えて先に進んでいく。   「だからね、今日は個別訓練室を取っておいたよ。 身体の動きも細かく見たいし……個室なら、うさちゃんも安心だしね」 「う、うん。そうだな……」   櫂はほんの少しだけホッとしながら、促されるままアースの後をついて歩いた。 リハビリ室の奥には、個別訓練用に区切られた小部屋がいくつか並んでいた。 アースが扉を開けたのは、大きな窓に面した十畳ほどの一室だ。 壁際には簡単な訓練器具が置かれ、中央には身体を伸ばしても十分な広さのマットが敷かれている。 扉を閉めてしまうと、外の音はほとんど聞こえなくなる。 櫂はふうと息を吐くとマットの上に腰を下ろし、うさぎさんを膝の上に置いた。 アースは、そんな櫂が座っている様子を横目でさりげなく確認しながら、タブレットを操作する。 「午前中は、いつも通りかな」 「うん。 小児科に行ってから、兄さんとちょっと仕事した」 「旦那の“ちょっと”は、信用ならないんだよなあ」 「本当にちょこっとだってば」 「昨日も、そんなこと言ってなかった?」 「ホントに、毎日ちょこっと。 じいにすぐタブレット取り上げられるんだ」 「あはは、なら安心だね」 アースはそう言って明るい笑顔を見せると、タブレットを閉じた。 そして、櫂の目の前にしゃがみ込む。   「今日は、いつもの運動に加えて、少し身体の硬さも見ようかなと思うんだよね」 「……硬さ?」 「うん。ここのところ、横たわってる時間が結構長かったでしょ。 筋力が落ちてるのはもちろんだけど、動かしてなかった分、関節の動きも小さくなってると思うんだよね。何か心当たりとかないかな?」 「あー……」 櫂はうさちゃんの手を弄りながら、小さく頷いた。 「今朝、背中痒かったけど、届かなくてさ。 じいに掻いてもらった」 「後ろに手を回すと痛かった? それとも、そもそも回らなかった?」 「回んなかった」 「そっかー」 アースは頷きながら、櫂の肩へ視線を移した。 「じゃあ、まずそこから見てみようか。 腕上げてみて」 「こう?」 櫂はうさちゃんを隣へ座らせると、言われるまま右腕を持ち上げた。 頭の横までは問題なく上がるのだが、そのまま後ろへ回そうとすると、肩の付け根に引っかかるような感覚があって、途中で動きが止まった。 「……あれ」 今朝は背中が痒いことばかりに気を取られていて深く考えていなかったが、改めてやってみると、明らかにできなくなっている。 以前は絶対にそんなことはなかった。 アースは櫂の背後へ回ると、肩甲骨のあたりへそっと手を添えた。 「焦って無理に回さなくていいよ。 ここで止まる?」 「うん」 「痛みは?」 「痛くはないけど……なんだろ、つっかかる感じ」 「そっか〜」 アースはそれ以上は動かさないよう支えながら、一度腕を下ろさせる。 そして、今度は反対側も同じように確認し、それから前方から横方向と、丁寧に可動域を見ていった。 「やっぱり少し硬くなってるね。 特に後ろへ回す動き」 「寝てただけで、こんなになるもん?」 「なるなる。 旦那はもともと、年の割に身体が硬めなんだ。 あ、別に旦那のせいじゃないよ。 運動制限されてる人に絞ればまあ、平均くらい」 櫂は訝しげな顔をしながら、自分の肩を軽く回し呟く。 「……運動かあ。ほとんどしたことないな……」 「喘息持ちさんは、仕方ないよね」 「まあ、そうなんだけどさ……」    そんな櫂の表情を見て、アースはすぐに続けた。 「でも、このリハビリだって立派な運動だよ。 ちゃんとリハビリの許可が出て、ちゃんと毎日来れてる。今の旦那にとっては、満点」 「ほんと?」 「うん。それに、確かに硬いけど、ちゃんと動かしていけば戻る範囲だよ。 むしろ、今気づけてよかった」 そうアースに言われると、不思議と少し安心して、櫂の表情が思わず緩んだ。   「じゃ、肩はもういいかな。次、脚も見ようか」 「脚も?」 「はい。今日は全身。ご覚悟ください」 「えー……」 肩を落とす櫂に向かって明るく笑いながら、アースはマットを軽く叩く。   「はい。ごろんして」 「子供扱いすんな」 「俺は老若男女問わず、皆さんに対してこうです」 「それはそれでどうなんだよ……」 櫂は不満そうにしながらも、言われたとおりマットへ仰向けになる。アースはそんな櫂の足元へ移動すると、片脚を支えながら膝を曲げさせる。 「じゃあ今度は股関節ね。力抜いてー」 「抜いてる」 「もっともっと」 「……こう?」 「いいね、その調子」   アースによって足首と膝を支えられながら、櫂の脚がゆっくりと開かれていく。 最初のうちは何ともなかったのだが、あるところまで開いた途端、太腿の内側が強く突っ張る感じがして、反射的にその身体に力がこもった。 「んっ……」 アースの手が、すぐに止まる。 「ここ?」 「……うん」 「結構きつい?」 「思ったより」 「そっか。こっちも結構硬くなってるねえ」 その言葉に、櫂は不安げに眉を寄せた。   「硬すぎたら、やっぱ仕事に復帰できない?」 ほとんど反射的に出たその問いに、アースが少しだけ目を細める。 「大丈夫。 旦那は別に身体を使う仕事じゃないから。 でも、デスクワークでしょ。 身体がより硬くなりやすいし、痛みの原因にもなるから解しておいて損はないかなって感じ」 「……ならよかった」 「まあ、仕事はそれでいいんだけど……」 「なんだよ、何だか含みのある言い方だな」 「うん……まあね」 「……?」 「日常生活もあるし、遊びもあるし、退院すれば当然、誉先生との時間もあるでしょ」 アースは櫂の脚をいったん元へ戻しながら、何でもないことのように続けた。 「このまま身体カチカチだと、誉先生とするのがちょっと大変そうなんだよねえ」   「……は?」 その言葉に、櫂が固まった。   何を言われたのか、すぐには理解できなかったらしい。しばらくアースの顔を見つめてから、恐る恐る聞き返した。 「……するとって、何を」 「セックス」 「?!」 アースがあまりにもあっさりと言うので、櫂の顔が一瞬で赤くなる。 「な、なんてこと言うんだよ!はしたないぞ!」 「エッチな想像しちゃう方がはしたないでしょ」 アースはけらけら笑いながら、力の入ってしまった櫂の脚をゆっくりと元の位置へ戻した。 「そ、想像してないし!」 「脊髄反射で照れないの。 中学生じゃないんだから」 「誰のせいだよ……!」 「ほーら、力まない」 そう言いながら、アースはカイの初心な反応を楽しんでいる様子だったが、やがて仕事の顔へ戻っていく。 そして、先ほど確認した股関節の動きを思い返すように、櫂の脚へ視線を落とした。 「真面目な話……前はどんなのが多かった?」 「……何が?」 「体位」 「だから、なんでそんな普通に聞くんだよ……」 「俺の仕事は生活しやすい体を作ること。 これから、旦那は誉先生とのいつもの生活に戻るわけでしょ。多分、旦那の生活の中で一番負荷が高いのは、誉先生とのセックスだよ」 「う……」 「全くしませんていうなら、また考えるけど」 「……しないとは言ってない」 「ていうか、むしろ、したいんじゃないの?」 「……うう」 そこまで言われた櫂は、しばらく視線を泳がせたあと、耳まで赤くしながら小さな声で答える。 「したい……です」 「だよねえ。ちなみに、どんな体位が多い?」  「えっと……誉が上で……オレは……」 「ああ、正常位か」 櫂がやっと答えると、アースは何でもないことのように頷いた。そして、櫂の脚を軽く外側へ動かしてみる。 「うーん。 この足の開きだと、今はちょっときついかなあ」 「……そんなに?」 「できないってほどじゃないけど、長くなると太腿も腰もつらくなりそう」 すると、途端に櫂の眉が不安そうに寄った。 「けどオレ、その……」 「うん?」 「それしかしたことない……」 「えっ」 驚いたようなアースの反応を見て、櫂はますます恥ずかしくなったらしい。顔を真っ赤にしながら、バツが悪そうに返した。 「……なんだよ」 「いや、そうなんだと思って」 「……悪いかよ」 「全然いいと思うよ。俺も一番好き」 アースはすぐに笑って首を振った。 「まあ、身体への負担だけ考えるなら、寝バックって手もあるけど、いつも通りが安心だし、一番いいね」 「……」 櫂は黙った。 ほんの少し考えてから、赤い顔のまま、ぽつりと呟く。 「……顔見て、したい」 「ん?」 「……キスも、いっぱいしたいし……」 今度はアースのほうが、一瞬だけ黙った。 それから、柔らかく目を細める。 「そっか」 「……うん」 「じゃあ、その方向で整えていこうね」 すると櫂が俯いて、寂しそうにポツリと言う。 「誉、オレがちょっとでもしんどそうだと、すぐ止めちゃうんだ」 「……だろうねえ」 「オレが大丈夫って言っても、止めちゃう」 「そっかあ。それはちょっとだけ、切ないね」 「うん……」   頷いて、櫂は少し黙った。 祝賀会の夜も、自分はしたかった。 誉に触れてほしかったし、もっと近くにいたかった。 けれど誉は、駄目だと言った。 ——自分もしたいけど、櫂の体調が悪いから駄目だ、と。 それは、誉が自分を大切にしてくれているからだということは分かっている。でも……。 「誉ってさ」 「うん」 「オレの身体が大丈夫かどうかを、一番に優先するんだ。したいって気持ちよりも、オレの身体を……」 「……うん。そうだろうね」 櫂は膝元へ視線を落とすと、少しだけ迷ってから、それでもはっきりとした声で言った。 「オレ、誉としたいし」 「うん」 「誉にも……我慢してほしくない」 「そっか」 すると、アースはそれだけ言って櫂の膝を軽く撫でた。 「じゃあ、それをリハビリの目標にしよう」 「……いいの?」 「もちろん」 「仕事関係ないよ?」 「さっきも言ったけど、リハビリは、生活をしやすくするためのもの。仕事のためだけじゃないよ」 アースは明るく笑いながら、続けた。 「旦那がやりたいことを、身体のせいで諦めなくていいようにするためにやるの」 櫂が目を大きく開いて、パチパチと瞬いた。 「仕事したい。遊びたい。誉先生と出かけたい。 ぎゅってしたい。セックスもしたい。 一つずつ、でも確実に叶えていけるようにしよう」 そしてアースはピッと人差し指を立てると、朗らかに言った。 「よし!じゃあ、まずは誉先生との健やかな長時間セックス目指して、頑張ろう」 「言い方!」 「えっ、間違ってないでしょ?」 「間違ってないけど!」 赤くなって抗議する櫂をよそに、アースは満足そうに頷いた。 「よしよし。無事に目標が決まった、と」 そう言って、傍らに置いたタブレットへ手を伸ばすので、櫂がぎょっと目を見開いた。 「待て」 「ん?」 「カルテに書くなよ」 「書かないよ」 「今、書こうとしただろ!」 「『退院後の生活を見据え、股関節及び肩関節の可動域改善を目指す』って書くの」 「……」 「さすがに『誉先生との健やかな長時間セックス』とは書けないって。院長に怒られちゃう」 「当たり前だろ!」 個室いっぱいに、櫂の声が響いた。 アースは楽しそうに笑いながら、本当に今言ったとおりの文言を入力していく。 その手元をしばらく疑わしそうに見張っていた櫂だったが、やがて、ぽつりと呟いた。 「……ちゃんとできるかな」 アースが顔を上げる。 先ほどまで散々怒鳴っていたくせに、櫂の顔にはまた不安が戻っていた。 アースはそんな顔を見つめると、すぐにいつもの笑みを浮かべた。 「できるできる。おにーさんに任せなさい」 「……お前のほうが年下」 「あはは、そうだったね まあ、年齢はともかく、そこはちゃんと任せてよ。 誉先生が心配しなくていいくらい、ちゃんと動ける身体に整えて行こう」 「うん!」 目標が決まれば、櫂は強い。   先ほどまで赤くなって騒いでいたのが嘘のように、その後のストレッチにはいつも以上に積極的に取り組んだ。   「はい、息吐いてー」 「ふう……」 「そうそう。上手。さっきより力抜けてるよ」 「ほんと?」 「うん、バッチリ」   それでもアースは無理に可動域を広げようとはせず、その日の身体の状態に合わせて、肩や股関節をゆっくりと動かしていった。 もう少しできそうだと櫂が言っても、予定していたところまで来れば、きっぱりと止めてしまう。   「今日はここまで」 「まだできるよ」 「明日でいいことは、今日やらないの。 リハビリも仕事も、同じだね」 「そうなのか?」 「なんでもメリハリが必要だと、俺は思うよ」 少し不満そうではあるものの、櫂が素直に頷いたのを見て、アースは少しだけ安心した。 櫂は、没頭すると自分からはなかなか止まれない。 彼の大丈夫、がまるで当てにならないのも事実。 だからこそ、そこは周りが見ていてやればいい   アースはそう思いながら、最後の記録をタブレットへ入力した。   やがて個別訓練室を出ると、先ほどと変わらず、広いリハビリ室には大勢の患者とスタッフが行き交っていた。   「大地さん」   すぐに、若い療法士から声がかかる。   「さっきの佐藤さん、昨日より二往復増えました」 「お、いいじゃん。でも今日はそこで終わりにしといて。疲れ残したくないから」 「分かりました」   さらに数歩進んだところで、今度は杖をついた男性がこちらへ手を上げた。   「大地ちゃん、今日は三周歩いたよ」 「ほんと? 昨日二周だったじゃん。すごいすごい」 「今日は調子いいから、もう一周行こうかな」 「気持ちは分かるけど、今日はそこでやめとこ。 明日また一周増やせたほうが嬉しいでしょ」 「……それもそうだね」   男性は満足そうに笑って、付き添っていた療法士とともに離れていった。   その後も、アースは次々と患者やスタッフに呼び止められる。そのたびに足を止め、名前を呼び、昨日までの様子を覚えていて、できたことを素直に褒めていた。 時には、相手の希望とは違うことを勧めることもあったが、それでも皆、納得したように頷いていたのが、櫂にとっては印象的だった。 少し後ろを歩きながら、その様子をじっと見ていた櫂が、最後に小さくその名を呼び止める。   「……アース」 「ん? なあに」 「お前、人と話すの得意だよな」 「まあ、そうだね。人と話すのは、好きだよ」 櫂は少し考えてから、真面目な声で続ける。 「今度、一日仕事してるところ見学していい?」 「俺の?」 「うん」 「構わないけど……なんでまた」 「実は昨日、兄さんたちに、人との付き合い方が壊滅的過ぎて赤ちゃんよりヤバいって言われた」   一瞬の間を置いて、アースは思わず吹き出した。   「あははは!」 「そんなに笑わなくても……」 「ごめんごめん。 いやあ、旦那、自覚なかったんだ?」 「……普通だと思ってた」 「そこが一番面白いんだって」   櫂はむっと口をとがらせると、拗ねたように低い声で言う。   「だから、本で勉強した。 けど、兄さんが本の通りにいかないこともたくさんあるって言ってたから……。 実際に上手い人がどうやってるのかも見たい」   その言葉に、アースが目を細めた。   「……そっか。本気だねえ」 「うん。ちゃんとするって決めたから」   そんな櫂の様子を見ながら、アースはすぐに頷いた。   「いいよ。患者さんの邪魔にならない範囲なら」 「ほんと?」 「うん」 「メモ取ってもいい?」 「いいけど。完全に研究対象じゃん、俺」 「そうとも言う」 「あはは。まあ、いいや。予定合わせよ」 「うん。ありがとう」   すると櫂が、本当に嬉しそうに笑った。 ——いい顔してるなあ。 誉先生が帰ってきて良かったね、旦那。 アースはそんなことを思いながら、つられるように口元を緩めた。  

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