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第二話 攻防

 触るな、盛るな、我慢を覚えろと、七瀬も酷なことを言う。それができれば、医者も警察もいらないのだ。  この衝動は、そう簡単に抑え込めるものではない。何しろ十年、いや、二十年も燻らせ続けた初恋が、ようやく実ったのだ。今となっては、一つ屋根の下で暮らし、揃いの指輪まで買ってしまう浮かれぶり。我慢しろなどと言う方が無理な話だ。  とはいえ、我慢比べを言い出したのは瞬介である。なぜあんなことを言ってしまったのか。よくない癖だ。何でも勝負に持ち込みたくなる。もはやDNAに刻み込まれていると言っても過言ではない。  ああいう言い方をすれば、七瀬は絶対に乗ってくると分かっていた。離れていた月日は長くとも、それ以上の時間を一緒に過ごしてきたのだ。あいつのことなら、ほとんど何でも知っている。負けず嫌いで意地っ張り。特に瞬介相手だと、その傾向は強くなる。  自分から勝負に持ち込んだ手前、先に白旗を振ることはできない。それはさすがにダサすぎる。所謂、完全敗北というやつだ。七瀬の勝ち誇った腹立たしい笑顔が、今から目に浮かぶようだ。いっそのこと、七瀬が先に音を上げて、泣いて縋ってきてくれれば、心置きなく抱きしめることができるのに。   「今夜の映画は? 何やるんだ」    そう言いながら、七瀬は瞬介の隣へ腰を下ろした。ソファが沈み、僅かに軋む。   「なんか、ミュージカルらしい」 「ふぅん」    あまり興味なさげに言い、七瀬は瞬介の方へ距離を詰めた。思わず、瞬介が脇へずれてスペースを空けると、その空いた隙間を埋めるように、七瀬はさらに距離を詰めてくる。もう一つおまけに、瞬介の膝の上へ、覆い被さるように体を倒す。七瀬の鼻先が、股間の辺りへ触れる位置だ。  これはもう、そういうことか? そういうことと受け取っていいんだよな? などと身勝手な論理を展開した瞬介が、衝動に突き動かされるままに、ばっと両手を広げて抱きつくと、なんとあっさり逃げられてしまった。広げた腕は、虚しく空気を掻いただけであった。  瞬介の両腕からするりと逃れた七瀬の手には、テレビのリモコンが握られていた。電源ボタンを押せば、テレビ画面が明るくなる。番組表をチェックし、チャンネルを変える。ぱっぱっと、映像が次々切り変わる。  なんだ、ただリモコンを取りたかっただけか。瞬介は内心肩を落とす。あくまでも、内心だ。がっかりしていることが七瀬に知られては、これまでの我慢が水の泡。あくまでも、七瀬から求められて初めて、仕方なく手を出す。この筋書きでなければ、こちらの負けだ。何としてでも、七瀬が音を上げるまで待たなくては。それまでの辛抱だ。   「ああ、この映画」    七瀬が独り言のように言った。番組は既に始まっている。タイトルが表示されて、七瀬はこちらへ視線を流した。   「映画館で見た。大学生の時」 「ふ、ふーん。誰と? 友達?」 「まぁ、そんな感じだな。映画好きで気が合ったんで、結構……」    誰と?なんて聞かなきゃよかった。好奇心に殺されるとはこのことだ。七瀬の大学時代など、瞬介にはあずかり知らないことである──もちろん、逆も然りだが。映画好きというその友達を──男か女かも知らないけれど──想像の中で火にくべた。   「お前が映画好きだったとか、初めて知ったんですけどー」 「そりゃ、よく行くようになったのは、大学入ってからだからな。キャンパスの近くに映画館があったんで、行きやすかったってのもある」 「んじゃあ、今度映画館デートでもすっか」    子供じみた嫉妬心を気取られたくなくて、わざとらしい言い方になってしまった。七瀬は、気づいているのかいないのか、テレビの画面を見つめている。若い男女の出会いのシーンらしい。何やら、歌って踊っている。   「映画なら、何回か行ってるだろ。今更そんな気合入れんな」 「ま、まぁ? デートで映画は、定番の流れだし」    というよりも、他に何をすればいいのか、よく分からなかったのだ。昼間から酒を飲んで飯を食って……というのは、夏にビアガーデンにでも行くのならまだいいが、そうでないのなら、あまり格好がつかない。そうなると、夜まで手持ち無沙汰なのだ。何かしらイベントがあればいいが──イルミネーションだとか、花見だとか──それもないとなると、他にできることと言ってぱっと思いつくのが、映画鑑賞しかないのである。   「それにお前、そんなに映画好きじゃねぇだろ」 「いや、映画そのものに好き嫌いとかなくね? 当たり外れはあるかもだけど」 「だって、最後まで見てられたことほとんどねぇだろ。大体いつも寝落ちしてる」 「そ、そんなことは……あるかも? いやだってさ、ちょうどいい暗さなんだよ。静かなシーンが続くと、ついこう、ウトウトっとね」 「別に責めてるわけじゃねぇよ、言い訳みてぇなことすんな。ただまぁ、安くない金払ってんのに途中で寝ちまうんじゃ、もったいねぇからな」 「んでもさぁ……」    二人でするのなら、何だっていいのだ。まずい飯でも、つまらない映画でも。七瀬が行きたい場所ならば、どこへだってついていきたい。  映画の中の二人もそう言っている。いや、歌っている。夢を追いながら、貧乏アパートでつましい暮らし。それでも、二人でいれば宮殿にも劣らない。一切れのパンがステーキに、水道水がボルドーのワインに──それはさすがに言い過ぎだろう、と瞬介は内心ツッコミを入れる。   「ミュージカルってのは、実はあんま好みじゃねぇんだ」 「そうなんだ?」 「いちいち歌ったり踊ったりするんで、ストーリーに集中できねぇ」 「それは確かに分かるかも。てか、なんで歌うわけ?」 「感情の発露、らしい」 「どういう意味だよ」 「気持ちが昂ると、自然と歌い出すらしい。と、例の友達が言ってたな」 「そいつはミュージカル好きだったの」 「そうらしいな」 「お前は? 好みじゃねぇのに、なんで見に行ったんだよ」 「食わず嫌いはよくねぇだろ」    文句をつけながら、テレビは消さない。なぜかといえば、金曜の夜は決まって映画を見るからだ。たまに、土曜の夜にも地上波で映画が放送しており、時間が合えば見るようにしている。要するに、単なる習慣だ。他に目ぼしい番組もなく、二人でまったり過ごすのにはちょうどいい。   「もし、見たい映画があるってんなら、付き合ってやってもいいぜ」 「そ、そう? っつっても、特にねぇんだけど」 「んだよ、それ」 「いやほら、良さげなのあるな~と思っても、気づくと劇場公開終わってて、すぐテレビでやったりするじゃん? そんなんでいいんだよ、俺は」 「……まぁ、確かに。お前と家でこうしてる時間は、悪くねぇからな」    とん、と肩に温もりが触れる。七瀬が頭をもたれてきたのだ。不意の接触に心臓が跳ねる。我ながらチョロすぎである。  これは、なんだ。甘えてきている? それとも、眠くなっただけだろうか。そんな、いきなりすぎるだろう。たった今まで、普通に喋っていたのに。  目だけを動かして七瀬を見た。少し眠たげではあったが、その双眸は開かれており、目まぐるしく移り変わるテレビの画面を映している。伏せがちの睫毛に、光が反射して色を変える。  やっぱり、甘えてきている? 寝落ちしたわけじゃないのなら、くっつきたくてこうしているのか。ということは、つまり、そういうことか? そういうことと解釈していいんだよな?  どこかデジャヴを感じる論理展開。しかし、リモコンは七瀬の手元にあり、そのためにこうして身を預けてきているとも思えない。となれば……いやしかし、罠かもしれない。こちらへもたれかかってくる七瀬の肩を抱こうか抱くまいか、瞬介の手は虚空を彷徨う。  テレビ画面へ向けられていた七瀬の視線が、滑るようにこちらへ流れた。ばっちりと視線が絡む。そっと、指先に温もり。手を握られている。七瀬の唇が甘く綻ぶ。和らいだ眦は、確かに瞬介を誘っている。  これはもう、そういうことだ。そういうことと解釈していいはずだ。あちらから誘ってきたのだ。文句は言わせない。  そもそも、禁欲だ何だと、馬鹿らしいのだ。恋人に触れたいと思うのは当たり前の話。十年二十年我慢してきて、やっと手に入れたのだ。形振りなんて構っていられない。ええい、もう、なるようになれ……!  瞬介は七瀬を抱き寄せる。顎に手を添え、こちらを向かせる。視線はばっちり絡んだまま。七瀬が目を閉じ、そっと唇を差し出してくる。瞬介は息を呑み、ゆっくりと顔を近づける。互いの吐息が触れ、もうあと一回瞬くうちに、唇が重なる。その時だった。  ガッシャン!と、ガラスの割れる音が響く。どこから響いたのかといえば、テレビの中だ。仲睦まじく同棲生活を謳歌していたはずの若い男女が、何やら揉め事を起こしていた。女がキーキー泣き叫び、男も大声で怒鳴っている。  映画の中で何が起きているのか、もうさっぱり分からなくなっていたが、派手な物音に気を取られた。逸れた意識を七瀬に戻すと、画面の中の女優ほどではないが、不機嫌そうにむくれていた。瞬介はぱっと手を離す。   「あー、いや、これはほら、か、肩に綿埃が~……なんつって」 「……はーぁ」    七瀬はつまらなそうに溜め息をつき、ソファに深く沈み込んだ。   「もう少しだったのに」 「あっ……え?」 「惜しかった」    七瀬の呟きと、その不満げな表情から、点と点が線で繋がった。   「なっ、てめっ、やっぱ罠張ってやがったな?!」 「っせぇな、てめぇが勝手に引っかかっただけだろ」 「や、やっぱ罠じゃん! 俺に先に手ェ出させて、この勝負を終わらせようって魂胆だろ!? 後になって上から目線で高笑いするつもりだろ! ずっりぃぞ!」 「あーあ、てめぇのアホ面が拝めなくって、残念だったなァ」 「残念だなァじゃねぇんだよ! クソっ、結構本気にしたぜ!?」 「別に、してぇならすりゃあいいだろ。キスくらい」 「き…っ、だって、そんなんしたらさぁ、止まれなくなんだろっ……!」    情けない声で告げた瞬介を見て、七瀬はにんまりと笑う。まるで、既に勝ち誇ったような表情だ。   「そんなにおれが欲しいかよ」 「べっつに。ぜーんぜん? これっぽっちも! 俺ァまだまだヨユーだし」 「はッ、そりゃ寂しいなァ」 「ま、まぁ、仮に? もしもお前が、俺ンこと欲しくてたまんねーってんなら、お前の態度次第じゃあ、考えてやってもいいけどな?」 「生憎、禁欲は続行中だ」    七瀬は呆れたように立ち上がる。ぺち、と戯れに頬を撫でられた。   「どこ行くの」 「萎えた。風呂」 「えー……」    映画はまだ続いている。いつの間にか喧嘩は終わって仲直り──いや、これは別の相手だろうか? 俳優の顔の見分けがつかない。ともかく、若い二人が熱く抱擁を交わし、口づけを交わし──親と見ていたら気まずくなるレベルの濃厚なキスシーンが描かれ、ベッドシーンへと切り替わる。  あーあ、全く。画面の中の美男美女が羨ましい。露骨な性描写こそないものの、やることやって、爽やかな朝を迎えて、全く、腹が立つほど羨ましい。こちとら、両思いのはずの相手にフラれたばかりだぞ。いや、そもそもの発端は、瞬介が原因ではあるのだが。  バスルームからシャワーの音が響いてくる。陶器のような肌、絹のような髪、滴り落ちる水滴。そんなものをつい思い描いてしまい、瞬介はぶんぶんと首を振った。けれども、そう簡単には邪念を振り払えない。  七瀬は今、どんな気分でシャワーを浴びているのか。欲望を燻らせて悶々としているのは、瞬介だけなのだろうか。案外、一人で慰めたりなんかしているのだろうか。分からない。風呂場を覗くこともできない。  キスはセーフ、ハグもセーフ。オナニーも、相手に見せなければセーフ。初日にそうルールを定めた。しかし、ハグならまだしも、キスなんかしてしまったら、止まれる自信が瞬介にはなかった。だから、キスをしてしまったが最後、その瞬間に瞬介の敗北が決定するのだ。  ただでさえ脆弱な理性。鋼鉄のごとく鍛え直して、暴走しかける本能にブレーキをかける日々は、まだまだ続きそうだ。

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