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8.春を祈る

 口からこぼれる息が白い。  町境で馬車を降りてからの徒歩で、身体はすっかり冷えてしまっていた。急に降り始めた雨のせいである。  溜息を呑み込み、アシュレイは黙々と足を速めた。森の入口まで送らせることを拒んだのは自分自身なので、文句を言う宛てがなかったのだ。  ガス灯の頼りない光の下を進み、目的の店の前で立ち止まる。クローズの札が出ていたものの、気にすることなくアシュレイは木製の扉を押した。 「よう、遅かったな。大物だったのか?」  夜半にいきなり現れた自分に驚きもせず、イーサンが目を細める。柔らかい表情に、アシュレイも目元をほころばせた。 「それほどでもなかったんだが」  応じながら、ローブについた水滴を入口で払う。 「討伐地が北の国境だったおかげで、移動に無駄に時間を食った」  ばさりとフードを脱いだところで、読んでいた本を閉じて、イーサンが立ち上がった。その足でタオルを取りに向かい、こちらへ近づいてくる。 「そのローブごと脱いで、乾かしていけよ。風邪引くぞ」 「いや……」 「またテオに泣きながら駆けこまれたくはないからな」 「いくつのときの話だ、それは」 「さぁ、七つだったか、八つだったか。どちらにせよ、あの森を夜にひとりで駆け抜ける程度には、恐ろしかったんだろうさ」  くっくと思い出したふうに笑われ、アシュレイは口を閉ざした。本当に、よく口の回る男だ。  雨を吸って重さを増したローブを脱ぎ、暖炉付近の椅子の背にかける。受け取ったタオルで髪を拭い始めたことを確認すると、イーサンは奥へ引き返した。  しかたなくいつものふたりがけに腰を下ろしたアシュレイだったが、イーサンの置いた本に目が留まった。  ──薬草学、か。 「あぁ、それな。エレノアの本なんだよ」 「イーサン」 「ちゃんと拭いたか? ──お、大丈夫そうだな」  くしゃりとアシュレイの金髪を掻き混ぜたイーサンが、厨房(ちゅうぼう)から持ってきたらしいカップを机に置く。立ち上がる湯気と慣れた薬草の匂いに、アシュレイはほっと息を吐いた。 「薬草茶か」 「エレノアの得意のブレンドだ。おまえほどではないにしても、よく効くぞ。なにせ、わざわざベイリー先生が頼みに来るくらいだ」 「そうか」  懐かしい恩師の名前に頷き、カップを手元に引き寄せる。指先を温めていると、正面に座ったイーサンがぽつりとした調子で呟いた。 「あいつの薬草学のセンスは、昔からピカイチだったからな。まぁ、魔力のない人間(こんな男)の嫁におさまっちまったわけだが」  声を出さずに笑い、薬草茶に口をつける。舌に広がる苦みが、想定どおりの調合であることを伝え寄こしていた。 「宮仕えもできた器だったろうに」  どこにでもいる町娘だったエレノアが宮廷の研究職に就いていれば、大出世であったであろう。だが。 「それでも、あいつはおまえのそばにいたかったんだろう」 「だといいが」  苦笑いで応じたイーサンが、ふと黙り込む。沈黙が流れたものの、そう長い時間ではなかった。 「それで? どうだったんだ、魔獣の討伐は。それほどでもないと言っていたが。大魔法使い(おまえ)を引っ張り出すレベルの大討伐だったんだろう」 「まぁ」  もう一口茶で喉を潤して、淡々と続ける。 「宮廷魔法使い(エリート連中)だけでもどうとでもなったと思うが。今は、この国を代表する大魔法使いが不在だからな。その代わりと言ってはなんだが、たまには」  大魔法使いとはこういうものである、と。力を誇示しておくことも、大魔法使いの役割のひとつなのだ。大魔法使いの存在は、この国の抑止力。  心底面倒であるものの、大魔法使いの名を冠して十年以上。アシュレイもさすがに理解していた。 「お師匠はまだしばらく戻られないのか」 「さぁ。今度はまた違うところに飛ばされるだなんだと言っていたが」  王命ではあるが、ルカはルカで僻地(へきち)に赴くことを楽しんでいる節がある。任務のあいだに行う希少な薬草探しに精を出しているのだ。その割りを食らっているアシュレイとしては、(はなは)だ迷惑な話である。 「なるほど、なるほど。それで、うちの息子が森で二週間ぽつんとお留守番だったわけだ」 「なにかあれば、俺にはわかる」  そうでなければ、置き去りなどできるはずもない。事実として伝えたアシュレイに、イーサンは少しの間を挟んで破顔(はがん)した。 「おまえは本当に丸くなったなぁ」 「……」 「まぁ、あいつも十四だ。次の夏には我らが母校に入学するわけで、留守番くらいできるようにならないことには、どうにもならんか」 「本人は、若干、行くのを渋っているふうだが」  バツの悪さを誤魔化すように森での様子を明かせば、「甘やかしすぎたな」とまたイーサンが笑う。 「この町を離れたくないだけだろう」  王立魔法学院に入学すると、三年間学院の敷地内で過ごすことになる。よほどのことがない限り、外出が許可されることはない。  今のように、父と母と月に一度会うことのできる環境ではなくなるのだ。多少の寂しさを覚えても、致し方ないことだろう。淡々と応じて、カップを持ち上げる。 「しかし、それにしても不思議なものだな。魔力は遺伝ではないというが、俺の魔力はとうに枯れているというのに、まさか息子があれほどの魔力を持って生まれてくるとは」  しみじみとした口調に、アシュレイは口元を笑ませることで答えとした。  たしかに、テオバルドは逸材だ。持って生まれた才もだが、なによりも、まっすぐに学ぼうとする素直な心根が。自分を凌駕(りょうが)する魔法使いになるかもしれない。 「……なんだ?」  じっとした視線に、小さく首を傾げる。問いかけると、イーサンははっとしたふうに苦笑を取り繕った。 「いや、おまえの顔を真正面からじっくり見るのも、随分ひさしぶりだと思ってな」  少し懐かしくなった、と続いた台詞に、しかたなく苦笑を返す。懐かしい顔に違いないと呆れたからだ。なにせ、もう十年以上変わっていない顔である。  自分の見た目の成長はある時に止まり、そういうふうになったのだ。だから、こういった状況でない限り、アシュレイがフードを外すことはない。 「昔は俺の特権だったというのに」 「それこそ何年前の話だ、イーサン」 「さぁな。十年、いや、もう二十年近く前になるのか」  王立魔法学院に在籍した当時を思い出したのか、眼鏡の奥の瞳が柔らかな色を帯びる。  イーサンの言うとおり、もう二十年近く前の話だ。アシュレイは、あの学び舎でイーサンと出逢い、かけがえのない時間を過ごした。あのころのイーサンは、自分には及ばずとも十分な魔力があった。 「なぁ、アシュ」  伸びてきた大きな手が、跳ねた金髪をそっと撫でつける。アシュレイが嫌がらないと承知しているのだ。 「おまえの変わらない童顔も、緑の瞳も。どれも変わらず、俺は好きだぞ」  呪われた自分のすべてを無条件に肯定する台詞に、ふっと吐息をもらす。 「テオバルドとそっくりだな」 「おい、おい。そこはテオバルドが俺に似ていると言うところだろう」  冗談めかしたふうに笑ったイーサンが、アシュレイから手を離した。その手を顎に当て、ひとりごちるように呟く。 「でも、そうか。おまえの中では、もうテオバルドのほうが大きいんだな」  予想していなかった言葉に驚いたものの、すぐにアシュレイは得心した。きっと、そうだ。そうなってしまっている。 「……そうかもしれないな」  認めたアシュレイに、はは、とイーサンが笑う。 「そうもあっさり認められると、少し妬けるぞ」 「馬鹿を言うな」  アシュレイも笑った。 「おまえには、エレノアがいるだろう」  魔法学院にいたころから、エレノアはイーサンに夢中だった。  ──アシュレイ。お願い、アシュレイ。この人を死なせないで!  あぁ、絶対に死なせるものか。おまえに頼まれなくとも、俺が俺の意思で、俺の命をかけてでも絶対に死なせない。  禁術に手を出すことに躊躇いはなかった。自分ならできるという自信もあった。  なにを対価に持っていかれるのかは承知しなかったが、なにを対価に取られてもいいと思っていた。イーサンの命と同等のものなどないと思っていたからだ。  だから、今もアシュレイはなにひとつ後悔していない。フードをずっと被っていることくらい、なんのわけもないことだ。  泊まっていけばいいだろうに、という誘いを断ったアシュレイは、杖を手に夜の森を歩いていた。  ローブはまだ少し水分を含んでいるが、雨は上がっている。おまけに、幼少期から暮らす、慣れた森だ。夜目の利くアシュレイにとっては、昼の街道を歩くときと変わりなく、危険もない。  ──それに、帰れるのであれば、帰ってやるべきだろう。  あの弟子は、自分と違い、すぐに寂しそうな顔をする。たしかに、多少、甘やかしすぎたのかもしれない。内心でアシュレイは意見を改めた。  この森を二週間ほど離れると告げたときも、随分と不服そうな目をしていた。思い浮かんだ表情に、ふっと笑みがこぼれる。  このあたりの雪は深くないが、北の国境沿いはひどい吹雪であった。  薬草を煎じる。魔獣を討伐する。そのどちらもが国に仕える魔法使いに課された、重要な役割だ。  魔力を持って生まれた者は、おのれのためにのみ力を行使することなく、国と民のために使わなければならない。  学院を卒業し魔法使いとなるときに求められる誓いのひとつだ。アシュレイも誓っている。おおむね正しいとも思っている。その正しい道を、テオバルドも行くのだろう。  あの弟子は、正しい存在だ。そう信じているからこそ、アシュレイは自分が乱してしまわぬよう気をつけてきたつもりだ。  十五になるまで大事に育てようと心に誓ってきたつもりだ。 「師匠、どうしてですか?」  純粋な疑問八割、不納得二割といった問いかけに、アシュレイは無言で弟子を見つめ返した。  もう幾年も前。テオバルドが今よりずっと幼かったころのことだ。森で怪我をしたテオバルドに、手当てをしてやったことがあった。  たいした怪我でもないのに、覚えたばかりの治癒魔法を使おうとした弟子を叱って、煎じ薬を塗り包帯を巻いてやっていたのだ。 「どうして、魔法で治してはいけないのですか?」 「テオバルド。おまえは人をやめるのか?」 「……え?」 「魔法に頼りすぎると、時が止まるぞ」  素直に驚いたテオバルドに、アシュレイは淡々と言葉を重ねた。 「正しく年を取って、正しく死ね」  手当てをするアシュレイの手元に、テオバルドの視線がゆっくり動いていく。少し脅しすぎたらしいと悟って、アシュレイは口調をゆるめた。 「テオバルド。おまえの父が言っていたように、おまえにはたしかに才がある。だが、俺のようにはなるな」 「……」 「おまえは、人の輪の中で死んでいけ」 「……師匠は? 師匠はどうなのですか」 「そんなことは、おまえは考えなくていい」  苦笑ひとつで、そう切り捨てる。子どもというものは、本当に、おかしなところにまで気を回そうとする。悩むような間のあとで、テオバルドがもうひとつを尋ねた。 「師匠は死なないの?」 「さぁな。あいにく死にかけたことも死んだことも俺はない」  黙りこくったテオバルドに、なんでもないふうに説明を続ける。過剰に心配を覚えさせたいわけではなかったからだ。 「だが、切れば血は出るし、相応の痛みも覚える。治りが異様に早いということもない。いつかは必ず死ぬだろう」  そのいつかが常人と同じなのか、はたまたそうでないのかが、師匠のルカをもってしても答えを出すことができなかったというだけだ。  王立魔法学院の最終学年だった十八才の冬。イーサン・ノアは魔力を失い、アシュレイ・アトウッドは、不老となった。揺るぎのない事実は、そのふたつきりである。  テオバルドが十五となり、王立魔法学院に入るまで、あと半年。  最後まで正しく、あの小さな背を押してやらなければならない。もう何年も心に決めていることを、アシュレイはおのれに繰り返した。  次の日の朝、目を覚ましたテオバルドは、師の帰還を無邪気に喜び、遠征の疲れを労わりつつも、魔獣討伐の話を聞きたがった。  差し障りのない範囲で答えつつ、留守のあいだの話にも耳を傾ける。こちらがなにを言わずとも家の管理は完璧で、与えた課題も難なくこなしたようだった。  ──たいしたものだな、本当に。  この年までに教えるつもりだったことを、テオバルドはすべて正しく理解している。  夜になり、改めて課題の確認を終えたアシュレイは、紙の束を居間のテーブルに戻した。そばで座って待っていたテオバルドに視線を合わせ、静かにほほえむ。 「おまえは優秀だ、テオバルド」  夜色の髪を撫でられたテオバルドが、素直にうれしそうな顔を見せる。それがかわいくて、アシュレイは思わず呟いた。 「師匠が見たら驚くことだろうな」  素直とは程遠かった自分に、おそらく一番、手を焼いていた人だ。 「詳しくお聞きしたことはありませんでしたが、師匠の師匠という方は、いったいどういった方なのですか」 「あぁ。たしかに、あまり話していなかったな」  隠していたわけではなかったが、結果としてそうなっていたらしい。良い機会とアシュレイは話を始めた。知っていて、損はないことだ。 「ムンフォート大陸には五大魔法使いがいるだろう」 「はい。師匠もそのおひとりですよね」 「そうだ。そうして、このフレグラントル王国にはもうひとり五大魔法使いがいるわけだが」 「もちろん、存じております。緑の大魔法使いさまですよね。高名な方ですから」 「それだ」  師匠をそれ呼ばわりしたアシュレイにか、大物の名前にか、テオバルドが目をぱちくりとさせる。  自分と同じ緑の瞳を有しているにもかかわらず、大陸中の人間から「緑の大魔法使いさま」と慕われる、善良な大魔法使い。この大陸一番の大物である。 「つまり、おまえにとっての大師匠だな」 「まったく知りませんでした……」  理解が追いついた様子で、しみじみとテオバルドは頷いた。 「ですが、よくわかりました。だから、師匠はなんでもご存じなのですね。もちろん、師匠の努力あってこそのこととは思いますが。俺も、師匠と、師匠のご師匠に恥じないよう、いっそう努力します」  素直な誓いに、アシュレイも頷いた。こういったところが、本当に愛らしい弟子だと思う。 「それで、師匠のご師匠はどこにおられるのですか? 俺はお姿を見たことはありませんが、師匠は会っていらっしゃるのですか」 「さぁ、どこだかな。元気にやっておられることは間違いないと思うが、俺も何年も顔は見ていない」  おざなりに流したアシュレイに、テオバルドが問い重ねる。いたく真摯な声だった。 「寂しくはないのですか?」  かつて、「夜は怖くないのか」と大魔法使い(自分)に尋ねたときと似た問い方に、そっと笑う。 「ないさ。おまえがいるからな。寂しく思う暇もない」  事実だった。だが、その日々に終わりが来ることも、また事実なのだ。子どもは、あっというまに大きくなっていく。イーサンが言っていたとおりだ。  テオバルドが夜を怖いと泣くことは、もうないのであろう。自分がその寝息を聞くことも、ぬくもりに触れることも、もう、きっと。  けれど、それを寂しいと感じることは、正しいことではない。 「テオ」  おいで、と唯一の弟子を呼ぶ。アシュレイの弟子は、生涯テオバルドだけだ。  素直に椅子を立ったテオバルドが、すぐそばに近づいてくる。幼さの残る輪郭に、アシュレイは指を()わせた。 「おまえは世界そのものだな」 「……え?」 「夜色の髪と、星の瞳。おまけに──太陽の匂いもする」  テオバルドの髪に鼻先を埋め、くすくすとした笑みをこぼす。柔らかで、か弱く、いくら魔法の才があろうとも、すぐに死んでしまいそうだった、小さな子ども。 「たしかに、おまえは神の贈り物だ」  子どもを愛おしいと思ったことは、はじめてだった。いな、育ての親であるルカと、はじめて愛した男であったイーサン以外に、こんなにもあふれそうな感情を抱いたこと自体が。  師匠のルカ、学院で出逢ったイーサン、そうして、テオバルド。人生の節目で愛しい人間に出逢うことのできた自分は、間違いなく幸福だ。  同じだけの、それ以上の幸福を、このかわいい子どもに与えてやりたい。アシュレイはいつしか心から願うようになっていた。  おまえの中では、もうテオバルドのほうが大きいんだな。そのイーサンの言葉で、改めて思い知った。自分が一番かわいく思う存在は、この弟子なのだ、と。 「俺のすべてをかけて祝おう。おまえのこれからに、限りない幸福があらんことを」  その代わり、おまえに降りかかる不幸のすべては、俺が貰い受けよう。後半は胸のうちでのみ呟いて、額に丁寧な口づけを落とす。大切だった。この子どもが。今や、アシュレイの世界のすべてだ。  だから、手離す覚悟はできていたのだ。かつて、イーサンに対してそうしたことと同じように。  テオバルド。賢く優秀なおまえには、直に俺は要らなくなる。 「テオバルド」  輝く星の瞳を誰よりも近い距離で見つめ、アシュレイは静かに告げた。 「十五になったら、王立魔法学院に行け。これは命令だ」 「……でも、そうしたら、師匠は」  ひとりになりませんか、とおずおずとした調子でテオバルドが言う。イーサンは甘やかしすぎだと笑っていたが、それだけではない。  心根の優しい弟子は、父と母と頻繁に会うことができなくなる寂しさと同等に、ひとりになる変わり者の師を案じているのだ。まったくもってできた弟子だと、アシュレイは笑った。 「弟子(おまえ)大魔法使い()を案ずる資格があるのか?」 「ですが」 「俺もそうした」  事実であった。森の外にも世界はあると師が諭したとおり、アシュレイはイーサンに出逢った。  あの日々は、間違いなく幸福だった。だから、と淡々と続ける。 「おまえもそうしろ」  そうして、もっと大切なものを見つけたらいい。かつて、アシュレイがそうであったように。  暗い森に引き籠もり続ける日々は、かわいく賢いおまえには似合わない。揺れる金の瞳を見つめ、アシュレイはそっとほほえんだ。  テオバルド。おまえの幸福を、いつまでも願っている。

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