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 不眠恐慌。人類単位での不眠症――今では『インソムニック』と呼ばれる一連の現象は、突然人類を襲った。  しかし、ただでさえ現代人はストレスやブルーライトのせいで不眠気味だったし、眠りの正確なデータを横断的に集めている機関も存在していなかった。だから、それが単なる傾向ではなく病理なのだと理解されるのに時間を要した。  ――なんか最近あんま寝れないんだよね。  そんな書き込みがSNSに頻繁に投稿されて同意の『いいね』を集めていたが、それが人類の一大事だと即座に理解できる人間はいなかった。そうして、気がつけば人類は皆眠れなくなっていた。  もちろん、『眠れない=寝なくていい』ではない。人類の体は睡眠なしで生き抜けるような設計になっていない。眠れないことで疲労が残る。注意力も集中力も低下し、生産性が落ちる。眠れないことによる焦燥に囚われ、精神にも影響が生じる。恐慌というのは文字通りそういう意味だ。  そして、人類はまだこの事態に対する処方箋を見つけられていない。  これまで多くの病を乗り越えてきたように、人類はいずれこの不眠も克服するのかもしれなかった。しかし、その見通しはまだ暗かった――この不眠現象の原因さえいまだにはっきりとは掴めていないのだから。原因だけがわからず、応急処置のように睡眠薬が人々に処方されていく。  それでも人々の多くは、いつかきっとあの『眠れる』世界にふっと戻るだろう、そう楽観的に信じていた。  ヒヤマは思う。彼らは知らないのだ。夜が恐ろしく長いことを、彼らはまだ知らない。  マジックミラーの向こう、検査室のベッドに横になる青年を見た。それからバインダーのカルテに目を落とす。そこには彼のプロフィールが書かれている。  コウダトモキ、二十四歳。  計測モニタに目を移す。既にグラフは彼が睡眠状態にあることを示している。彼はベッドに横になって十分足らずで入眠した。  モニタに描かれているグラフは綺麗な波形で、乱れている様子は全くない。  ヒヤマは確信していた。経過観察なんて必要ない。彼は間違いなく可眠者だ。  ――可眠者。  彼のような、入眠剤などに頼ることなく睡眠状態に入ることができる人間を、今では『可眠者』と呼んでいた。もうそれは人類の十パーセントにも満たない、希少な存在だ。  ヒヤマは先ほどの会話を思い出す。 「仕事を探していて。できれば、建設現場とか。ライセンスが必要だと言われたので」  彼の話振りは簡潔で澱みなかった。  建設業務などの肉体労働。今、そういった仕事に就けるのは可眠者だけだ。寝ぼけた不眠者たちは、多くの悲惨な事故を起こしてきた。そして規制が入った。同時に、そういった仕事の給料は跳ね上がった。  おそらく彼は金が必要なのだろうとヒヤマは思った。金が必要で、健康な肉体があってそれを行使する。非常に理に適った行動だ。  しかし。  ヒヤマは改めてグラフを確認する。  ――これは。このグラフは。  その推移はあまりに乱れがなく安定して、静まり返って穏やかだ。  美しいとさえ言えるグラフだった。  ヒヤマは長い睡眠研究において、これほどのグラフを見たことがなかった。  珍しく自分が浮き足立っているのを感じた。しかしそれも仕方ない。  求めていた理想のグラフを、素晴らしい研究対象を目の前にしているのだから。  彼は、この世界の現状に対する何かの答えを持っているかもしれない。そう無根拠に思えるほどに、彼の眠りは素晴らしかった。  彼の睡眠はその後、夜を通して非常に安定したグラフを記録し続けた。  朝、コウダが目を覚ました。ヒヤマはそれを確認すると検査室へと入った。 「おはようございます」  コウダは相変わらず表情の乏しい顔でヒヤマを見つめている。まだ覚醒しきっていないのだろう。ヒヤマは構わず話し続けた。 「起き抜けにすみません。ぜひ、研究に協力してくださいませんか」  コウダはまだ少し眠気を引きずっている。対照的に、ヒヤマは非常に興奮していた。絶対に彼を逃したくなかった。彼には何かがあると、研究者としての勘が言っていた。 「あなたの眠りはとても貴重です。ぜひ、ご協力を」  コウダが眠っている間に、ヒヤマは根回しを済ませていた。研究の協力者としての仮登録を勝手に済ませ、上司にしかるべき手段で許可を取った。あとはコウダ本人の承諾だけだった。  コウダはぼんやりとヒヤマを見つめている。表情が読めない。意思があるのか、それともないのか。  しかし、それは実際ヒヤマにとって問題ではなかった。ヒヤマはそのための切り札を持っていた。 「謝礼も出すことができます。かなり良い額です」  その間にコウダはすっかり目が覚めたようだった。ベッドに横向きに座って、眠気の完全に追い払うように顔を一瞬歪めたあと、 「いいですよ、俺でよければ。協力します」  コードのついた腕で首元を掻いて言う。 「ありがとうございます!」  ヒヤマは思わず手を差し出した。コウダはその意図をわかりかねていたが――やがて自分も手を差し出し、二人は手を握り合った。

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