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9.彼という人のこと
深緑のローブのフードを深く被る、森の大魔法使い。彼の素顔が十五、六の少年だということを知る人は、きっとほとんどいないのだろう。
──やっばり、きれいだなぁ。
もう何年も近くで見ているというのに、アシュレイの瞳を見るたび、テオバルドは同じことを思ってしまう。
本物の宝石のように、きらきらときらめく緑の瞳。その瞳がほほえむ瞬間が、たまらなく好きだった。じっと見つめる自分の視線に気づいて、「どうした、テオバルド」と問いかけてくれる優しい声も、ぜんぶ。自分だけの特別だと知っていた。
町の人たちが恐れる森の大魔法使いという人は、とても愛情の深い人だ。
愛情深く、弟子を高みに導こうとしてくれる人。その愛に応えたくて、テオバルドは努力を重ねてきたつもりだ。
──だから、ずっと、師匠に教わりたかったんだけどな。
はぁ、と溜息を吐いたテオバルドに、店じまいを終えて近づいてきたイーサンは、苦笑いで正面の椅子を引いた。
「なんだ、どうした。学院の入学を報告しに来たって顔じゃねぇなぁ」
アシュレイに言われて来たんだろうという指摘に、それはそうだけど、と呟く。母は早々に二階の自室に引き上げていて、店に残っているのは父と自分だけだった。
「そんなに学院に入ることが気に食わないのか? 入りたいと思って入れるところじゃないんだぜ」
「わかってるよ」
不貞腐 れた声で応じて、冷めたお茶に手を伸ばす。
そう、わかっているのだ。学院に入学し魔法の技法を高めることが、この国に生まれた高い魔力を持つ者の義務だということは。
「じゃあ、なんだ。師匠と離れることが、そんなに嫌なのか?」
違うともそうだとも言えず黙り込んだテオバルドに、イーサンは軽く肩を揺らした。
「しかたのないやつだな、おまえも」
「……だって」
しかたないじゃないか、とテオバルドは思う。七つのときから、あの森でずっとふたりで暮らしてきたのだ。
案ずる資格はないと言われてしまったけれど、そんなの無理だ。できるわけがない。
「朝はいつも俺が起こすし、ごはんだって俺がつくるんだよ。それで、夜も遅くなりすぎないように、ちゃんと言うんだ」
「へぇ」
「だって、そうしないと、本当にいつまでも起きていようとするんだよ。ごはんだってひとりだとろくに食べないし。ひとりになったら絶対……」
「あのなぁ、テオ」
苦笑いとしか言いようのない調子で、イーサンは遮った。
「あいつの見た目はああだが、俺と同じだけの時間を生きている男だぞ。ひとりだろうが問題なくやっていくさ」
「それはそうかもしれない、けど」
そんなことは言われなくてもわかっている。ただ。
自分がどうしようもなく寂しいのだと吐露する代わりに、テオバルドは呟いた。
「でも、見た目だけなら、俺、そろそろ師匠に並びそうだよ」
テオバルドの身長は、この七年でうんと伸びた。まだアシュレイには追いつかないけれど、町に下りてくるたびに「大きくなったなぁ」と声をかけられる。
けれど、アシュレイはなにも変わらない。どこもかしこも、はじめて出逢ったころのままだ。
少しの間を置いて、まぁ、なぁ、と妙にしみじみとイーサンが呟き返した。
「あいつの童顔は昔からだからな。年より幼く見られ続けてる」
「いや、待ってよ、父さん。あれはただの童顔じゃないでしょ」
呆れた声を出したテオバルドに、イーサンが小さく笑う。
「だから、あれは十八だ」
「え?」
さらりと告げられた言葉に、テオバルドは瞠目した。意味がわからなかったからだ。
「あいつは、十八の冬で成長が止まってるんだよ。なんでそうなったかは知らんが、そうなってるんだ」
十八の冬で、成長が止まっている。沈黙したテオバルドに、イーサンは静かに繰り返した。ふたりきりの店に、ぽつりとした声が響く。
「そういうことだ」
その言い方は、世界の摂理を語るときのアシュレイの口調と不思議なほどよく似ていて。だから、テオバルドはそうなのだと知った。
「テオバルド?」
どうした、というふうに魔法書を繰っていたアシュレイに問われ、テオバルドは慌てて首を横に振った。居間で魔法書を読むのはテオバルドたちの夜の日課で、今夜も本を開いていたのだが、ちらちらと窺っていたのかもしれない。
「なんでもありません、師匠。家に帰らせていただいてありがとうございました。おかげで、父と母にゆっくり報告することができました」
「そうか」
ひさしぶりに実家に泊まった翌日、テオバルドは早々に森へ戻っていた。ゆっくりしてくればいいものを、とアシュレイは苦笑いだったが、いつもの日々に戻りたかったのだ。
納得した様子で頷いたアシュレイが、ぺらりとページを繰る。変わらない、静かな横顔。その横顔から、テオバルドはそっと視線を外した。
見た目の年齢は並んでしまいそうだと言ったし、「あいつは見た目と同じところで、中身の成長も止まっている」という父の冗談に笑ったこともある。けれど、テオバルドの目に映るアシュレイは、本当はどこまでも大人だった。
だから、自分の誤魔化しを受け止めてくれるし、幼い世話焼きを受け入れてくれる。
──師匠が年を取らないことは、わかってた。
アシュレイが勧めてくれた本の紙面を見つめたまま、内心でひとりごちる。近くで見ていれば、わかることだ。もっと幼かったころは、不死ではないかと疑ったこともある。
──切れば血は出るし、相応の痛みも覚える。治りが異様に早いということもない。いつかは必ず死ぬだろう。
その言葉を聞いたとき、疑念が晴れて、自分はひどくほっとした。
不死の人間など存在しないとわかっていても、師匠はとても優れた大魔法使いだったから。もしかしたらと案じてしまっていたのだ。だって、不死なんて寂しいじゃないか。
そうやって安心したせいか、「不死ではなく不老なのかもしれない」という疑いについて、テオバルドはそれ以上を考えることはしなかった。
不死と比べればたいした問題ではないと思ったし、アシュレイが困ることはないと安易に判断したからだ。そのはずだったのに、今になって気になり始めている。
父から聞いた話が原因であることは明白で、テオバルドは悶々と溜息を呑み込んだ。しっかり読みたかった本なのに、まったく内容が頭に入ってこない。
眉間に皺を寄せていると、ふっとアシュレイが笑う気配がした。
「だから、なんだ。何度も言っているが、黙っていても俺にはわからん。イーサンにでも、なにか言われたか?」
「あ、いえ」
からかう調子に、再度首を横に振って、顔を上げる。
「そういうわけではないのです、が」
しどろもどろの態度に、魔法書に視線を落としたままのアシュレイが、かすかな笑みを浮かべた。ランプが照らし出す彼の表情は、どこまでも柔らかい。
「あ……、その」
目を離せずにいたことに気がついて、テオバルドはぎこちなく視線を動かした。
こんなふうに感じる瞬間が増えたのは、いつからだっただろう。わからないけれど、夜の食事が終わったあとにふたりで過ごす静かな時間が、テオバルドは好きだった。
でも、だからこそ、残りの日数を数えることが、どうしようもなく寂しい。
「学院に入ったら」
その寂しさを押し出すように、テオバルドは呟いた。先ほどまで考えていたこととは異なるものの、ずっと以前から考えていたこと。
「三年間、ここに帰ってくることはできないのですよね」
「まぁ、そう決まっているからな」
アシュレイの答えは、いかにも淡々としていた。
「師匠にも会えないのですよね」
「なんだ、寂しいのか」
そう決まっているからとアシュレイは繰り返さなかった。本から顔を上げ、じっとテオバルドを見つめる。
「七つのときにも、親元を離れてここに来ただろう。それと同じだ。……いや、同じではないな。幼子が父と母と別れる寂しさと比べたら、取るに足らない寂しさだ」
「……」
「それに、小さいころも、寂しいとはほとんど言わなかったろう」
紡がれた宥 める言葉に、テオバルドは曖昧 に眉を下げた。だって、あなたがいた。でも、今度はあなたがいない。寂しくないわけがない。
アシュレイが近くにいない日々を想像するだけで、テオバルドの心はいつもきゅっと切なくなる。それなのに、この人は、本当になにも思わないのだろうか。
「テオバルド。──テオ」
アシュレイの声音が柔らかさを帯びる。大魔法使いの師匠としてではなく、親代わりのアシュレイとしての声。手元に落としていた視線を持ち上げると、緑の瞳が細められた。
「いつでも向こうから手紙を出せばいい。イーサンもエレノアも喜んで返事を出すさ」
「……師匠は?」
「ん?」
「師匠に出してもいいですか」
真剣なまなざしで尋ねたテオバルドに、アシュレイはわずかに驚いた顔をした。けれど、すぐにふわりとほほえむ。
「しかたのないやつだな」
テオバルドを受け止めてくれる、優しい声。
「いつでも送ってくればいい。俺はここでおまえの便りを待っている」
「絶対ですよ!」
うれしくて、テオバルドの声が大きくなる。
「絶対、待っていてくださいね」
「魔法使いを志す者が、絶対などという不確かな言葉を使うな」
いつもの調子で窘 めたアシュレイが、だが、そうだな、と静かに呟いた。ゆるく頭を振った動作に合わせ、金色の髪が揺れる。それが彼の頬に白い影を落とした。
魔法の深淵 に触れると、人でなくなることがあるのだという。魔力に頼りすぎることはするな、と。テオバルドは何度もアシュレイから教わった。
この人は偉大な大魔法使いだ。だから、深淵に触れたのだろうか。十八の冬で時が止まっているというのは、きっと本当だ。
だって、アシュレイからは、いつも強い魔の香りがする。
「おまえに誓って、必ずここで待っていよう」
「じゃあ」
その顔を見つめたまま、テオバルドは宣言した。
「じゃあ、俺も、師匠に誓います。三年間しっかり学んで、少しでも師匠に追いつけるようがんばります。だから、ここにいて、待っていて」
誓うという言葉を使ったのは、たぶん、このときがはじめてだった。この国のほとんどの人がそうであるように、テオバルドは神を信じている。
けれど、目の前の彼に、自分のすべてをかけて誓いたいと思ったのだ。師匠がよくそう言うことと同じように。
「三年は長いけど、がんばります。だから」
「……長い、か」
「え?」
「いや、そうだな。励めよ、テオバルド。そうすれば必ず立派な魔法使いになることができる」
励ましの言葉を逃すまいと、テオバルドは聞き入った。この家で過ごすことができる時間は残り少ない。だから、すべてを覚えていきたかった。
「なにせ、おまえは俺のただひとりの弟子だからな。大魔法使い のすべてを注いだ唯一だ」
だから、と甘い声が密やかに響く。
「なにも恐れることはない」
親代わりであって、アシュレイは親ではない。だが、アシュレイは、師匠から弟子へというには過大すぎるほどの愛を、いつも注いでくれた。
自分が、彼の唯一の親友の息子だからだろうか。
「はい」
わからない。けれど、アシュレイが一心に愛を注いでくれていることは事実だ。大好きな緑の瞳を見つめ、テオバルドは頷いた。
「大好きです、師匠」
「俺もだよ、かわいいテオ」
おまえを世界で一番愛している、と囁いた、祈りのような彼の声は、テオバルドの胸の一番深いところに落ちてきた。
夏が来たら、テオバルドは全寮制の王立魔法学院に入る。この人のもとに弟子入りをした七つの春に魔法使いとしての一歩を踏み出したのだとすれば、これが二歩目となるのであろう。
三年後、立派な魔法使いとなって戻ってくることができるよう、精いっぱいがんばろう。おのれと師匠に、改めて誓う。
アシュレイのもとに弟子入りをして八度目になる、春の夜のことだった。
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