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第56話
朝はまだ暗いうちに起きた。
外に出ると、冬の空気が頬に痛いほど澄んでいる。
吐く息が白く、山の稜線が黒く空に浮かび上がっていた。
「うわ……本当に寒いね」
和也が両手を口元に寄せる。
沿道にはすでに人が集まっていた。
旗、手袋、カメラ、温かい飲み物……みんな新年のテンションで、しかしどこか真剣な顔をしている。
空気は祭りのようでいて、スポーツの戦場のようでもあった。
和也は周囲の熱気に圧倒されながらも、そのすべてが嬉しかった。
テレビの中でしか見たことのない景色……あの選手たちが、今ここを走ってくる。
その光景を前にして、和也はふと、遠い記憶を蘇らせていた。
この箱根駅伝を好きになったのは、祖父の影響だった。
正月になると、祖父はテレビの前に座り、箱根駅伝に見入っていた。
和也の家は正月だからといって家族みんなで旅行に行く余裕がなかった。
だから自然と箱根駅伝を見るのが恒例となっていたのだ。
和也は、ただ隣でそれを眺めているのが好きだった。
――本物を、観せてあげたかったな。
(ごめんね。お祖父ちゃんの分まで、ちゃんと観てくるから。だから、天国で見ていて)
和也は、そう心の中で呟いた。
そして――それを佳孝と二人で見ている。
この現実が信じられないくらい幸せだった。
「……寒いか?」佳孝が耳元で囁く。
人目があるから、あまり過激なことはできないが、外気から守るみたいに寒さを遮る位置に立ち、和也の肩をそっと抱きしめた。
和也は佳孝のコートに頬を寄せ、小さく笑うと佳孝の腕に僅かに力が入るのが分かった。
やがて、何処からともなくざわめきが濃くなり、前方の人だかりが波のように揺れた。
「来る……!」
和也が思わず声を上げる。
沿道の空気が一つの方向に集中し、見えない風が走ってくる気配がした。
「……すごい!」
和也は息を呑んだ。
次の瞬間、先導者と白バイ、その後ろに――選手が現れた。
躍動。集中。フォームの美しさ。脚が地面を叩く音。呼吸。
走者が通り過ぎる瞬間、世界が強烈に鮮明になった。
「がんばれ! がんばれ!」
和也は、どこのチームを応援する訳でもなく、目の前を走り抜けていく選手一人一人に向かって声援を送った。
歓声が上がり、旗が振られ、人々の熱が爆発する。
和也は身体の奥から震えが来て、知らないうちに佳孝の腕を掴んでいた。
「佳孝……っ、凄い……!」
声が上ずってしまう。
佳孝が和也の方を見て、驚いたように少し笑った。
「……お前、泣いている」
「えっ……?」
和也は頬を触る。
ほんの少しだけ濡れていた。
自分でも分からなかった。
感動しているのも、興奮しているのも本当だ…でもそれだけじゃない。
(こういうのを、こうして一緒に見れるんだ)
その実感が胸を熱くして、涙になった。
佳孝は何も言わずに、和也の頭を自分の胸元へ引き寄せ、頬に軽く唇を落とした。
ほんの短いキス…でもその一瞬で、和也は息が止まった。
「……っ」
「落ち着け」
佳孝が耳元で言う。
その声は低くて優しくて、逃げ道がなくて――胸の奥が甘く傷んだ。
和也は佳孝のコートを握りしめ、微かな声で言う。
「……幸せすぎて、どうしたらいいか分からない」
佳孝は小さく息を吐き、ただ一言だけ答えた。
「それでいい」
そしてもう一度、指を絡めるように和也の手を握り直した。
「……佳孝と一緒に、本物を観られるなんて思わなかった」
佳孝は和也の頭を軽く撫で、ぽつりと言った。
「和也のその顔が、見たかったんだよ」
その言葉に和也は胸を突かれ、何も言えなくなる。
佳孝は甘いことを言い慣れていないくせに、こういう時だけ正確に心を射抜いてくる。
三日目。
復路の朝は、前日よりも人の動きが落ち着いていた。
空気は張り詰めているが、どこか穏やかで、和也自身も、昨日、駅伝を初めて見た時のような熱狂や興奮は少し収まっていた。
マフラーを首まで引き上げ、佳孝の隣に立つ。
やがて、復路の選手が現れる。
上りとは違う下りのスピード感で、選手は一気に駆け抜けていく。
歓声が押し寄せ、風が通り過ぎて行った。
観戦を終えた帰り道、和也の足取りは軽く、駅伝も…温泉も…寒さも…そして疲れも、全てが心地良かった。
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