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「……何ですか、これ」
櫂は、目の前に置かれた分厚い冊子をしげしげと眺めながら首をかしげる。
「うちの人事規定だ」
「いや、それはさすがに見ればわかります」
そう言いながら、櫂は冊子を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
「なぜ急にこれが出てくるんですか」
「お前が、副部長になりたいなんて言い出したからだよ」
まったく心当たりがないといった顔の櫂に、航が大きく息を吐いて答えた。
「お前は今、正職員じゃないだろ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうだよ?!?!?!」
思わず航が声を上げた。
一方、櫂はきょとんとした顔で目を瞬いた。
「お前の勤務体系は、コアタイムなしの成果制。それをやるために、敢えて正職員から外してんだよ」
「正職員ではできないんですか?」
「できない」
「どうして」
「読め」
航はぶっきらぼうにそう言うと、手前の冊子を指差した。
櫂は不服そうに眉を寄せたものの、渋々視線を落とす。その初めこそ普通にページをめくっていたが、数秒もしないうちに、その速度が目に見えて上がっていった。
「……お前、ちゃんと読んでんのか?」
「……」
「おい、聞いてるか?」
「あーあ。入りましたね。
読み切るまで動きませんよ、これは」
「……」
それから、ぴったり十五分後。
人事規定のすべてを読み尽くした櫂は、ぱたんと冊子を閉じた。
「時代錯誤も甚だしい規定の数々ですね」
「……」
「だから如月は古すぎるって皆に言われるんですよ」
「……耳が痛いが、残念ながら現状はこれだ」
航は額を押さえた。
「正職員はコアタイム制だ。お前みたいな働き方は、人事規定上認められてないんだよ」
「なるほど。
じゃあ、とりあえず私、正職員試験を受けます」
「そういう問題じゃない」
「何でですか?
受かれば正職員になれるんでしょう?」
「ちがう。正職員になったら、今みたいな働き方ができなくなるっつってんだよ!」
「それは体調的に無理ですね。
けど、正職員じゃないと副部長になれないし……」
「ほら見ろ、堂々巡りだ」
櫂は、しばらく黙りこみながら、人事規定の冊子を見つめた。それから顔を上げて、上目遣いで航を見上げながら言う。
「……兄さん、なんとかなりませんか?」
「出た、必殺 兄さんに丸投げ」
即座に頭を抱えながら、航が呟いた。櫂はまったく気にせず、ほんの少し眉尻を下げてさらに言う。
「兄さん……だめ?」
「やめろ、俺はその可愛い顔に弱い」
「兄さん……。私……人生で初めて、頑張りたいって思えたんです……」
「頑張りたくなるまで随分時間がかかったな!
あと畳み掛けるな!
マジで可愛い顔しやがって、チクショウ!」
その様子を涼しい顔で見守っていた満が、くすりと笑った。
「さすが、櫂。
兄へのおねだりのポイントを的確に押さえている」
「えへへ」
「……クソッ」
そうして航はしばらく頭を抱えたまま考えていたが、やがて低い声で言った。
「……わかった。何とかする」
「ほんと?!」
「ただし、簡単な話じゃねえぞ」
航は、改めて人事規定を手元へ引き寄せた。
「正面切って『弟を副部長にしたいから規定を変えます』じゃ、どう考えても理事会は通らねえ。
頭が固いじーさまたちを納得させるだけの必要性と合理性がいる」
「必要性ならありますよ!
私が副部長になるっていう!」
「それはお前限定の必要性な。
人事規定の改定ってのは、お前一人じゃなく、他の皆にも必要でなければならない。それこそ、お前が大好きな事実と数字による説明と証明が要る」
「……事実と数字」
「例えば、今の規定で困っている人材がどれだけいるのか。制度を変えたらそれがどう改善するのか。職員だけではなく、病院側にも相応のメリットがあるのか。
そこまで揃って、ようやく提案の土台に乗れる」
櫂は、今度こそ真面目な顔で規定集へ目を落とした。するとその時、これまで静かに話を聞くばかりだった満が、ふと口を開いた。
「しかし、意外と箸にも棒にもかからない話ではないと思うんですよね」
その言葉に、航が顔を上げる。
「どういうことだ?」
「先日の祝賀会の特集を、テレビで拝見しました」
「……あれか」
満は、途端に眉を寄せる航と、不思議そうな櫂を楽しげに見比べながら続けた。
「ええ。
あなたたち、SNSでバズり散らかしてますよ」
「ばず?」
ネットに疎い櫂が、不思議そうな顔で首を傾げるので、満は優しく補足してやった。
「みんなの噂になっている、ということです」
「ええっ、それはちょっと……」
「これまでほとんど表に出なかった次男が、蓋を開けてみれば優秀な臨床医だった。
兄が経営、弟が現場。しかも兄弟仲が抜群にいい。
あまりにも理想的で、美しすぎる布陣です」
「何だよその言い方。馬鹿にすんな」
「まさか、褒めてるんですよ」
満は、改めてそっくりな兄弟二人を順番に見比べた。
「それに、あなたたち……特に櫂は、非常に目を引きやすく、皆の記憶に残りやすい」
「……外見が珍しいから、気持ち悪いってことですか?」
「いいえ、逆です。誉の言葉を借りれば、『もう!信じられないくらい可愛い〜!』です」
「……」
「何でそこで誉基準なんだよ。
つーか、そのせいか。昨日からテレビやら雑誌やらネット記事やら、取材申し込みがやかましくてたまらん」
「……兄さんも、テレビに出るんですか?」
「出るわけねえだろ。
そういうメディア担当は父さんの役割だ。
それくらいしか出来ねえんだから」
「おっ、言いましたね」
「……口が滑った。忘れろ」
「言いましたね」
「お前も拾うんじゃない」
航のあまりにもげっそりとした顔に、櫂が小さく吹き出す。一方、満は咳払いをひとつすると、話題を戻した。
「それにしても、今回、ご当主はかなり明確に広報の方向を変えてきましたよね」
「ああ………それはそうだな。
完全に櫂を利用する気満々だよな」
「ご当主自身が、公の場でその役割をはっきりと言葉にしたこと。櫂のことは、このまま懐刀として温存し、公には出さないと思っていましたから、正直、予想外でした」
「だよなあ。今まで放っておいた癖に、『医師として現場に立つことを優先してきた』とは、うまいというか、何というか」
「ええ。
ですが、これを利用しない手はありませんね」
「あー、そうか!なるほど」
航が手を打ち頷くと、その横で櫂が首をかしげた。
「……それが、人事規定と何の関係があるんですか?」
「大いにあるんですよ、櫂」
満は、穏やかに微笑んだ。
「これだけ大々的に『次男は現場の医師だ』と打ち出しておいて、実際には、その持病を支える制度すらなく、嘱託扱いでなければ働けない。
かなり体裁が悪い話です」
「つまり、表に出した話と、実際の制度が噛み合ってねえってことだ」
「ならば、『時代に合わない制度を見直し、柔軟性を持たせることで、櫂を筆頭に、全職員が正当に能力を発揮できるようにした』という形に持っていくのが美しい」
「……ううん、まどろっこしいな……」
「だが、それが経営ってもんだ」
櫂は小さく頷きながら、腕を組んだ。
「……櫂の他にも、同じようなやつがいるか……」
そして暫く深く思案した後、ゆっくりと呟くように言う。
「……いや、いるな」
「いるんですか?」
「現在、把握しているだけで六名です」
満はそう答えると、手元のタブレットを開いた。
「六人もいるんですか?」
「これまで降格、退職した人を含めればもっといますよ」
三人は、モニターに映された六人の人事情報を改めて一人ずつ確認していく。
「ナース、課長、係長……結構色々いますね」
「整形外科のナースは旧体制からの残留組か。
古くからの患者のこともよく知ってる。
相当なベテランだ、もったいない」
「そうですね。いずれもできれば残ってもらいたい人材ではあります」
「お病気の方もいますね。
私と同じように、フルタイムが厳しいのかなあ」
「ええ、そうです。現状、コアタイムを満たせないのであれば降格、嘱託化しかありません。他法人では、フレックスを認めている院も増えてきていますし、ベテランの医師であれば開業という道もありますからね」
「内科の課長も手放すには惜しい。だから不摂生な生活はやめろと何度も面談で言ったのに……」
「若さまに言われても、説得力がないです」
「うう、耳が痛い。面目ない」
「ちなみに、半分の三名は育児や介護といった家庭事情です」
「これは一時的に労働条件を緩和したらいける可能性がかなり高いな」
「仰る通りです。
本人たちも面談でそう話をしています」
「それなのに、その数年のために役職を外すか、契約を変える……医療系は基本再就職には困らない。
だったら辞めちまうよな。如月に固執する理由はない。……もったいねえよな」
「このタイプの離職者は、年次が高い場合が多いです。能力も実績もあり、病院としても、残ってもらった方が明らかに得です」
航は黙ったまま、改めて人事規定へ視線を落とした。
六人。
櫂を加えれば、七人。
その全員が、能力そのものに問題があるわけではない。
ただ、今の規定では、その能力を十分に活かせる働き方が選べないだけだ。
しばらくして、航が低く呟いた。
「……いけるな」
その瞬間、航の表情が明らかに変わった。
先ほどまで弟に振り回されて頭を抱えていたのがまるで嘘のように、人事規定を引き寄せ、素早くページをめくり始める。
「本規定そのものには手を付けない。系列院全部の承認を得るには、時間がかかりすぎる」
「じゃあ、どうやって……」
「系列院には、ある程度の裁量がある。
特に北丘は旧体制から独自の人事規定を継承してる。本規定との差も、そこまで大きな争点にはならない」
「ましてや、北丘は若い院長のもと新しい改革を続けると当主が明確に宣言しましたからね」
「言質は取ってる。利用しない手はない。
まずは試験的に、うちで先行して規定を変える。
勤務時間だけじゃなく、能力と実績、それから実際に担っている責任で評価できる形にしよう。
満、この前食事したベンチャーの社長とのアポを取ってくれ。参考にしたい」
「かしこまりました」
航は、さらにページをめくりながら、半ば独り言のように話を続ける。
「各個人の事情に寄り添える柔軟な働き方ができるようにする。不足する人手は一時的に他の職員で補って、早急にフリーで動ける応援要員を新たに採る。フォローに回る現行職員にはその間報酬を増やして納得してもらおう。さっさと実績を出して、本院にも話を持っていければ……」
「ゆくゆくは、如月そのものを変えられますね」
「ああ。昨今の如月ブランドに向けられた『古い体制だ』という批判は見過ごせない。特に若い層の流出には、本院の人事長も頭を抱えている」
「まあ、本来なら人事長ではなく院長が頭を抱えるべき課題ではありますが」
「むしろ好都合だ。タレント院長に、本業院長の仕事を見せつけてやる」
航は不敵な笑みを浮かべながらそう言って顔を上げた。その顔は自信にあふれ、まるで新しい玩具を見つけた子どものように楽しそうだった。
「満」
「はい」
「俺は、やるぞ」
「はい」
「二週間後の理事会で、櫂の復職と副部長任用、それから北丘医療センターの人事規定改定案をまとめてぶち込む」
「かしこまりました」
その言葉に、櫂の顔が、ぱっと明るくなった。
「兄さん、ありがとう!」
「いや、お前の力にも働いてもらう。覚悟しとけ」
「へっ? 私も?」
「その思考と処理能力、使わせてもらうぞ」
「わ、私も?」
「副部長になりたいのなら、お前も当事者だ」
怯んだように眉を寄せた櫂に向けて、満が横から穏やかに続けた。
「副部長になれば、こういった人事や制度に関する仕事も、少なからず担うことになります。
良い演習になりますよ」
「……うう……」
「きっと誉もびっくりするし……喜ぶでしょうね」
「!」
櫂は一瞬目を大きく開き、人事規定の冊子を見下ろした。その表紙を指先で撫でるように触れてから、コクンと頷く。
「がんばる」
「まったく、現金だな。
とはいえ、一人で頑張る必要はねえよ。
みんなでやろう」
「うん」
航にそう声をかけてもらい幾分安心したのか、櫂の表情が緩む。
続けて満が航の方を向き、穏やかに頷いた。
「それを言ったら、若さまもです」
「……何が?」
「一人で頑張ろうとして、根を詰め過ぎて徹夜……なんてことにだけはならないようにしてくださいね」
「寝てる場合じゃないだろ」
「寝てください」
「二週間しかないんだぞ、そんな時間は」
「寝ろ」
「……はい」
「……兄さんが素直に言うこと聞いた!」
「うるせえ」
航は深いため息とともに少しばかり気まずそうに視線を逸らしたあと、ふと思い出したように櫂を見た。
「……お前の部屋に、もう一個ベッド入れていい?」
「え、やだよ」
「なんでだよ」
航が拗ねたように口をとがらせると、櫂は兎を抱き込みながら照れたように横を向いて続けた。
「……一緒のベッドで寝たらいいじゃんか」
「……えっ」
そのまさかの返答に、航が固まってしまう。
「仲がよろしいこと」
そんな二人を見てくすくすと笑いながら満が言うと、航は少しだけ照れたように横を向き、頷いた。
「……おう」
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