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エピローグ

 夜、二人のベッドで、コウダはヒヤマを抱きしめた。言葉は少なかったが、彼がつらい思いをしていることは伝わってきた。  ヒヤマにできることは少なかった。コウダの手を握り、夜通し繋いだ。眠れないときは、二人でいろいろ話をした。 「ごめんね、俺が寝れないから」  コウダはよくそう謝った。ヒヤマは「大丈夫、僕も眠れないから」と言う。それを言うと、コウダは複雑な表情をする。口は笑っているのに、眉が困ったような顔だ。  ある夜、『夢』という言葉の話になった。  夜に見る夢と、将来の夢とが同じ単語なのはどうしてなのだろうという話だ。 「そういえば、俺、夢があるんだ」  コウダが言った。 「このベッドで」  ベッドのシーツを撫でる。 「ヒヤマさんと二人で昼までぐっすり眠りたい」  そういう日が来ると良いなあ。  そう言ったコウダを見て、ヒヤマはその未来に自分がいることを嬉しく思った。  自分が眠れる日は来ないだろうと思っていた。来なくて良いと思っていた。だけれど、コウダが望んでいるなら、それを叶えてあげたい。  窓の外の景色が白み始める、鳥の鳴く声がガラス越しに小さく聞こえる、外はまだ寒いだろう、窓の結露が、一滴まとまって下へと垂れた。  朝がやってくる。  握っているコウダの手はあたたかい。コウダも同じように窓を見ているようで、頭の後ろをヒヤマに向けていた。うなじの生え際、黒い髪が綺麗に生え始めるグラデーションを見つめる。  今日も、二人とも眠れなかった。 「……朝ですね」  後頭部のコウダが言う。ヒヤマの手を握る力を、きゅっと強めて。 「そうだね」  コウダは起き上がった。左手で顔を押さえ、 「今日から仕事なのに。大丈夫かなあ」  不安そうだ。 「全然寝れてない」 「大丈夫だって」  ヒヤマも起き上がる。ぽんぽんと握った手を太ももにあてた。 「みんな眠れてないんだから」  コウダが振り返ってヒヤマを見た。その目元の沈んだ感じも、もう見慣れた。  頑張って、と言うとコウダは頷いた。  今日からコウダはスポーツジムで働くことになっている。これまで不眠保険でしばらく休養していたが、自分で仕事を見つけてきた。 「まあ、初めてだし不安だろうけど、大丈夫。みんなきっと優しいよ」 「だといいけど」 「仕事までまだ少しあるし、もうちょっとだけゆっくりしよう」 「そうする」  二人でもう一度布団にくるまって、つないだ手を離して抱き合った。  意識が戻ると、コウダはベッドにいなくて、部屋には朝食のにおい。 「おはよう」  リビングに行くと、コウダが皿を準備しながら言う。  おはよう、と返事をしながら、寝れた? と訊こうと思って、結局ヒヤマは聞かなかった。多分、眠れていないだろう。  ご飯を食べ、身支度をして、前日に準備していた必要な書類を鞄に入れたコウダと玄関でキスをした。 「いってらっしゃい。頑張ってね」 「いってきます」  コウダにはヒヤマの開発した『促涙薬』の効果がほとんど見られなかった。  涙が流れなかった。  直接聞いたわけではなかったが、きっとコウダはそれ以外でも泣いていないのだろうと思った。あの日から、コウダは泣くのをやめたのだ。  ヒヤマはコウダに眠って欲しかった。  もしかするとそれは、泣いて欲しかったのかもしれない。  ――俺にとって眠りっていうのは  ――母に会いに行くみたいなものなんですよ  彼の抜群に安定した睡眠。失われてしまったもの。  コウダを見送ったヒヤマは、自分も着替えて家を出た。  電車に乗る。車内の風景は、さほど変わっていない。それでも、以前よりも少し和らいだ空気に感じる。人々の目には、以前よりも活気がある。  それが『促涙薬』のおかげだとはヒヤマは思わない。  人類はしぶとく元気だと言うことだ。人々は、不眠の世界を脱しつつある。それは薬や医療の力だけではない、人間自身の力だ。  不眠を飼い慣らし始めている。  目的地に着いて、ヒヤマは電車を降りた。あの日見た大きな建物。エレベーターに乗って、上の階へ。 「ただいま」  コウダが帰宅した。 「おかえり。どうだった」 「うん、大丈夫そう」  コウダの顔には安心が浮かんでいる。 「ごめんね、ご飯食べてきちゃった」  そう連絡を受けていたので、何も問題はない。 「ヒヤマさんは、休みだったよね。何してたの」 「ああ、うん。ちょっと、出かけてた」 「どこに?」 「――それで、見てほしいんだ、ちょっと」  ヒヤマは直接答えず、カバンから大きな封筒を二つ取り出す。コウダは訝しみながら、それを見た。 「今日、病院に行ったんだ。トモキのお母さんが入院していた病院」  コウダは小さく息を吸い込む。 「なんで……」 「見てほしい、これを」  ヒヤマはまず、そこから三枚紙を取り出した。机の上に並べる。 「うちの研究所にあった、トモキの睡眠データ」  眠れた頃の、とは言わなかった。  それでも、コウダには伝わっただろう。  コウダはその美しいグラフに視線を落とした。何を思っているだろう。やっぱり、悔しいと思うんだろうか。 「そして、これが」  ヒヤマはもう一つの封筒から紙を取り出し、その隣に並べる。  それは、あの病院に無理を言って譲ってもらったデータだった。  ずっと眠っていた、あの人のデータ。  隣に並んだその二つのデータ、それを見たコウダの目に涙が浮かんで、そして雫になって溢れ出した。 「そっくりだ」  ぽつりとコウダは言う。ヒヤマは頷いた。  その二つのデータは、鏡写しのように似通っていた。グラフの大きさ、周期、そしてその美しさ。  コウダは静かに鼻をすすって、ただひたすらに涙を流している。  何か言葉を言おうかと思って、何も言うべきではないと思ってヒヤマは黙った。  きっと、十分伝わっただろう。           *  そして夜が来た。  二人は今日も語り合って、まだ眠りは訪れそうにない。  それでも、優しい夜がそこにある。

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