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第57話
箱根駅伝の旅行から戻ってきて以来、佳孝と和也は週末になると交代で料理を作り合い、佳孝のマンションで二人きりの時間を過ごすようになった。
今日は和也の番だった。
祖母から教わった煮物を、ぜひ佳孝に食べてもらいたくて、台所に立ち、慣れないながらも一生懸命に腕を振るっていたところだった。
鍋から立ち上る湯気を気にしながら味を確かめていると、その時、スマートフォンが不意になった。
和也は一瞬戸惑いながらも、濡れた手を慌ててタオルでふき取り、画面を確認しながら通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、和也か……俺だよ」
「おう、祥太郎か。珍しいな、どうしたんだよ。そういえば、あの時に会ったきりだな」
「ああ、そうだな……それでさ、和也。お前、幸せになったんだな」
「えっ……?」
思いがけない言葉に、和也は一瞬、何と返していいか分からず言葉を失った。
「俺にはさ、あんな顔、見せたことなかったぞ。正直言ってちょっと妬けたけどな」
「……? お前、何言ってるんだよ。訳の分からないこと言うなよ」
「訳の分からないこと、ねえ……そうかな。実はな、俺、今年の正月、箱根駅伝の警備に駆り出されたんだよ」
「は……箱根駅伝……!?」
和也の心臓が、跳ねるように一度大きく脈打った。
「そう、箱根駅伝。……そう言われりゃ、思い当たるだろ?」
「えっ……い、いや、その……も、もしかして……ま、まさか……」
そこまで言ったところで、和也の身体は強張り、その場から動けなくなった。
「そう、そのまさかだよ。見・て・た・ぞ。隣にいた奴を見てビックリした。度肝抜かれたっていうかさ……まあ、よく考えてみりゃ、納得いくけどな」
――そういえば、あの時。
沿道には何人か警察官が立っていた。
その中に祥太郎がいたのだろうか……まったく気づかなかった。
「そういうことだったんだな。……これで和也の謎が、一気に解けたよ。色々あったんだろ。何があったか知らないけど、知ろうとも思わない。でもさ……結果オーライじゃないか」
「…………」
いいよ、何も言わなくて。それが答えだろ」
「…………」
「それにしてもさ、なんだよ、あれは。友達って顔じゃなかったぞ二人とも。あまりにもラブラブでさ、つい見とれちまったよ。俺、もう少しで警備の仕事、忘れるところだったぞ」
「あっ………」
「前にさ、『何かあったら俺が力になる』なんて、偉そうなこと言ったよな。でも、あれは撤回しようと思って電話したんだよ。あんな奴が傍に居たんじゃ、俺の出番はねえな」
「……祥太郎。……ゴ、ゴメン」
それ以上は何も言えなかった。
それが、今の和也には精一杯だった。
「いいって、謝るな。幸せそうで何よりだ……よろしくやれよ。俺も俺で頑張るからさ。ああ、そうだ、また同窓会があったら、その時に会おうぜ」
「うん、分かった。あ、ありがとう」
「じゃあな」
通話が切れた後も、和也はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
なんと表現すればいいのだろう、嬉しさや有難さは確かにあった。
けれど同時に、どこか歯がゆくて、気恥ずかしくて、ほんの少しの切なさ……そんな複雑な感情が静かに覗いていた。
その時、玄関の扉が開き、佳孝が帰ってきた。
和也は、はっと我に返り振り向いて微笑む。
「……お、お帰り」
和也の様子を見て、佳孝はすぐに気づいたようだ。
「どうした? 元気ないな」
「ううん、何でもないよ。お祖母ちゃんから煮物を習ったんだけど……あんまり上手くいかなくてさ。佳孝の口に合うか、ちょっと心配で…」
と、言いながらもどこか目を泳がせていた。
「そんなことか。和也の作ったものなら、何でも美味しいに決まってる」
「またまた……上手いこと言って」
「だけど、それだけじゃないだろ」
「えっ……!」
佳孝には、何かしら気づかれてしまったようだ。
和也には隠し事はできなかった。
「実は、友達から電話が掛かってきたんだ…」
「関岡祥太郎か?」
「えっ…あの、祥太郎のこと知ってるの?」
「知らないはずないだろ、和也の一番の親友だってことは知ってたさ」
「……そうだよ、あいつね警察官になったんだ。それで……」
祥太郎からの電話の一部始終を差し支えない程度に佳孝に話した。
「僕たちのこと、仲いいねなんて…からかわれちゃってさ。それでつい、動揺しちゃったんだ。……祥太郎の夢は刑事になることなんだって、難事件を解決する名刑事。陰ながら応援しているけどね」
「時々、会ったりしてるのか?」
「ううん…そんなことないよ。半年ぐらい前に会ったきりかな」
そして和也は、少し間をおいて。
「……あの、祥太郎はまた別の意味で大切な友達なんだ、すごく良い奴だよ」
「ああ、そうだな分かったよ」
佳孝は、納得するように頷くと、話題を切り替えた。
「煮物か……懐かしいな。日本の醤油の匂いって、なんでこう落ち着くのだろうな。“お祖母ちゃん”……いい響きだ。俺は、そうやって呼んだことは一度もない」
「あっ…ゴメン」
咄嗟に謝ってから、和也は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
母ひとり、子ひとりで育った佳孝。
きっと幼い頃、寂しい思いをした時間もあったのだろう。
「いいよ。気にしなくていい」
佳孝はそう言って、和也の方を真っすぐに見た。
「今の俺には、和也さえ居てくれたらそれで十分だから」
その言葉のあと、佳孝は背筋を伸ばし迷いのない声で言った。
「今度――お前のお母さんに挨拶に行きたい」
「えっ……」
和也は思わず息をのんだ。
「だってそうだろう。このまま黙って付き合う訳にはいかない。曖昧なままじゃ失礼だし、俺自身が嫌なんだ」
「……確かにそうだね」
和也も納得して頷いた。
「お前のお母さんは、分らず屋か?」
「そんなことないよ」
和也はふっと笑いながら
「実はさ、母さんも佳孝のことをずいぶん気にしてたんだ。箱根駅伝を一緒に観に行くって言ったとき、“仲直りしたんだね”ってすごく喜んでいた」
「そ、そうか……それならいい。その時が来たら、俺がきちんと説明する」
佳孝は、迷うことなくはっきりと言い切った。
そんな佳孝を見て、和也は改めて思う。
その男らしさ、逞しさ、そして、何よりの誠実さを……
一瞬、緊張した時間が流れたが、佳孝がそれを払拭するように明るい声で言った。
「海外旅行のパンフレット、貰ってきだぞ」
佳孝はそう言って、テーブルの上に何冊もの冊子を置く。
「和也が行きたいところがあったら、任せるから選べよ」
「わあ……こんなに沢山あるんだ。これじゃ選べないよ。そういうことは、経験のある佳孝に任せる」
「そうか。じゃあ、二人で相談して決めるか」
「うん」
和也は、心から幸せそうに笑いながら、ゆっくりと頷いた。
佳孝と再会して一年が経とうとしている。
完
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