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4-20.

午後の仕事が一通り落ち着くと、航は櫂の様子を伺うことにした。 昨日決めた人事規定改定案について、一度方針を確認しておこうと思ったのだ。 「櫂、入るぞ」 返事を待たず扉を開けた航は、その場で足を止めた。 「……うわ、なんだこれ!」 昨日までは設置していなかったテーブルの上に、分厚いファイルが何冊も積まれている。 それだけでは収まらず、ソファの端や窓際の小机にも、項目ごとに分けられた資料が整然と並んでいた。普段、鞄の中に魔境が広がっている人間とは思えない几帳面さだ。 そんな資料の中央では、いつもの赤い眼鏡をかけた櫂が、タブレットを覗き込んでいた。 「あっ、兄さん。ごきげんよう」 「ごきげんよう、じゃねーよ。 何だ、この紙の山は」 「人事規定改定 提案用の資料だよ」 すると、櫂の隣に立っていた瀬戸が、静かに頭を下げた。 「坊ちゃまのご指示でご用意いたしました」 「櫂……瀬戸は執事だぞ。仕事まで負担させるな」 「公私ともに坊ちゃまのサポートをするのが私の役目でございます。 卯月さまには負けてはおられません」 「いや、お前も変なとこ張り合わなくていいから……。それにしても、この量すげえな」  「十年分でございます」 「十年?!如月傘下に入る前じゃねえか」 「比較対象は多いほうがよろしいかと思いまして」 「めっちゃ助かった。最高」 「よくもまあ、半日でこんなに……」 「お褒めにあずかり、光栄でございます」 「櫂、あんま瀬戸に無理させるなよ……。 もう年なんだから」 「生涯現役でございます」 「わかった、わかったよ。でも無理はすんなよ」 「かしこまりました」 「まったく……」 するとその時、遅れて入ってきた満が、一番上のファイルを手に取った。 「退職者、雇用区分変更者、役職変更者……こちらは傷病、育児、介護による勤務条件変更者ですね」 「うん。あと、正職員から嘱託に変わった人と、役職を外れた人。その後どうなったかも分けた」 「その後?」 「元の職位に戻ったか、正職員に戻ったか、辞めたか。辞めた人は分かる範囲で転職先も」 「そこまで見たのか」 「普通見るでしょ」 櫂は何でもないことのようにそう言うと、タブレットを航へ向けた。 「とりあえず、できたよ」 「……何が?」 「改定案のたたき台」 「は? もう?!」 「うん」 「昨日の今日だぞ?!」 「十分でしょ」 「お前、さては小児科サボったな」 「行ったよ。リハビリもした」 「……どちらもきちんと終えたと、連絡が来てます」 「マジかよ……」 「見る?」  「……いや」 差し出されたタブレットを、航は一旦押し戻した。 「一旦、それはあと。メールで送っとけ」 「えー、なんで」 「それよりも、お前にはもっと重大な課題がある」  まったく心当たりがないといった風に首をかしげる櫂に、航はソファへ腰を下ろすよう促すと、満に手招きをした。 「満。例のやつ」 「かしこまりました」 すると、満も兄弟の向かいへと座ったので、櫂は不思議そうな顔で二人を交互に見た。 「何するの?」 「マネジメント研修だ」 「……今?」 「今だ。これこそ、あと二週間しかない」 航は腕を組んだ。 「お前は個人で資料や論文をまとめるのは得意だが、人を相手にするとなると絶望的だ」 「……そこまで言う」 「気を悪くするかもしれんが、言う」 「兄さん、いじわる」 「俺の意地悪で済めば、どれだけ良かったか。 おい、満」   航が顎で満を示す。 すると満が抱えていた本を机に置き、書類を広げた。  「これから、ロールプレイを行う。 満が部下役で相談をするから、お前は上司役でそれに応えるんだ」 「ええ……」 「まずはお手並み拝見。普段の感じでやってみろ」 「……普通にできると思いますけど……」 心から面倒くさそうにする櫂に向かい、満がコホンと咳払いをして、姿勢を整えた。 「では、参ります」 そして、そう言うと一瞬で表情を曇らせ、少し困ったように視線を落とした。素晴らしい演技力だ。 「……櫂先生。 私、この仕事が自分に合っていない気がして……」 「そうですか。確かに辞めるのであれば、早いほうが合理的ですね」 「待て待て待て、ストーップ!」 航が即座に手を上げて止めると、櫂が気に入らなそうに眉を寄せた。 「なに」 「まだ辞めたいとは言ってねえだろ!」 「合わないんでしょ?」 「だからって、いきなり退職を促すな」 「でも、合わないと感じてるなら辞めたほうがいいですよ。そして、辞めるなら早いほうがいい」 「いいから、もう少し詳しく話を聞いてやれ!」 「……具体的に、何を?」 「何故仕事が合わないと思ってるのかとか!」 櫂は眉を寄せた。 「だって、合わないから辞めたくて退職手続きの相談に来たんじゃないんですか?」 「だから決めつけんなって。 そこまで決めてなくても来る場合がある。 というか、大半がそうだ」 「……じゃあ、引き留めてほしいってことですか? なら最初からそう言ってくれないと……」 「櫂……」 「というか、まず目的と結論から話してくれないと、正しく対応できなくないですか?」 航が、助けを求めるように視線をそのまま満へとスライドさせた。 「……満」 「はい」 「俺、今、カイが精神科専攻じゃなくて、本当によかったと今思ってる」 「まったく同感です」 「なんで?! 私間違ってますか?!」 「櫂、相談者本人も、まだ何をどうしたいのか整理できていない場合があります」 「……整理してから来ればいいのでは?」 「それができないから、相談に来るんです」 「それは……非効率ですね」 「だめだこりゃ……」 航は頭を抱えながら、満に「次」と指で指示する。 満が頷き、次の役へと入った。 「先生。実は、課長とうまくいっていなくて……」 「そうですか。 では、課長にも聞き取りをしてみましょう」 「ストップ!」 「今度は何」 「課長本人に、そのまま聞きに行く気か?!」 「人によって、同じことをされても受け取り方が違います。また、『この人が苦手だ、嫌いだ』というような主観的なバイアスもかかります。ですから、きちんと双方から聞かないと、どちらが至らないのか、公平な判断ができません」 「公平性の前に相談者の安全を考えてくれ……」 櫂が首をかしげ、不思議そうに目を瞬くので、満が補足してやる。 「私は、課長には知られたくないと思っているかもしれません」 「課長に知られたくないのに、私に相談するんですか?」 「はい」 「副部長に限らず、職員の誰かに相談したら、先方に知られるリスクは絶対ありますよね?」 「そうですね」 「なのに、敢えて私に話をするんですか? ……何がしたいんですか?」 「そういうとこな……」 呆れ果てた航の声から、とうとう力が抜けた。 「そのリスクを冒してでも、問題を解決させたい一心で、お前を信頼して相談してきてるわけだ」 「……」 「だから、まず相談者の希望を確認する。“本人にはまだ言わないでほしい”なら、それを踏まえ、解決に向けて次の手を考えるのがお前の仕事だ」 「……なるほど」 「本当に分かってる?」 「……あまりピンときてませんね」 「マジかぁ……」 航が思わず天井を仰ぐ中、満が次の問いを出した。 「では、部下が仕事で初歩的なミスをしました。 どうフォローしてあげますか?」 櫂は、考えた。 これ以上呆れられたら困るので、ここまでの流れを踏まえ、かなり真剣に考えた——結果。 「『この下手くそ、お前素人か?!』……と言うと傷つくかもしれないので」 「おっ、進化したか?!」 「『もしかして……初心者でらっしゃいますか?』」 「より傷つく!」 「なんで?!」 「敬語にすりゃいいってもんじゃねえのよ」 「櫂、それは丁寧な煽りです」 「煽るなら、もっと辛辣に言います」 「マジでやめろ」 「……難しいですね」 「難しいですねえ……」 「おい、満まで諦めないでくれ……」 仕方なく、航がこめかみを揉みながら次の課題を出す。 「じゃあこれは。なかなか結論にたどり着かず、会議が終わっても話し続ける部下に対しては?」 「『ダラダラ喋るな、さっさと結論だけ言え』は、きっとNGなので……」 「ここまではいいんだよな、ここまでは……」 「『いつまでお話になるおつもりですか? もしかして、時計、読めないんですか?』」 とうとう耐えきれなくなったのか、思わず満が吹き出した。 「っ……」 「もうやめて!」 航もまた、テーブルに顔を突っ伏して、額をグリグリと押さえつけながら身悶えた。 「かなり柔らかくしましたけど」 「より固く尖ってるわ、ボケが!」 「では、何度も同じ質問をしてくる人には?」 「『何度目だ、ふざけんな』だと傷つけてしまうので」 「もう嫌な予感しかしねえ」 「『その抱えてるタブレットは、ただの板ですか?』」 「面白い、最高!」 満がとうとう声を上げ、航も肩を震わせる。 もはや呆れを通り越して感心する域に入ってしまったようだった。   「お前、意外と語彙力があるな」 「意外とって。人をなんだと思ってるんですか」 「いや、打てばすぐに辛辣フィルターに通して返ってくる。逆にすげえなと思い始めてる」 「褒めてないですよね」 「まあ、褒めちゃいねえな」 「……難しいですね」 「難しいですねえ」 「だから満まで同調すんなってば……」 航はため息交じりに、しかし、かなり真面目な声で櫂に宣告する。   「お前、対人能力だけなら赤ん坊以下だぞ。 ……いや。赤ん坊のほうがニコニコして愛想いい分、まだマシだ」 「評価に、愛想は不要です」 「だから、そういうとこ!」 だが、ここまで散々言われ続けた櫂は、今度は引き下がらない。ぷくっと頬を膨らませながら、勝ち誇ったように言い返した。   「誉も、『俺以外には一切愛想を振りまかなくていいからね』って言ってました」 「……誉らしいというか、なんというか」 「愛想を振り撒けとは言っていない。 最低限、人として円滑なコミュニケーションを取れと言っている」 「?」 「分かってないかぁ〜」 「櫂、人と話していて、嫌な気持ちになったことはありませんか?」 満が出してくれた助け舟に対し、櫂は少しだけ考えて答えた。 「嫌な気持ちにしかなったことがないですね」 その答えに、航と満が同時に黙った。 「……だめだこれ」 「これは……アプローチ方法を変えたほうが」 「……だな。 一度型で覚えさせよう。大丈夫だ。多分」 「自信なくさないでくださいよ」 「無理ゲーが過ぎる」 「言っちゃいましたね」 すると、静かに二人の話を聞いていた櫂が、ふと眉を寄せて低く言った。 「……今、嫌な気持ちになりました。先ほどの発言は、あまりにも配慮がないと思います」 「それです」 満が即座に頷き、勢いよく櫂の方を向いて叫ぶ。 「その感覚、大事にして?!」 「……なるほど」 櫂は考え込んだのち、顎に指先で触れながら首をかしげた。 「事実とはいえ、思ったことをそのまま言ってはいけない……?」 「急にレベルアップし始めたぞ」 「……相手が不快な気持ちにならないように、適宜言い方を変えるべき?」 「そう!それ」 「言い方さえ気をつければ、伝える内容の本質自体は変えなくていい……?」 「それは、場合による」 「……難しいですね」 「だから型を覚えろって」 すると、航がふと思いついたように言った。 「お前だって、とりとめもなく誉に相談したい時とかあるだろ? 何か迷ってる時とか」 「ないですね」 「ないのかよ!」 「出した結論と判断の後押しが欲しくて、確認することはあります」 「じゃあ、そういう時、誉はなんて答える?」 櫂はほとんど間を置かずに答えた。 「『いいんじゃない! さすが俺のカイだね! それはさておき、今日もかわいいね! 愛してるよ!』」 「いや、さておくな。持ってろ。 そこ一番大事だから」 「誉の後押しは、最初のひと言で十分なんですね」 「うん。誉が大丈夫って言ったら、大丈夫だから」 「信頼感がエグい」 「カイの自立を促しながらも、自分が肯定して安心させることで、自分への依存を深める高度なテクですね」 「何なのこいつら。 もうヤダ怖い…… 早く押しつけたい!」 「だったら、さっさと私たちの結婚を認めてくれたらいいのに」 「だから俺じゃなくて、如月家NGなんだよ!」 「めんどくさい家」 「それは認める」 満はそんな兄弟の様子を見て笑いながら、テーブルの上に積んであった本のうち、三冊を取り出した。 「櫂、取り急ぎ、これを読んでみてください」 櫂は本を受け取ると、しげしげと表紙を見つめた。 『人を傷つけない伝え方』 『管理職のための対話術』 『部下との信頼関係の築き方』 それから本を持ち上げると立ち上がり、執務机の方に向かう。そして、机の上の資料を雑に端に寄せ、トンと音を立てて本を開いた。 するとそのまま、すごいスピードでページを捲り始める。 「おい、櫂。いきなり読むな……」 「や、もう何を言っても無駄でしょう。 瀬戸さんにあとは任せて、お暇しましょう」 「……まったく。興味を持つとすぐこれだ。 瀬戸、あとは頼んだぞ」 「かしこまりました」 航は深くため息をつくと立ち上がり、櫂が残していったタブレットを持ち上げた。 そして、先ほど櫂が作ったという人事規定改定案の資料を自分のメールに送り、満と共にそっと部屋を出ていった。

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