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エピローグ

 子どもの世界は大人が思うほど単純じゃない。  大学の部活を通して知り合った人の道場で柔道の指導を始めて、小学生のクラスを受け持つようになって、俺はそれを痛感した。子どもは、しっかりと見極めている。相手の本質を。その目は鋭くて、大人みたいに濁ったカバーがかかっていない分残酷だ。 「だってあいつ弱いんだもん」  健太は晋を指さして言った。 「あいつ、強くなる気ないよ」  健太はこのクラスで一番経験年数が長い。入ってきて日も経たない晋が弱く見えるのは当然だった。しかも晋は割に体の成長が早く、なんとなく強そうに見えるというギャップもあるだろう。そして何より、晋は相手に立ち向かうことを恐れている。  俺は道場の端で縮こまっている晋のところへ行った。 「大丈夫か」  泣きそうな顔で視線を少し落としている。瀬戸際だという気がした。もう少し押されたら折れて教室を辞めるだろう。辞めるというのも、それは立派な選択だ。ちゃんと選ぶならそれでもいいと俺は思っている。だけれど、適当に逃げるのは違う。 「晋」  俺はしゃがみこんで晋と視線を合わせた。晋は俺の首あたりをじっと見つめている。 「僕、弱い?」  晋が俺に聞いた。俺は少し悩んで、 「まだ、今は強くはないかな」  意味が通じると願って言った。 「まだ?」 「うん。まだ」 「これから強くなれる?」 「もちろん」  その代わり、子どもは未来を見ることに抵抗がない。 「僕、強くなってもいいですか?」  晋は俺をちゃんと見ていた。まっすぐ見ている。 「もちろん、晋、強くなっていいんだよ」  俺もちゃんと晋を見る。 「だけどな晋、そんなことは誰にも聞かなくていい。誰かがダメだって言っても、無視していい。お前は強くなっていいんだよ」 「ありがとう、ございます」 「お礼を言う必要もないよ」 「は、い」 「さ、練習戻ろうか」  はい、としっかり返事をして、晋は練習に戻っていった。健太くん、練習付き合って、なんて言いながら。  仕事が終わって家に帰る。世界はまだ帰っていなかった。カレンダーを見ると、『インタビュー/野村さん』と書いてある。なるほど。  俺は晩ご飯を作って世界の帰宅を待った。少し遅くなりそうだと判断し、先に食べてあいつの分にラップをかける。九時を回った頃、三ツ谷は帰宅した。 「遅くなっちゃった」 「また野村さん?」 「そう」  野村さんは、三ツ谷の担当編集者だ。たまたまだが俺たちと同い年で、まだ若く仕事に燃えている。彼女は、三ツ谷の作品に惚れ込んで自ら担当を志願したらしい。その熱意からか彼女との打ち合わせは長引く傾向にあった。 「三ツ谷さんの誤解を解きたいんです」  彼女はたまたま会った俺に言った。 「あれは、誤解ですよ」  少なくとも、正しくはない。  そういう風に言ってくれる編集者に出会えた世界は幸せものだと思う。まあ、打ち合わせが長すぎるのは考えものだが。  彼女はそのために、積極的に世界のインタビューをセッティングしてくれている。それは作家として駆け出しの世界にとって、単純に良い宣伝機会になる。  そういえば、とジャケットをハンガーにかけながら世界は言う。 「今日インタビューしてくれた人、誉のこと知ってたよ」 「え?」 「木原さんだったかな」  ああ、あいつか。そういえば、どこかのウェブメディアの記者になったと言っていた。 「よろしく伝えてくれって」  そういえば最近あいつにも連絡をとっていなかった。あいつの書く記事はよく話題になるから、動向はなんとなく追っていたけれど。それもあって、かえって連絡を怠っていた。確か、少し前にβの彼氏ができたと言っていた。最近は順調だろうか。あとでちゃんと連絡しよう。 「明日は佐藤くんとご飯だっけ」 「そう。楓ちゃんも来るってさ」  佐藤は楓ちゃんと一年前に結婚して、相変わらず仲が良い。 「あのレストラン久しぶりだなあ」  世界が言う。『アルコバレーノ』はまだちゃんとやっているらしい。楓ちゃんから二人の馴れ初めの店に行ってみたいとのリクエストがあったのだ。馴れ初めて。 「このあとは原稿?」 「うん」 「無理すんなよ。ちゃんと休んでな」 「わかってる」  世界は新作――初の長編作品に取り組み始めていて、資料集めが終わり、ようやく執筆に取り掛かるところらしい。  そういえば、どういう小説なんだよと聞くと、 「僕の話」  世界はそう言った。 「僕のことを書くよ」  それは、面白そうだ。 「最初に読ませてくれよ」  いやだよ、と世界は言った。俺がショックを受けていると世界は笑った。 「だってもう、誉は全部知ってるもん」 (完)

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