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第30話

鼻歌を歌いながら帰ったのに家の扉を開けるとヒロとの思い出が蘇った。 玄関でヒロの脱いだ靴を揃えたこと、後ろから抱きしめられたこと、キスをされたこと。 その時の体温や声がまるで昨日のことみたいに思い出せた。 ヒロを忘れるにはこの家は思い出がありすぎる。 このままここにいたら昔に戻ってしまう。 俺はそんな自分を止めるためにシマさんからもらったマグカップをみた。 暗い室内でそのマグカップだけがやけに青白くはっきり見える。 その光景が俺を責め立てた。 体中がシマさんに包まれているはずなのに長年俺に溜まった煙が体の内側から溢れ出そうだ。 この汚れを出すにはここにいたらいけない。 そう思って俺はシマさんに電話をかけた。 「もしもし。ミツル、どうしたの?」 深夜だからシマさんの声がよく通る。 ヒロより少し速く話すから女慣れしてないのがわかった。 シマさんのヒロを比べ続けている自分に嫌気がさす。 「なんか声聞きたくなって。」 嘘だ、俺が求めてるのはヒロだった。 それでもそんな気持ちを消すためにシマさんの声に縋り付く。 声が聞きたいなんてもっともらしい理由をあげて、恋人だって立場に甘えた。 そんな俺のことなんて知らないシマさんは優しく続ける。 「僕も話したかった。嬉しい。」 少し声が高くなった声が返ってくる。 その声だけが俺のまともでいられるための命綱だった。 側から見たら幸せそうなカップルの会話も俺には自分を騙すための手段にすぎない。 それでも、きっとシマさんを好きになれるはずだって頭の中で唱える。 嫌なことばかり考えないために会話を始めた。 「ふふ。今何してんの?」 俺がそう尋ねると布が擦れる音がした。 ビデオ通話が始まって毛布が映し出される。 「ベットにいるよ。こんな感じ。」 シマさんは一度寝るとなかなか起きないタイプなのに、俺からの電話で起きてくれたらしい。 申し訳ない気持ちが溢れてくる。 「ごめん。寝てたのに、、、、。」 俺がそう言うとシマさんが微笑んだのが電話越しにわかった。 「いいよ。ミツルと話してたら眠気無くなったから。」 こんなことヒロには言われたことがない。 ヒロは俺の隣にいてもすぐに寝てしまう。 自分が誰かに必要とされている事実に涙が滲む。 涙と一緒に鼻水が出てきそうだから鼻を啜った。 するとシマさんが心配そうに声をかけてくれる。 「どうしたの?ミツル?」 返事を急かすでもないこちらの話を聞いてくれようとする態度が心地よい。 そのやけに甘い空気感に俺は流されて会話を続けた。 「ううん。ちょっと寂しくなっただけ。」 俺がそう言うと息を吐く音がしてその後に沈黙が続く。 少し甘えすぎて引かれたかもしれないなんて思って不安になる。 「ミツル、大好き。」 長い沈黙の後にそう続けられて、俺は黙ってしまった。 その言葉が受け取られない痛みを俺は知っている。 それでも、まだヒロが心の中に居続けているのに簡単に俺もなんて言えない。 その行為はその場しのぎでシマさんを傷つけるから。 だから俺は「うん。」としか返せなかった。 そんな俺でもシマさんは包み込んでくれる。 心が弱っているからか狡い俺が顔をだす。 「家で1人でいるのが辛い。会いたい。」 もう終電もないから無理なのはわかってる。 それでもヒロとの思い出だらけのこの場所で1人でいたら、どうにかなってしまう。 だから誰かの体温を感じたい。 そんな方法でしか不安や寂しさを消せない自分は随分とヒロに毒されている。 汚れた俺が白くて綺麗なシマさんを汚す。 「ミツル、僕はずっとミツルといるよ。明日、家に迎えに行くから荷物まとめて。」 ずっとなんて他の人が言ったら薄ら笑いを浮かべてしまう言葉もシマさんが言うと重みを増す。 シマさんは俺をこの暗くて煙たい檻から救い出そうしてくれる。 蜘蛛の糸で垂らされた糸はすぐに切れてしまったけど、きっとこの糸は切れない。 シマさんなら俺をまともにしてくれる。 「わかった。ありがとう。」 俺はそう返事をして電話きった。 服や歯ブラシ、パジャマなんかの使いそうなものをカバンに詰める。 そしたら、思いの外少なくてこの部屋はヒロの私物で溢れてたことがわかった。 もう使わないであろうそれらをゴミ袋に放り込む。 物を一つ捨てるたびにどうでもいいことばかり思い出した。 最後に灰皿を手に取る。 碌な手入れもしなかったから灰が残っていて、白ぽっい。 燃やした骨みたいなそれごとゴミ袋に投げ入れた。 そして消臭剤を部屋に撒き散らして布団にくるまって朝が来るのを待つ。 翌朝、インターホンの音で動き出す。 シマさんの開けた玄関からは光が差し込み目に染みた。 俺は振り返ることもなく、暗い部屋の鍵をかけて、手を引かれていく。 少し力が強い繋ぎ方に手を握り返す。 俺は逃げるようにしてそこを後にした。

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