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第55話
年が明け、一月一日の午後。
佳孝と和也は二泊三日の予定で箱根へと旅立った。
新年の空気は凛として、街の角々からは正月の特別さを否応なく思い出させた。
佳孝の運転する車に揺られ、箱根の山が近づくにつれて窓の外の景色が変わっていく。
都会の色から、代わりに冬の光を浴びた山肌の深い色が、じわじわと視界を占めて行った。
和也はそれだけで胸が高鳴っていた。
旅行なんて――まして恋人と二人きりの旅行なんて、自分の人生には縁がないと思っていたのに。
隣で佳孝はいつも通り静かな顔をしている…けれど、時々和也の方を見て、目が合うとほんの少しだけ口元が緩む。
その小さな変化が、どんな言葉よりも確かな「恋人」の証明に思えて、和也は落ち着かないほど嬉しかった。
夕方、保養所に到着すると、建物は派手ではないが、山間の木々の間に、きちんと手入れされた佇まいで、落ち着いた安心感があった。
玄関で靴を脱いだ瞬間、和也の肩からふっと力が抜けて長旅の緊張がほどけていく。
部屋は八畳ほどの畳敷きで、飾り気のない簡素さがかえって心を安らげた。
障子の向こうに薄い冬の夕暮れが沈んでいる。
佳孝が静かに説明する。
「うちの会社はまだ持っているけど、最近は、保養所を持つ会社も減ってきたんだ、維持するのも大変でね。ホテルや旅館と契約するところが増えている。軽井沢にもあるから、また機会があったら行こう」
「えっ…ホント、楽しみにしてるよ」
二人は館内の風呂ではなく、近くの温泉施設へ向かった。
「大浴場も露天もあるけど、家族風呂を予約しておいた。二人で入ろう。和也の身体を他の者には見せたくない。目の毒だからな」
「なに、それ」
不服そうに返すと、佳孝は意味ありげに微笑んだ。
年季の入った木造の建物で、渡り廊下を進むと、番号ではなく花の名前の付いた幾つかのこじんまりとした家族風呂が並んでいた。
露天ではないが、大きな窓が開け放たれ、湯に身を沈めながら景色を楽しむことができる。
鼻をくすぐる硫黄の匂いが立ち昇り、白く濁った湯に肩まで浸かると、身体の芯に溜まっていた冷えや緊張がゆっくりほどけていくのが分かった。
ここが温泉地であることを、言葉にするまでもなく、湯そのものが静かに語っていた。
佳孝は湯の中でも無駄に落ち着いていて、湯気越しに見る横顔が妙に大人びて見えた。
和也はぼんやりと見てしまい、慌てて目を逸らす。
それに気づいたのか、佳孝が低い声で言った。
「……和也」
呼ばれただけで、胸がはねた。
夜。
布団を敷き、灯りを落とすと部屋は柔らかな闇に包まれた。
障子の外には山の冷気が張り付いていて、静けさが深い。
和也は布団に入っても眠れず、天井を見ていた。
「……ねえ」
和也は小さく叫んだ。
「……ん?」
佳孝が身を寄せてくる気配がした…黙って和也の頬を指でなぞると抱き寄せ、唇を重ねる。
熱は静かで、丁寧で、逃げ場を奪うみたいに深いキス。
和也は佳孝の背中に腕を回し、縋るように抱きついた。
「あっ……う~ん…ん…ん…」
和也は涙が出そうになりながら、佳孝の胸に顔を埋めた。
「おい、ここは壁が厚くない。あまり大きな声を出すんじゃないぞ、隣に聞こえるからな」
「なに…それ! 出させてるのは誰なんだ? そういうところがずるいんだよ」
「明日は早い。駅伝、いい場所で見たいだろ?」
「もちろん!」
和也は即答して、直後に声のトーンを落とした。
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