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4-21.

航は自室に戻るとすぐに自席に腰を下ろし、先ほど櫂が作った人事規定改定案を開いて、まずはスクロールしながら軽く全体を流し見する。 「さて……どんなもん作ったんだか」 それを後ろから覗き込みながら、満が言う。   「たたき台と言ってましたけど……」 「まあ、資料まとめるのだけは昔から得意だからな。とはいえ、半日。まだ半日だ。 そこまで大した資料は……」 航がそう言いながら、一枚目から順に中身を見始めた。 だが、次第にスクロールする手の動きはゆっくりになっていく。そして、とうとう三枚目でその手が完全に止まった。 「……満」 「はい」 「……どう思う」 「凄いを通り越して、恐ろしいですね」 「……だよな」   そこには、現行の人事規定と改定案、その変更によって影響を受ける職員数が、非常に分かりやすくまとめられていた。 傷病、育児、介護などを理由に勤務条件を変更した職員と、それぞれがその後どうなったのか。 その十年分の推移が、理由別に整理されている。 「……降格後の復帰率。正職員への再転換率……」 航はページを送った。 「げっ、退職後の転職先まで拾ってやがる」 勤務条件を変えた者の中には、事情が解消した後、他院へ転職し、以前と同等か、それ以上の職位についている者も少なくない。 「みんな問題解決したあとに、全然戻ってきてねえじゃん。てか、むしろ離れてるじゃん」 さらに読み進めながら、航は眉を寄せた。 「……これは……」 「北丘が如月傘下に入った時の資料まで見てるんですね」 それは、旧北丘総合病院と、如月系列病院との人事制度比較だった。 そして、その大半において『当法人規定との差異は、軽微』と記され、基本は如月系列病院に合わせるとし、大きな制度改定が見送られている。 今、声を上げようとしている勤務規定についても、例外ではなかった。 「……ああ、これは見落としだったな」 「うちと同じだったのだから、仕方ありません。 経営陣交代の話は急でしたし、当時はそこまで検討する余地はありませんでしたからね」 「とはいえなあ……」 航が低く呻いた。 「たまたま如月も同じだったから、統合時に問題として引っかからなかった。 俺もそこまでは正直考えてなかった。失敗した」 「そのすぐ失敗を認められるところ。 いいと思いますよ」 「……急に褒めるなよ、びっくりするわ」 「ふふっ」 図解の説明の下には、櫂の考察が続いていたが、概ね航の理解のとおりだった——その表現は、かなり『辛辣』ではあったが。 「……容赦がねえな」 「事実ではありますけどね」 「……理事会に出す時は、もう少し配慮のある表現に直させよう……」 さらに、その次のページからは、規模や設立年代が如月記念病院と近い複数の医療法人で、公開されている範囲ではあるが、その就業制度や採用条件を比較していた。 すると、歴史の長い病院ほど、常勤勤務と管理職資格が強く結びついているという傾向があることがわかる。一方、比較的新しい医療法人では、時短勤務やフレックス勤務を維持したまま役職に就ける制度が増えていること。 「他所まで見たのか、こいつ」 「比較しなければ、北丘固有の問題なのか、業界全体に残る傾向なのか判断できませんからね」 「それ、櫂がスン顔で言いそうだ。腹立つ」   さらに、その下にはこう括られていた。 『従来の制度は、当時の社会・労働環境において決して特殊なものではなく、管理職が長時間院内に勤務することを前提とした運営には、一定の合理性があったと考えられる。 しかし現在においては、必ずしも勤務時間の長さを是としない風潮であり、職務遂行能力・判断能力・責任遂行能力を合わせ評価することが一般的になりつつあり、総合的に見て合理性に乏しい』 航がしばらく黙った。 「……こいつ、意外と過去のことに関してはすべてが悪いって言わないんだよな。例の、新手法の論文について問われた時もそうだった」 「あの子なりの、敬意なのでしょう」 「改めて振り返ればもっと最適解があった内容でも、その時点で最善を尽くした結果は尊重すると」 「ええ、本当は思慮深く優しい子です。 ただ、人に対する言い方がまずいだけで」 「そうなんだよなあ。人も尊重してくれよ……」 航はそうぼやきながら、さらにページを送る。 次の項からは、役職解除あるいは嘱託化された職員について、その後再評価が行われた割合がまとめられていた。 「……低いな。 てか、ほとんど再審査されてねえじゃん」 航は横に置いておいた人事規定の冊子をめくる。 原文にも、確かに雇用形態を変更する際の審査規定はある。役職を外す際の手続きもある。 だが、事情が解消した後、改めて職務能力や勤務可能範囲を評価し直す手続きは、明文化されていなかった。 「……問題が解決した後の働き方を、何も保証していないんだな」 櫂の考察も、同じことが書いてあった。   『現制度は、勤務制限を必要とする職員の一時的な雇用維持には機能している。一方、制限解除後に能力・職責を再評価し、元の雇用形態または職位へ復帰させる仕組みが存在しない』 さらに、問題解決後の職員の進路をまとめたデータとともに、櫂の考察が続く。   『その結果、一時措置であるはずの雇用変更が事実上恒久化し、回復後の職員は院内で再評価されるより先に、外部労働市場で再評価されている』 航の目が止まった。 「……外で再評価されてる、か」 「的確ですね」 『結果として、現制度は回復までの“つなぎ”としてのみ利用される構造になってしまっている』 「……最悪だな」 「ええ」 「しかもこれ、旧北丘だけの悪習じゃない。 如月も同じだ。せっかく育てた中堅を他所に横取りされてしまう。経営問題だ」 「だからこそ、北丘で先行して変える意味が出ますね」 航は深くうなずきながら、さらに読み進めていく。 そこには、櫂なりの改定案が並んでいた。 勤務時間のみではなく、能力、実績、担当業務、責任範囲を含めて評価すること。 傷病、育児、介護等を理由に雇用形態または職位を変更した職員について、本人の希望により再審査を受けられること。 一定期間ごとに、病院側からも再評価の機会を通知すること。 そして、一時的な勤務制限による不足分を補う支援人員の配置と、補完業務を担う職員への手当の新設案。 航が末恐ろしいと感じたのが、その改定案たちが決して絵空事ではなく、想定される対象人数をもとに、現実的な費用の試算にまで及んでいることだ。しかも、今年度の予算との照らし合わせまで済んでいる。 さらに、離職防止により、採用活動及び新規採用者の教育コスト削減試算までがなされていた。 スライドを最後まで読み込んだ航は、とうとう頭を抱えながら呟いた。 「……困った」 「どうしました?」 「出来が良すぎる。 これ、このまま理事会に持ってけるぞ」 「それは素晴らしいことですね」 すると航は、背もたれに背を預け直しながら小さく膨れた。 そして、まるで子供のように拗ねた顔をする。   「俺なら、ここまで作るのに三日はかかる」 「それでも、十分早いと思いますが」 「櫂は半日だ」 航は腕を組み、ほんの少しだけ唇を尖らせながら画面を睨んで、一段低い声で呟くように言った。 「……悔しい」 その時、院長室の扉が二度、軽く叩かれた。 「兄さん、入るよ」 返事を待たずして扉は開かれ、本を抱えた櫂が入室してくる。 航は反射的に壁の時計を見上げた。 櫂の部屋を出てから、まだ三十分ほどしか経っていない。 「……なんだ。途中で飽きたか?」 「まさか。読み終わったよ」 「は? いくらなんでも早すぎ。読み飛ばしたろ」 「そんな活字に失礼なことはしません。 二度ずつ読みました」 「嘘だろ」 「こんなことで嘘ついてどうするの」 「だって、まだ三十分だぞ?」 「うん。そんなもんでしょ。」 櫂は、何をそんなに驚いているのか分からないとでも言いたげに首をかしげた。 その横で、満が一冊を受け取り、中を確認する。 いくつもの付箋が貼られていることに気がつくと、さすがの満も驚いたように続けた。 「……本当に読んでいるようです」 「だから、さっきからそう言ってるでしょ」 「速読ってやつですかね。 如月帝国の必修科目ではないのですか?」 「あるわけないだろ、そんなもん」 櫂は、そうヒソヒソと声を小さくして話す二人の前に、抱えていた本をトンと置く。 そして、妙に晴れやかな顔で言った。 「こちらは把握しました。次をください」 「なにこいつ……こわ……」 「まあまあ、よいことじゃないですか」 げっそりと肩を落とす航と、妙に自信満々な櫂を応接用のソファー席へと促しつつ、満が穏やかに言う。 「では、理解度を確認してみましょうか」 「うん。まかせて」 「では、先ほどと同じものから参ります」 満はすぐに軽く姿勢を整え、先ほどと同様に、少し困ったような表情を作った。 「櫂先生。 先日教えていただいたことなんですが……また一部、分からなくなってしまって」 三十分前の櫂なら、辛辣な内容を丁寧な言葉で即答したであろう相談内容だが……。    意外なことに、櫂は一度、ゆっくりと頷いた。 さらに柔らかく微笑んだので、航と満がギョッとする。そして櫂は数秒の間をおいてから穏やかに返してきた。 「なるほど。先日説明した二つのうち、一つはお分かりになっていますね。とても良い傾向です」 「……」 「もう一つについて改めて説明しますが、前回の説明で分かりにくかったところを、先に教えてもらえますか? そこを重点的に説明します」 航は目を白黒させながら、まるで信じられないといった雰囲気で呟いた。   「……突然の満点」 「完璧ですね」 「え、何? こわ……急に大型アプデ入った?」 「なに、それ」 「あと、それから……」 航は、首をかしげる弟の顔をじっと見つめると、真顔且つ、素の声で言った。 「なんだ、その可愛らしい顔は」 「顔?」 「さっきのだ。やってみろ」 「……こう?」 「そう、それ!」 「本に、表情は穏やかに、と書いてあったから」 「……なるほど、忠実に再現したのか」 横から満が櫂の顔を眺めながら、ふっと笑う。 「まあ……不覚にも、少しドキドキしましたね」 「誉NGだろ、これ」 「なんで?」 「お前が職場でその顔を振り撒いたら、誉が悶絶する」 「けど、円滑なコミュニケーションには適度な笑顔が有効だって」 「誉の妨害が入って、逆に円滑にならなくなる」 「相談者と誉の関係が、著しく悪化しますね」 「なるほど……。確かに、誉から無駄に愛想を振りまくなと言われてるし……」 「それはそれで問題なんだけどな」 櫂は腕を組み、「うーん」と唸りながら考えた。 そして、少しすると顔を上げ、兄の方を向く。   「……じゃあ、これくらいならどう?」 その顔には、先ほどより、ほんの少しだけ笑みを抑えた表情が乗っていた。 だが、航が顔をしかめる。 「いや、まだ可愛いな……」 「こうかな?」 「駄目だ、全然可愛い」 「……まだ」 「これは?」 「駄目だ、それも可愛い」  「……あなたたち、何の話してるんですか」 しばらく二人を静かに見守っていた満から、もっともな指摘が飛ぶ。すると兄弟は、そろって満の方を見て口々に答えた。 「笑顔のレベル調整」 「誉対策だ」 「業務上必要なんですか、それ」 「必要だろ。内科副部長が笑うたびに、外科副部長が暴走したら困る」 「なるほど。それは確かに」 「誉は大丈夫と思うけど……」 「お前は誉の何をどう見たらそんな楽観的な結論に到れるんだ」 「誉は、いつもちゃんとしてるし!」 「お前の前ではな」    櫂は納得がいがないのか、ぷんと口を尖らせた。 すると、その顔を見た航がしばらく考えた末に言った。 「……まあ、その顔くらいならいいんじゃねえか」 「どの顔?」 「今の、ちょっと不満そうなやつ」 「なんでそれを仕事中にしなきゃいけないんですか」 「知るか、誉に言え!」 満が肩を揺らして笑いながら、改めて櫂に向き直った。 「確認も兼ねて、もう少し続けてみてもいいですか?」 「もちろん。任せて」 今度は航が問いを出した。 「仕事が自分に合ってない気がすると、部下に相談されたらどうしますか?」 「まず、具体的にどの業務が合わないと感じているのか聞きます」 「……おお」 「業務内容、人間関係、勤務条件、体力面、それらによっても対応が違うので、丁寧に聞き取りを行います。その際、さりげなく本人が退職を希望しているのか、まだ迷っているのかも、確認します。 本人も結論が出ていないなら、その場で無理に決めさせずに、まずは選択肢を整理して持ち帰らせて、落ち着いて考えてもらいます」 航が満を見ると同時に、満も航の方を向いた。 「……これ、中の人が入れ替わってないか?」 「そう言いたい気持ちは理解します」 「……失礼だなあ」 「じゃあ次。 課長とうまくいってないって相談されたら?」 「まず、具体的に困っている内容を確認します。 それから、どこまで対象者に共有してもよいか、そもそも共有を望むのか、本人の希望を尊重します」 「うん」 「ただし、内容によっては安全確保や組織上の義務から、完全に秘匿できない可能性もあります。 それは話を聞く前に、きちんと説明をして了承を得ます」 ついに満が拍手しながら、立ち上がった。 「素晴らしい!」 「だから、なんで急にできるんだよ!」 「勉強したのだから、当たり前です」 「インプットに対してアウトプットの質が高すぎて怖いんだよお前は……」 航は呆れたように額を押さえた。 櫂はそんな航を気にする様子もなく、満に返した本の方を見つめながら続けた。 「今回、一番大きかったのは、これまで自分が大きな勘違いをしていたことに気づけたことです」 「……どういうことだ?」 「評価と指導は違います」 「なるほど、いい気づきです」  「はい。 評価は、事実を正確に捉え伝えることが目的です。 一方で、指導は相手が次に改善できる状態にすることが目的ですが、事実だけを正確に伝えるのでは不十分です。それは、通告をしただけに過ぎないからです。私はこれまで、これらを混同していました」 その言葉に、航と満が、揃って黙り込んだ。 「……どうしたの?」 「いや……。 あの三十分前のポンコツぶりは何だったんだろうと、思いを馳せている」 すると、櫂はにっこりと笑って言った。 「……今、とても嫌な気持ちになりました」 「何でその顔なんだよ」 「感情は穏やかに伝えると良いと書いてありました」 「あっ、やっぱポンコツだ。なんか安心した」 「何でですか」 「伝えたい内容と表情は、合わせたほうが感情がより伝わりやすいですよ」 「……なるほど。難しいですね」 「難しいですねえ」  「だから、満まで同調すんなってば……」 航は、大きなため息を一つつくと、改めて櫂へと向き直った。   「でも、まあ……大筋はいい。 だが、今ので全部できるようになったと思うなよ。実際の人間はケーススタディみたいに綺麗には動かねえし、相手によって対応も変わる。 お前は今後も練習と学習を続けること」 「はい、わかりました」 「満、頼めるか?」 「もちろんです」 満はそう答えると、先ほどとはまた別の本を数冊取り出して、櫂へ差し出した。 「では、次のケーススタディは明日にします。 それまでに、こちらを読んでおいてくださいね」 櫂は素直に受け取り、表紙を確認すると元気に頷いた。その表情は先ほどとは打って変わり、とても明るい。 「うん。満兄さん、ありがと!」 「……なんか急にやる気が出たな」 「勉強したら、分かるようになって、なんか面白くなってきた」 「そういうところは、本当にお前らしいな」 航は呆れ半分に笑った後、ふと何かを思い出したように口を開いた。 「……ところでさ。お前、あの資料、本当に一人で作ったのか?」 「うん、そうだけど?」 「例えば、瀬戸に手伝ってもらったりとか……」 すると櫂は、首を傾げながら得意げに返す。 「そんなわけないじゃない。 だって、じいは執事だよ、兄さん」 「……だ、だよな……」 「とはいえ、資料を集めたり、印刷したりはお願いしてるので……それを手伝ってもらったとするなら、そう。でも、中身は私一人で作りましたよ」 「……全部?」 「はい」 「半日で?」 「はい。 資料があれば、そんなに時間は必要ないから」 航はしばらく無言で櫂を見つめ、深いため息をついた。 「さっきからどうしたの? 変な兄さん」 櫂が首をかしげると、満が可笑しそうに口元を緩めた。 「櫂。若さまはね、あなたが作った資料を見て、自分なら作るのに三日はかかるとさっきからずっと悔しがってるんです」 「満!」 「事実でしょう?」 「だからって本人に言わなくていいし!」 「兄さん……そうなの?」 「ああ、そうだよ!」 「……」 そんな兄の言葉に、櫂は思い切り眉を寄せた。 それから、心から憐れむような目で呟く。 「かわいそうに……」 「可哀想言うな!」 「だって三日もかかるんでしょ?」 「う……そうだけど」 それから櫂は、ちょんと首を傾げながら少し考えたあと、ふっと表情を和らげながら、ぱん、と両手を合わせた。 「じゃあ、早く作るコツを教えてあげる」 「えっ」 「これも型があるから、覚えたらすぐできるよ」 予想外な展開に、思わず航が黙る。 すると櫂はそんな兄を見つめてから、遠慮がちに付け加えた。 「……私も、さっき教えてもらったから、お返し」 「……」 航は、そのまましばらく櫂の顔を見つめていた。 だが、やがて観念したように肩の力を抜き、小さく息を吐いて頭を下げる。 「……お願いします」 「うん!」 その言葉に、櫂の顔が、ぱっと明るくなった。 すぐに航の隣へと座り直して、楽しそうに話し始める。 そんな兄弟の姿を眺めながら、満は思わず口元を緩めた。 「……仲がよろしいことで」 「何か言ったか?」 「何か言った?」 ほとんど同時に振り返った二人に、満は笑いながら首を横に振った。 「いいえ。何も」

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