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第一章 第一話 禁欲
「あらぁ、宮野さん。ご結婚されてたのねぇ」
病院前の調剤薬局で長年働く年配女性が、目尻に細かな皺を浮かべた。視線の先は、七瀬の左手薬指。シルバーのリングが控えめな輝きを放つ。七瀬はさっと手元を隠した。
「いや、これは……そういうのではなく……」
「あらま、そうなの? ごめんねぇ、おばちゃんたらてっきり。これだから年を取るってや~ねぇ、何でも決めてかかりたくなって」
自虐めいた物言いをしつつ、女性は柔和に笑った。
無理はしなくていいと言ったのに、瞬介にどうしてもとねだられて、ペアリングを購入した。結婚など望むべくもない二人にとって、これは紛うことなき結婚指輪だが、世間一般に想定される“結婚”とは異なる形の関係であるため、公言するのは憚られる。やはり、結婚適齢期の男の薬指が予約済みになっているのは目につくだろうか。七瀬はそっと指輪を外して、ポケットに仕舞った。
二人暮らしのマンションへ帰る。同棲を始めて、三か月が過ぎようとしていた。あの運命の再会を果たした夜から数えれば、半年が経つ。十年会わないうちにお互い大人になってしまい、当たり前ではあるが全てがあの頃のままというわけにもいかず、初めのうちは多少苦労したものだが、今ではもうすっかり慣れた。大人になった瞬介との付き合い方も、二人での暮らしも。
新居には明かりが灯っている。誰かが待つ家に帰るというのは、子供の頃には分からなかったが、心に安らぎを与えてくれる。端的に言えば、良いものだ。
「おけぇり~。飯もうできるぜ」
「ん……」
二人で選んだ1LDK。広いリビングダイニング。キッチンに立つ男の背中が急に愛おしく思え、七瀬はそっと体を預けた。
「んだよ~。甘えんぼか?」
「そんなんじゃねぇ」
「ふふーん、わかってるぜ? 否定するってことは、そーいうことなんだよなぁ?」
「あ? ホントにちがっ……」
コンロの火を止めたかと思えば、軽々抱き上げられた。キッチンからリビングへと運ばれ、ソファに寝かされる。圧し掛かってくる瞬介を押し退けようとして伸ばした手を、簡単に絡め取られる。
「や?」
「や、やじゃ、ねぇけど……め、飯は? もうできるんだろ」
「んなの、後でいーじゃん。ちょっとだけだから。おねがい」
「っ、ばか……」
こういう時の瞬介はずるい。子犬のようないじらしさで迫っておきながら、結局は、狼のような荒々しさで七瀬を翻弄する。
ようやっと事が済む頃には、空腹も疲労も吹っ飛ぶほどの倦怠感で、七瀬はソファにぐったり横たわる。だというのに、あれだけ暴れたはずの瞬介はいまだピンピンしており、ソファの背もたれに引っ掛けていたエプロンを裸の上から着け直して、揚々とキッチンへ戻っていくのだ。
逆の場合でも同じ。料理は当番制で、早く帰れる日は七瀬が食事を用意する。そんな日は、瞬介は帰宅するなり、キッチンに立つ七瀬に飛び付いてきて、抱きしめて、身も心もあっという間に蕩かしていく。
「おい、っ……」
「ん~?」
「危ねぇ、火が……」
そう訴えれば、背後から手が伸びてきて、コンロの火を止める。
「包丁、も……」
そう言うと、まな板ごと奥へと押しやられる。空いたスペースに両手をつかされ、腰を抱かれて、後はもう、なし崩しだ。
「やめ、っン……汚したくねぇ……」
「汚さねぇようにするから。だめ?」
「っ、んん……」
ダメ、なのに。キッチンでなんて、本当はダメなのに。分かっているのに。体が勝手に悦んでいる。乱暴にねじ込まれたはずのそれを受け入れて悦んでいる。
「やッ、ん……ナカ、で……っ」
「わーってるよ。ちゃんと中で出すから」
「じゃ、なくて、ッ、んん゛……」
下手に外で出そうとして、あちこち汚されるのが嫌だっただけだ。決して、中に欲しかったわけじゃない、のに。
換気扇の回る音がやけにうるさい。味噌汁の香ばしいにおい。炊きたてのご飯の匂い。けれど、周りのことなど、もう気にしていられない。後ろから激しく突き上げられて、天板に掴まっているのが精一杯。
熱いものが、エプロンの裾を押し上げている。濡れた布地と擦れ合って、絶妙な刺激が全身を駆け巡る。
「はッ、あ゛……ッッ」
がりッ、と首筋に歯を立てられる。同時に、胎内に熱い感覚が広がった。ガクガクと腰が震えて立っていられず、瞬介に支えてもらいながらも、七瀬はその場にへたり込んだ。
「……もっかい、いい?」
俯いて息を切らす七瀬の耳元で、瞬介は平然と、そんな恐ろしいことを呟く。嫌だと言おうと思うのに、力の入らない体をいとも容易く抱き上げられて、ソファへと運ばれる。
「うは。エプロンびしょびしょ」
「だれのせい……」
「俺のせいな? 後でちゃんと手洗いしとくから」
脱がされた下着が、床の隅で心細げに丸まっている。瞬介が、きっちりと結んでいたネクタイを緩めながら迫ってくる。押し退けるつもりで伸ばした手は、甘えるように瞬介の首筋に絡み付く。
「どうせ、すんなら……さっさとしろ」
「りょーかい」
リビングでなんて、本当はダメなのに。ソファだって、汚したくはないのに。まだ新品同然なのに、何度カバーを洗ったか知れない。だけど、いくら頭で分かっていたって、抗えないのだ。惜しみなく与えられる快楽にも、降り注ぐキスの嵐にも。
「……もう、なし崩しでセックスはしねぇ」
ある日、とうとう我慢がならなくなって、七瀬は告げた。瞬介は、きょとんと目を丸くする。
「……どーいうこと?」
「そのまんまの意味だ。セックスは一日一回、寝る前にベッドでだけ。これが条件だ」
「えー……」
瞬介は、不満そうに唇を尖らせる。
「おれの身にもなれ。毎日二回も三回も、体が持たねぇ。十代の頃ならまだしも、お互いもう若くねぇんだ」
「けど、今日だってさぁ……」
今日も、既に一度、キッチンで交わっている。いつも通り、七瀬はソファで一眠りし、その間に、瞬介が食事の支度を終わらせてくれた。それ自体はありがたいことではあるが、それ以上に、腹立たしい。性欲に振り回されている。
「おれだけ疲れて、てめぇだけピンピンしてんのが気に食わねぇんだよ」
「そりゃー、お前の体力のなさが問題だろ? 俺のせいじゃねぇもん」
「あ゛?」
「うっ、に、睨むなって。わーったよ。これからは、夜寝る前に一回だけな? お前がイヤっつーんなら、俺だってちゃんと我慢するよ……」
不満がないわけではなさそうだったが、一応は双方の合意を得、若干の禁欲生活が始まった。
何も、全ての触れ合いを禁じるというわけではない。必要以上には触らないというだけ。例えば、遅く帰って、キッチンに立つ後ろ姿を愛おしいと思っても、むやみに抱きついたりはせず、隣に並んで肩を触れさせるに留めるとか。触れて、欲しくなるのが一番厄介だ。
「なぁ~、キスくらいならいい? だめ?」
早速、瞬介が纏わり付いてくる。物欲しげに唇を尖らせて、甘えるように顔を覗き込んでくる。が、無視だ、無視。こんな誘惑は、断ち切らねば。
「な~ぁ、聞いてる? キス、だめ? してぇんだけど」
無視だ、無視。
「七瀬。ナ~ナ」
無視……
「ねぇってば」
「……キスだけだぞ」
「マジでか! 言ってみるもんだな」
「舌いれんなよ」
「おっけーおっけー。フレンチキスな」
心底嬉しそうに笑うや否や、そっと唇が重なった。やわやわと弄ぶように唇を食まれる。吸い付く弾力と、蕩ける温もりとを味わう。ほろ苦い煙草のにおいが染み付いている。もっと深く知りたいと、思わず舌を伸ばす寸前、宣言通り、唇はそっと離れていった。
「へへ…」
瞬介は照れたように笑い、「さ~て飯メシ」と、準備万端の食卓に着いた。七瀬は、瞬介からは見えないよう俯いて、温もりの消えた己の唇を指先で撫でた。
物足りないなんて思っていない。これが普通の生活だ。ヤりたい盛りの高校生ならいざ知らず、体力も性欲も持て余す時期はとうに過ぎている。お互いに、もっと落ち着いてもいい年齢のはずだ。はずだが……
「な゛、おい……もっ、さっさと……」
「んー、もうちょいな」
「ッ、は……はやく、いれっ……」
そうだ。物足りないなんて、これっぽっちも思わない。半端な禁欲が仇になったのか、一日一度のまぐわいに全ての欲をぶつけるかのように、しつこいほどの丁寧さで抱かれるようになってしまった。
前戯だけで気をやることもしばしばだ。そうして十二分に蕩かした七瀬の体を、瞬介はまた丁寧に、しつこいほどの丁寧さで暴いていく。たっぷりと時間をかけて抱かれ、瞬介がようやく射精するまでの間に、七瀬だけが二度も三度もイかされる。「一回しかできないなら全力でやりてぇ」というのが瞬介の主張だが、如何せん限度というものがある。
「しばらく、セックスは週一にする」
「なっ……」
七瀬のこの宣言には、瞬介も唖然とする他ない。さすがに想定外だったのだろう。珍しく狼狽えた。
「なっ、ち、ちなみに、なんで……?」
「前にも言ったろ。体力が持たねぇ」
「でっ、でも、一日一回……」
「その一回が問題なんだ。お前、昨日何時に寝たか知ってるか」
「知らねぇ……」
「二時半だぞ。おまけに腰は痛てぇし、ここんとこずっと寝不足だ。分かってんのか」
「……ハイ……」
しょんぼりと縮こまる姿がかわいい、などと思ってしまうが、ここで絆されてはいけない。七瀬は心を鬼にする。生活が懸かっているのだ。
「何も、“するな”とは言ってねぇ。ただな、毎晩毎晩あの密度で抱かれてみろ。生活が立ち行かなくなんだろ。てめぇは、もう少し我慢ってやつを覚えた方がいい。週一でやるにしても、翌日に響くようなのはナシだ。それでよけりゃあ……」
事前に考えておいた台詞を並べる七瀬の言葉を、瞬介が遮った。
「だったらさ、ガチの禁欲、してみるか」
「ガチの?」
「そ。週一とかぬるいこと言ってねぇで、マジでしばらくエッチなし。俺とお前で我慢比べってこと。どーよ?」
「……」
十年前なら、二つ返事で了承していた。元々短気で、負けず嫌いな性格でもあったし、それ以上に、自分という人間は、思いのほか浅薄で軽率なのだ。大人になって、ようやく分かってきた。
押し黙ったままの七瀬に焦れたのか、瞬介が口を開く。
「んだよ。自信ねぇの? 先に音ェ上げるかもって」
「自信がねぇのはてめぇの方だろ」
「ふーん、言ってくれんじゃん」
「いいぜ、つまらねぇケンカに乗ってやる。期限はいつだ」
「期限?」
「決めておかねぇと、いつまでも決着がつかねぇだろ」
「あー、そういうことね。んじゃあ、そうだな。夏に、里帰りするだろ。その時にさ……」
夏の終わりの花火を見る。その時までと、期限を定めた。他にも色々とルールを決める。期限の日までは、まだ一か月近く残っているが、果たして耐えられるだろうか。
滅多に会えなかった遠距離時代はともかくとして、いざ一緒に暮らし始め、毎日顔を合わせるようになれば、そういった欲望は自然と落ち着いていくものと考えていた。それが大人の恋愛なのだろうと、朧気ながら想像していた。けれど。
落ち着くどころか、ますます激しく燃え広がっている気がする。まるで十年前に戻ったかのよう。もしくはそれ以上だ。瞬介は、隙あらば求めてくる。七瀬も、求められれば応えてしまう。あのキスの甘さが悪いのだ。どうにも病みつきになってしまう。
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