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第二十六章 新しいルール制定

 定時ギリギリ。いや、正確には五分オーバー。 (……よし)  今日は本当に頑張った。無駄話もせず残業も最低限に抑えて、全力で仕事を片付けた。  理由は一つ。 (――昨日のあれがある)  あの「構ってください」を思い出すたびに、帰ったら何が起きるんだろうと、勝手に期待してしまう自分がいる。  玄関のドアを開ける。 「ただいま」 「おかえりなさい」  ――いつも通り。  エプロン姿の三好が、キッチンから顔を出す。声のトーンも、表情も、距離感も。  見慣れた平常運転がそこにあった。 「……」  靴を脱いだまま、固まる俺。 (――え? 昨日の流れは? 俺の脳内だけだったのか?) 「どうかしました?」 「いや……」  いやいやいや、落ち着け。三好はこういう男だ。期待しすぎた俺が悪い――そう自分に言い聞かせながら、ソファに腰を下ろす。  が。  三好はいつも通り、淡々と夕飯の準備を続けている。距離も近づかない。寄ってもこない。甘えもゼロ。 (……これは)  ダメだ。  意を決して、俺は立ち上がった。 「直人」 「はい?」  振り向いた三好の顔は相変わらず穏やかで、何も疑っていない。 「ルールを追加する」 「……はい?」  不意打ちだったらしい。振り返りながら、小首を傾げて大きな瞳を瞬かせる。 「いいか。忙しいほど言っていい」 「……何をですか」 「構ってほしいって」  三好が真顔で固まる。 「え゛?」 「昨日言っただろ。あれ」  キッチンに歩み寄り、わざと距離を詰める。 「忙しいから言わない、はナシだ」 「……」 「むしろ逆」  三好の耳が、みるみる赤くなっていく。 「忙しいほど、甘えていい」 「……それは」 「命令!」 「恒一、ルールや条件を増やすの好きですね……」  ぼそっとした呟き。だが、否定はしない。 「それ、俺だけですか」 「何が」 「……甘えていいの」  一瞬、真剣な目になる。 「当然だろ」 「……」  三好は黙り込んだまま、視線を彷徨わせる。手元のフライパンを持ったまま、完全に思考停止していた。 「……恒一」 「ん?」 「忙しいときでも……ですか」 「特に忙しいとき」  そう言うと、三好は小さく息を吸った。 「……じゃあ」  三好が珍しく言葉を探している。何かを迷うように視線を落として、それからゆっくり顔を上げた。 「今日は……仕事、忙しかったですか」  その聞き方がもう、ずるい。 「すっごく忙しかった!」 「……」  三好はフライパンを置き、そっと俺の袖を引いた。昨日より、ほんの少しだけ強く。 「……じゃあ」 「うん」 「……少しだけ、構ってください」  破壊力。 (……)  俺は何も言えなくなった。代わりに、そのまま三好を引き寄せる。 「ルール制定、大成功だな」 「……これ、翻弄されてるの俺ですよね」 「今さらだろ」  胸に顔を埋めてくる三好の体温が、じんわり伝わる。 「……忙しくても、いいんですね」 「ああ」 「甘えても」 「ああ」 「……迷惑じゃないですか」 「真逆」  さらに力を込めて、ぎゅっと抱きしめる。 「忙しい日にそれ言われたら、俺が悶え死ぬ」 「……それはそれで困ります」  小さく笑う気配。  肩透かしを食らったと思った帰宅は結局、昨日以上の成果を生んだ。 (ああ……)  これはもう、教育的指導じゃない。ただの惚気だ。だが成果は出ている。何しろ、三好直人が自分から「構ってください」と言った。  ――ルール制定、大成功である! ***  困っていた。本当に困っていた。昨夜、高瀬が新しいルールを制定したせい。 『忙しいほど言っていい』 『忙しいほど甘えていい』  告げられたことを思い出しただけで、耳が熱くなる。 (そもそも、なぜルールになったんだろう)  しかも命令だった。俺が反論する前に決定されていた。高瀬は満足そうだったが、問題はその後だ。  俺は非常に真面目に考えてしまっている。  朝。出勤前のコーヒーを飲みながらメモ帳を開く。 『甘えていい条件』と一行書いて、ふと止まった。 (――いや、何を書いてるんだ俺は)  慌てて消す。しかし数秒後――。 『恒一が忙しい日』と書き直していた。  自ら打ち込んだものの、意味がわからない。だけど昨夜の高瀬は真剣だった。 『特に忙しいとき』  そう言っていた。つまり――。 (忙しい日は、構ってほしいと言った方がいいのか?)  難しい。非常に難しい。恋人関係とは、こんなに運用が難しいものなのだろうか。  昼休憩になり、スマホを見る。高瀬からメッセージが来ていた。 『会議地獄』  それだけ。たぶん愚痴だ。たぶん。  だが、昨日のルールを思い出してしまう。 (会議地獄……?)  これって忙しい。かなり忙しい。ルールの条件を満たしていることになる。  俺はスマホをじっと見つめた。  五分・十分――気づけば十五分。そしてようやく……。 『お疲れさまです』  と一言だけ送って終了した。 (――無理だ)  いきなり『構ってください』は、俺にとって難易度が高すぎる。間違いなく、警備員試験より難しい。  帰宅後、ソファに座る。隣にいる高瀬はテレビを見ていた。  俺は彼の横顔をチラチラ見ながら、真剣に悩んでいた。  昨日のルールを守るべきか。守らないべきか。いや、守らないと高瀬が残念そうな顔をする気もする。 (さて、どうする――)  悩む。悩む。悩む。そして、そっと高瀬の袖をつまんだ。 「ん?」  すぐに高瀬が反応したことで、心臓が一瞬だけ強く跳ねる。 「……」 「直人?」  もう後戻りできない。俺は観念した。 「……確認です」 「何の?」 「昨日のルール」  高瀬が吹き出した。  ひどいと思う。俺は真剣に悩んでいた。高瀬は軽い気持ちで言ったのかもしれない。しかしルールという以上、確認事項は必要だ。  曖昧な運用は、事故の元である。 「まず」 「うん」 「忙しい日の基準は何ですか」  高瀬が固まった。 「基準?」 「残業時間でしょうか」 「違う」 「業務量ですか」 「違う」 「精神的疲労度」 「たぶん近いけど違う」  答えが曖昧すぎる。困る。 「じゃあ、どう判断すれば」 「俺が忙しいって言ったら」 「自己申告制なんですね」 「なんで勤務管理みたいになってるんだ」  高瀬が額を押さえた。意味がわからない。ルールなのだから運用基準は必要だろう。 「次です」 「まだあるのか」 「あります」  当然だ。 「構ってください、は何回まで有効ですか」 「何回でも」 「一日あたり?」 「無制限」 「一週間で?」 「無制限」 「一か月でも?」 「無制限」  即答だった。俺は黙り込む。それはそれで問題がある。 「恒一」 「何」 「上限は設定した方がいいと思います」 「なんで」 「人間には欲があるので」  高瀬の肩が震えた。笑っている。なぜだ。 「直人」 「はい」 「おまえ、自分が一日に何回甘えると思ってるんだ」 「わかりません」 「そんなに甘えないだろ」 「……保証はできません」  高瀬がソファに倒れ込んだ。腹を抱えている。失礼極まりない。 「あと」 「まだあるのか……」 「重要事項です」  俺は真剣だった。 「夜中も可能ですか」 「可能」 「勤務中は」 「不可」 「休日は」 「歓迎」 「体調不良時は」 「最優先」  即答。俺は少し考える。  なるほど。体調不良時は最優先なのか。覚えておこう。 「直人」 「はい」 「メモ取ってないよな」 「取ってません」  嘘だった。スマホのメモアプリには『甘えていい条件』という項目が存在する。さすがに言えない。 「最後です」 「まだ最後じゃなかったのか」 「重要です」  高瀬が天井を見上げた。諦めたらしい。 「どうぞ」  俺は一度深呼吸した。 「もし、俺が」 「うん」 「頻繁に甘えるようになったら」 「うん」 「迷惑ですか」  それだけは確認したかった。部屋が少し静かになる。高瀬の笑い声も止まった。 「直人」 「はい」 「それ、本気で聞いてる?」 「本気です」  すると高瀬は大きく息を吐いた。それから、俺の肩を引き寄せる。抵抗する間もなかった。 「恒一」 「迷惑だったら」 「……」 「最初からルールなんか作らない」  低い声だった。ふざけてもいない。 「おまえが遠慮するから」 「……」 「言えるようになってほしかっただけだ」  胸の奥が少し熱くなる。俺は言葉に詰まった。 「だから」  高瀬の腕に力が入る。 「回数制限もない」 「……」 「有効期限もない」 「……」 「上限もない」  そこで少し笑った。 「好きなだけ使え」  俺はしばらく黙っていた。そうしてから高瀬のシャツの裾を、そっと掴む。 「ん?」 「……確認です」 「何の」 「ルール適用」  数秒の沈黙。次の瞬間、高瀬が盛大に吹き出した。 「直人」 「はい」 「恋人を就業規則みたいに扱うな」  そう言いながらも、高瀬は俺の手を離さなかった。

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