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「おはようございます」  ヒヤマは覚醒したコウダに声をかけた。時刻は朝の七時。コウダは朝を確認するように、壁の上部に開いた横長の窓から注ぐ日の光を見つめている。 「おはよう、ございます」  若干寝ぼけているらしい。彼が痒そうに目尻をかき、ヒヤマはそこを伝った涙のことを思い出した。どんな夢を見ましたか、と尋ねようと思い――実際それはそうするべきだったのだが――彼はなんとなくそれができなかった。夢の記憶というのは非常に朧で、あっという間に霧散してしまう。尋ねるなら今が一番良いタイミングのはずだった。しかし、できなかった。  そんなことをしているうちに彼はほとんど乱れていない身なりを整え、ベッドから起き上がった。 「計測器外しますね」  ヒヤマが言うとコウダは腕を差し出した。その腕や胸に張り付いた計測器を外していく。  検査のための薄緑色の服、先ほどまで計測器が貼られていた胸には筋肉のかたちが浮かんでいる。若さと十分な睡眠で健康的に保たれた肌。  生命力に満ちた肉体。  ヒヤマはその体を見て思う。自分がこうだったことはあっただろうか。ヒヤマは二十歳の頃からうまく眠ることができなくなった。もちろん当時はまだ睡眠恐慌なんて気配さえなかった。ヒヤマは、この世界がこうなる前から不眠だったのだ。  だから彼が医学者として睡眠を研究テーマに選んだのは必然だったのかもしれない。  ヒヤマはすっかり彼から計測器を外し終えた。 「お疲れ様でした」  そう言って封筒を取り出した。 「こちら、今日の分の謝礼です」  コウダはじっとそれを見つめ―― 「寝ているだけでお金をもらえるなんて、なんだか申し訳ないですね」  そう言った。  珍しくコウダがしっかりと話したことに、少しの驚きを覚えつつ、 「あなたのように眠れる人間はとても貴重ですよ」  そうヒヤマは言う。 「貴重なものは、価値がありますから。これは自然なことです」 「みんな俺を羨ましがります」 「え?」 「眠れていいね、って」 「ああ――」 「俺、それを聞くとすごく居心地悪くて。本当は、これだって……」  そう言って少し封筒を握る力を強めたコウダにヒヤマは言う。 「メジャーリーグの日本人選手がホームランを打って、悔しいと思う人は少ないですよ」  唐突な話の展開にコウダが視線をあげて、ヒヤマを見た。 「その選手の活躍を見て、自分がそこにいたかもしれないとは思わないでしょう。心から悔しいのは、きっと現役の野球選手くらいじゃないですか。高校球児だって、きっと本気で妬んだりはしないはずです。でもそれが眠りだと、――どうにもみんな、判断がつかないんでしょう。世界はもう不眠状態で、それがどれだけ貴重なものだかわかっていない。みんな、この前まで普通に眠れていたからです。だけどそれは、もうずっと遠くにある」  何かを羨ましいと思うのは、それが手に入る可能性がわずかなりともあったときだけだ。  それがどんなに欲しくても、絶対に手に入らないと本当に理解していれば、もう羨むことはない。  なぜならそれは、自分の人生には関係がないからだ。  コウダはあまり飲み込めていない顔だった。それでも言った。 「……ありがとう、ございます」  ヒヤマが次の言葉を探していると、コウダは立ち上がり、 「シャワー、浴びてきます」  そう言ってその部屋をあとにした。入れ替わりで入ってきたカンザキが、首だけ振り返り彼を見送ったあと、 「ったく、あんな寝顔、見せられる方の身にもなって欲しいよな」  顔を両手で揉みながら言った。無論、カンザキも不眠者だ。とはいえ、ヒヤマほどの重症ではない。彼も先ほどまで休憩室で眠っていたのだろう――とはいえ、仮眠程度のものだろうが。カンザキは骨格が立派で体が大きく、健康的な見た目だったが、やはり目元に疲れが見えていた。 「ダイエット中に大食い動画見るようなもんだ」 「彼は重要な研究対象だ」  カンザキの軽口を受け流して、ヒヤマは計測に使った機械を片付けながら言う。 「今、あれだけ良質な睡眠をとることのできる人間は1パーセントもいない。彼の睡眠からとれるデータは非常に貴重だ」 「まあ、確かに」  カンザキも同意する。 「何が違うのかね、俺らと、あいつと」  もう一度、カンザキは扉の方に視線をやった。その目は重たくどんよりとしている。 「それを解明するのが僕たちの仕事だろう」 「ごもっとも」 「それに、重要なデータが取れるかもしれない」 「――?」  ヒヤマの発言にカンザキが顔をあげる。 「彼の完璧な睡眠が乱れる日が来たら」  ヒヤマは窓を見上げた。もう、すっかり朝だ。今日も彼は眠ることができなかった。  それでも、朝はやってくる。 「それを捉えることができたら――その原因を探ることができれば」  今日も太陽は眩しかった。いつだって太陽は眩しいものだ。 「そこに人類の不眠の原因を見つけられるかもしれない」  ヒヤマは目を細めてそれを見つめている。  はっ、とカンザキは笑った。 「お前、いい性格してるよ」

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