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1話

あの日、年越しそばを食べたのが始まり…なんて言ったら、司は絶対笑うだろう。 年越しそばの味はやけに美味しかった。たぶん、二日酔いのせいなんてもんじゃない。「チャラいから嫌い!」って叫んだ翌日に、そのチャラい人の家で年を越すなんて、誰が予想しただろう。でも、司の顔を見るたびに、なんかモヤモヤする。 あれが余裕ってやつなんだろうか。 奏汰には、まだよく分からない。 年が明けて、まもなく。家に帰り、玄関を開けた瞬間、違和感はあった。 見慣れない靴。廊下に転がるキャリーケース。リビングから聞こえてくる、赤ちゃんの泣き声。 「……え?」 「あ、奏汰。おかえり〜」 キッチンから顔を出した母の声は、やけに明るい。 「今ね、お姉ちゃん帰ってきてるの」 「……え?姉ちゃん?」 その瞬間、リビングのドアが勢いよく開いた。 「ちょっと!あんた遅いのよ!寒かったんだから!」 現れたのは、相変わらず勢いのある姉だった。赤ちゃんを抱っこしている。 「……え、なにこの状況」 「離婚したのよ、あたし」 「はぁ? いや、軽っ!?」 「向こうの家、出てきたからさ。しばらくここ住むことになったの」 奏汰の脳内で、嫌な予感が全力疾走を始める。 「……へ? な、なに?」 「で、奏汰。あんた今一人暮らしみたいなもんでしょ?」 「ここに住んでますけど!?」 「仕事も塾だし、帰り遅いし。家にいないじゃない」 「いや、いますけど!ちゃんと帰ってますけど!」 「ほら、子どももいるし」 姉が、赤ちゃんをひょいと前に出す。 「部屋、足りないのよね」 __あ。 まさかと思ったところで、母が、にこやかに言った。 「奏汰、ちょっとの間、外に住めない?」 「ちょっとの間ってどのくらいですか」 「未定」 「未定!?」 「大丈夫よ、あんた独り身なんだし」 「独り身でも人権はあります!!」 その日のうちに、奏汰の私物はダンボール二箱にまとめられた。追い出された、という言葉以外、思いつかない。 ◇ 「……で?」 司は、淡々と聞いた。夜のリビング。床に置いたダンボールを見下ろしながら、片手でコーヒーを飲んでいる。 「いや、だから……実家、住めなくなりまして」 自分でも、なんで司に連絡してしまったのか分からない。でも電話を入れたら、司は何も聞かずに車で迎えに来てくれた。 「理由は」 「姉の里帰り&離婚コンボです」 「なるほど〜」 「なるほど〜っ、じゃないですよ!?普通驚きません!?」 思わず声を張り上げると、司は少しだけ考えるように顎に手を当ててから、あっさり言った。 「そういうことなら、仕方ねぇだろ」 そして、ごく自然に続ける。 「じゃあ、ここ使え」 まるで、『傘あるから貸すわ』くらいの軽さだ。 「……は?」 「空き部屋あるだろ」 即答だった。 迷いも、躊躇も、一切ない。 「部屋、掃除入れとくか。ベッドもあるし」 「は、話、聞いてます!?」 「聞いてる。で、期限は?」 「……未定です」 「じゃあ当分だな」 そう言って、司はあっさりとコーヒーを口に運んだ。まるで、「今日から一緒に住む」それが、ずっと前から決まっていたみたいに。 奏汰は言葉を失ったまま、ダンボールを見下ろす。 ……なんなんだ、この人。 チャラいのに余裕があって、意味がわからないのに、どうしてこんなにも自然なんだ。 でも、いくら悩んでも考えても、状況は何ひとつ変わらない。 「……ありがとうございます」 小さく言うと、司はちらりとこちらを見て、笑った。 「どういたしまして。居候一名、歓迎だ」 その笑顔が、妙に安心できてしまったのが悔しい。 ◇ 気がつけば、あれから三か月。 奏汰はいま、司のタワマンのキッチンで味噌汁を焦がしかけていた。 「……おーい、奏汰。なんで煙が上がってんだ?それ。 何作ってんの?」 背後から飄々とした声。 もう慣れたはずの低音に、今朝もちょっとだけ胸が跳ねた。 「ちょ、ちょっと!先生が話しかけるからでしょ!」 「あぁ?まさか…おい!焦がしてるんじゃねぇだろうな。俺の愛しのキッチン、何してくれてんの?」 「もぅ〜……ちょっと黙ってて……」 ゲラゲラと朝から笑い声が響く。 司先生…今日も余裕たっぷりですね。 シャツのボタンを一つ外し、マグカップ片手にタブレットでニュースを読む姿。それだけで絵になる。そういうところが腹立たしい。……そして、少しだけカッコいいと思ってしまうのが悔しい。 奏汰は、元高校教師。 転職して今の塾に勤めてる。 司はそこの塾経営者。 そしてベテラン人気講師でもある。 つまり、職場でも家でも上司だ。 …理不尽すぎる。 「お前さ、寝癖すげぇぞ。なおせよ?ほら、前髪がNの字になってる。なんのメッセージだよ、それ」 「えっ……!ちょ、待って!鏡!」 「今日のはマジで芸術点高いな」 「うわぁっ!もう…やだ、ほんと。……つうかN字じゃなくてS字ですってこの前髪はっ!」 「S?いや、Nだろ…NO wayってメッセージか?すげえなお前マジで。ありえないって…髪でそんな器用なことできんのか…」 「いや、マジ…黙って…」 そんなふうに口喧嘩しながら迎える朝。 だが、司が食卓に座って味噌汁をすする瞬間、「おおっ!お前の味噌汁最高!」と笑って言う。だから、なんとなくいつもボヤけて許してしまう。 ◇ 職場に行くと、女性講師たちがすぐに気づく。 「西島くん、今日も寝癖かわいい〜!」 「司先生に直してもらえばいいじゃん」 「えっ!? なんで司先生が出てくるんですか!」 いつの間にか女子たちの間では、『西島奏汰=司先生のペット』という不名誉な構図が出来上がっていた。 何が怖いって、否定すればするほど図星っぽくなることだ。 「えー? 一緒に来たの見たよ?」 「コンビニの袋、司先生とお揃いだったし」 「コ、コ、コンビニ袋?な、なにその観察力!探偵ですかあなたたち!」 女性講師の一人、明るくて世話焼きな結衣が笑いながら俺の背中を叩いた。 「でもいいじゃん、西島くん、司先生といると楽しそうだしぃ〜」 「た、楽しそうって……そんな、別に!」 図星すぎて反論できない。 そう、たぶん楽しい。でも、それを認めたら負けな気がして、口には出せない。 ◇ 昼休み。休憩室のテーブルに、司が生徒用プリントを広げている。 赤ペンと黒ペン、付箋まで並べて、意外と真剣な顔だ。 「……先生、それ、授業用ですか?」 「ん? ああ、そう」 あっさり答えながら、ペンを走らせる。 「へぇ……」 思わず間の抜けた声が出た。 「なにその反応」 「いや……もっとこう、テキトーにやってるのかと」 「お前さ〜」 司が顔を上げ、眉を寄せる。 「俺のこと、どんだけ信用してねぇんだよ」 「だって、普段あんな感じじゃないですか」 「失礼だな。俺は適当と余裕を履き違えないタイプだぞ」 言いながら、プリントの端に小さく何かを書き足す。奏汰はつい身を乗り出して、覗き込んだ。 「……すご。細かいですね」 授業の流れ、質問が出そうな箇所、つまずきそうなポイント。びっしり書き込まれたメモは、即興には見えない。 「生徒ってさ」 司は視線をプリントに落としたまま言った。 「わかってない顔してる時ほど、わかりたいって必死なんだよ」 その言葉に、奏汰は一瞬、息を忘れる。 「……意外と、ちゃんと見てるんですね」 「おい、意外とを外せ」 即座にツッコミが返ってくる。 「仕事だろ。見てなきゃ教えられねぇよ」 カカカ、と軽く笑う声はいつも通りなのに、その横顔は、不思議と真面目だった。 奏汰は、なんとなく視線を逸らす。こういう瞬間、司をまっすぐ見られなくなる。 「お? なに、見とれてんの?」 途端に、いつもの調子に戻る。 「やだな〜。奏汰くん、俺に惚れちゃった?」 「ち、違います!」 「はいはい。違う違う。でもまぁ、惚れられて困るほど悪い男でもないけどな〜」 「っ……!」 分かってて言ってる。分かってて、揶揄うんだから、この人はなんかタチが悪い。 ◇ 夜。家に帰ると、司がソファに寝転がってビールを飲んでいた。 ソファでだらけた姿さえサマになる。 チャラくもあり、大人っぽくもある。 苦いビールなんて、よく飲めるなと、司を見て奏汰は心の中で呟いた。 「今日、女性陣にまた冷やかされましたからね」 「なんて?」 「……司先生の彼氏枠おめでとうって」 「はは、みんなわかってんねぇ〜。手っ取り早く知れ渡っていいじゃん」 「よくないですよ!」 「え? うそだろ?当たってるじゃないか」 「っ……!!ほんとに冗談ばっかり!!」 揶揄われて顔を真っ赤にする奏汰を見て、司はいたずらっぽく笑った。 「別にいいじゃん。間違ってないんだし」 低く囁いている。それだけで、なんだか部屋の空気が変わる。 「なぁ……奏汰」 「……なんですか?」 突然、柔らかい声で名前を呼ばれて、奏汰の心臓が跳ねた。 「味噌汁、明日は焦がさないでね」 「…焦がしたくなくても、焦がされるんですよ! 先生が隣にいると」 「え〜っ!俺〜?俺のせい?」 司は笑いながらビールを飲み干す。その音が、夜風に混じってやけに心地よかった。

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