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Epilogue
「噂とは恐ろしいものです」
遠く異国の職人に作らせた白磁のポットに湯を注ぎ、リュシアンは主の目前へカップを二客並べた。ふくよかな茶の香りが部屋いっぱいに漂い、部屋の暖かさを嗅ぎつけた小鳥がどこからともなく集まって窓の外に身を寄せ合う。軽やかな囀りに耳を傾けながらテオドールは口の端をにやりと歪めて目を閉じた。
「思いのほか早く広まったな。昨夜、マダム・ロザリーのサロンに顔を出したのは正解だった。沈痛な面持ちで顔を伏せ、ちょっとマダムの耳元に囁けば一晩でこの有様だ。このぶんだと陛下のお耳にも今日あたり噂が届くだろう。明日の朝には王宮から遣いが来るから準備をしておけ、リュシアン」
すべて想定どおりに運んだことがよほど愉快なのか鼻歌でも口ずさみそうな主を尻目に、リュシアンは黙々と客人を迎える準備を進めている。茶請けに焼きたてのクッキー、ボウルに色とりどりのパットドゥフリュイ。その他、甘いマドレーヌ、その他種々様々な甘い菓子が所狭しと並べられていた。
「それにしても」
最後に花瓶の花の向きを調整して、
「もう少し言い様はなかったのですか。世間では噂に尾ひれがついて、旦那様のお人柄さえ疑われるような流言蜚語 が飛び交っておりますよ」
従者は細い眉を顰めた。しかし、当のテオドールは我存ぜぬとばかりにひらひらと手を振るだけだ。
「どうとでも好きに言わせておけ。私はただ『どうやら子ができぬ身らしいのです』、と一言呟いただけだ」
「ですが」
「間違ってはいない。事実、お前が私の子を身籠もらないんだからな」
「…………わたくしはなんと答えれば?」
「しかし、昨日の父上とあの女のやり取りは見物だった」
小皿のクッキーをひとつ摘まんで、
「子供を見た瞬間のマダムの顔を見たか? 3年も孤児院へ放置しておきながら、母親というものは自分の子供の顔の見分けくらいはつくらしい」
テオドールは、ふん、と鼻をひとつ鳴らした。
テオドールとリュシアン、伯爵と、そしてマダム・ソフィー。四人の大人が集う部屋に心底怯えた様子で現れたわずか6歳の少年。汚れた外套の襟に波打つ金髪を煌めかせた少年は、テオドールに似た唇を震わせながら自らをマダム・ソフィーの子であると名乗った。
その日のうちに、彼は6年前マダムが密かに産み、その後町外れの孤児院へと送られた子であると孤児院を預かるシスターの証言によって証明された。
「院の方へ定期的に金を渡していたようですし、お子様が憎くて手放したわけではないのでしょう」
「あの子供がいれば己に不都合が生じると考えたのはたしかだ」
「それはそうでしょうね」
伯爵家の流れを汲まぬ子など争いの種にしかならない。常々マリユスはそう言い、テオドールこそが正当な後継であると宣言してきた。そこには遡れば王家との姻戚関係にもある伯爵家を担う重責と、亡き妻への深い愛情があったことはテオドールも知っている。
「しかし私に子が作れないとなれば話は別だ。ただでさえ実子相続の枷を嵌められたクレールだ。いよいよ自分の息子の代で終わりかと絶望したときに、もうひとり跡を継ぐ可能性のある者が現れたなら、藁をも掴む思いで飛び付くだろう」
子を成すことはできない。我が子からそう告げられ失意の底にいたマリユスは、突如明らかになったもうひとりの息子の存在を大いに喜んだ。テオドールとの婚姻を歔欷 と歓喜によって華々しく飾る予定であったマダムは、部屋に入ってきた息子を見るなり顔を白黒させ、マリユスの手をとって辿々しい口調で言った。
『お役に立ててなによりですわ、愛しいあなた』
「ふ。んん、失礼」
白い顔いっぱいに冷や汗を刷いた顔を思い出したまらず噴き出すリュシアンと、菓子をまたひとつ摘まむテオドール。その姿を扉の隙間からそっと窺う小さな影がある。
隙間の向こうをちらりと見やり、
「まあ、これでいつまでも妻を娶らない息子に頭を悩ましていた父上もようやく胸を撫で下ろしたことだろうし、約束どおりマダムの子の後見としてせいぜいあと数十年働くとしよう。無事家督を譲った後はどこぞの教会にでも籍を置いて、誰に邪魔されることなく悠々自適な田舎暮らしだ。おい、そこの子供。入れ」
テオドールが声をかけると扉の影が、びく、と跳ねた。恐る恐る顔を出したのはテオドールの腹違いの弟ルネである。小さな手で必死に扉へ縋りつき、空色の瞳を溢れんばかりに見開いて、広い部屋の隅々まで観察するようにじっとこちらを見つめている。
「ルネ様、ようこそいらっしゃいました。さあこちらへ。甘いものはお好きですか? お菓子をたくさんご用意いたしましたよ」
リュシアンに促され、ルネはそろそろと部屋へ足を踏み入れる。テーブルいっぱいの菓子に目をとめると空色の瞳が見開かれ、きらきらと輝いた。甘い菓子など満足に口にすることはなかったのだろう。リュシアンはルネをテオドールの向かいに座らせ、絞ったばかりのオレンジジュースを彼のグラスに注いだ。
「昨夜はよく眠れたか」
兄の問いにルネは力いっぱい頷く。
「そうか。ようやく父上と母上と共に暮らせると思っただろうが、残念だった。父上は病に冒されている。いますぐどうというわけではないが、息子としては父上には静かな場所で心穏やかに暮らしていただきたい。そして、お前の母上にはその手助けをと思っている。わかるか」
小さな唇がきゅっと結ばれる。目の端に滲んだ涙を思わず拭いそうになったのは、ルネの横顔にかつてのテオドールの面影を見たからだろうか。ハンカチを取り出し一歩踏み出しそうになるのをテオドールの視線が横から咎めた。リュシアンは足を止めた。
「お前はいずれ私に代わってこの家を継ぐ。少々寂しい思いはするだろうが、心を強く持て。父母にはいつでも会わせてやるし、ここには兄がいる。わからないことは訊け。学びたいことがあれば遠慮せずにやれ。友人もたくさんつくるといい。ただし」
腰を抱かれ、引き寄せられた。
「これには指一本触れるな。これは私の私物であって将来お前の手に渡ることはけっしてな、」
「あっ」
白いクロスが見る間に紅く染まっていくのを、ルネが驚きの目で見ている。シミはテオドールの袖口から伝って、その源は白磁のポットから流れ出ていた。ポットを手にしているのはリュシアンである。
「ああ、申し訳ございません旦那様」
何食わぬ顔でポットを下げ、見るも無惨な主のレースの袖飾りをハンカチで拭った。
「お怪我はございませんか。すぐに冷やすものをご用意いたします」
「かまうな。どうやら茶も見事に肌を避けてくれているようだしな」
「それを聞いて安心いたしました。しかし、一度お具合を確かめませんと」
失礼いたします――汚れたレースを捲り上げ、現れた肌に指を這わす。
「赤くはなっていないようですね」
「だから大丈夫だと……」
「熱を見てみましょう」
腰を屈めたリュシアンの唇が主の肌に押し当てられ、湿った肌を拭うように滑った。テオドールの腕が跳ねたのを上目遣いに見ると、伸ばした舌先が手の筋に沿って指先まで辿り、小さな水音を残して離れた。
「火傷などはないようですが、お顔が少し赤いようです」
「あの、あの、だいじょうぶですか。し……おにいさま」
遠慮がちに身を乗り出すルネにリュシアンはにっこりと微笑みを返した。
「ルネ様はお優しい方ですね。お兄様はこの真冬にローブ一枚で外を出歩くようなお方ですから、普段からお風邪を召しやすいのですよ」
「ええっ。さむいのにどうして」
「さあ、どうしてでしょう」
「もういい。茶会は中止だ」
すくと立ち上がったテオドールをふたつの視線が見上げた。
「ルネ、私はこの者と少し話がある。明日は陛下にご挨拶に伺うから、いまから教育係にみっちりと作法を仕込んでもらえ」
ベルを鳴らすとルネに付けた教育係が現れる。兄の心配しているのか、ルネはちらちらとこちらの様子を窺いつつ席を立った。
「ルネ様はまだ邸へ来られたばかりです。少々お厳しいのでは」
「誰のせいだ。いいからさっさとルネに菓子を包め」
取り付く島もない主に苦笑しつつも、リュシアンは黙ってルネに菓子を持たせ、見送った。残ったのは眉間に皺を寄せなにか堪えるように口を真一文字に結んだ主と、その主を大人げなく煽ってしまったことを実は微塵も後悔していない従者だ。
「お召し物はいかがなさいますか、旦那様」
「必要ない。どちらが子供の教育に悪いか……お前が自覚するまでその身にたっぷり叩き込んでやる」
Fin
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