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第二話 失恋①

 水島瞬介は、特定の彼女を作らない。そんな噂を耳にしたのは、大学に入学してひと月を過ぎた頃だった。  彼は同じ学部の先輩で、アルバイト先の先輩でもあった。おそらくは貧乏くじを引かされたか何かで、柄にもなく新入生歓迎委員を務めていた彼と、多くの新入生は面識があった。森田千里も、その一人だった。  よくある話で、友人の一人が、彼を好きかもしれないと言う。入学したてで右も左も分からない十八歳の小娘にとって、履修の仕方から何から手取り足取り教えてくれる一つ上の先輩は、さぞ眩しく映ったことだろう。  そんな中で、また別の友人が、上記の噂を仕入れてきた。何でも、来る者は拒まず去る者は追わずで、女を見境なしにとっかえひっかえしているのだとか。確かに軽薄そうではあったが、それ以上に怠け癖が染み付いていそうな、死んだ魚の目をしたあんな男に、そこまでの甲斐性はなさそうに思えたが。  それでも、恋は盲目とはよく言ったもので、友人は彼に夢中だった。「選択科目のことで悩んでいた時、親身になって相談に乗ってくれたもん」は、もはや彼女の口癖となっていた。  実際、来る者は拒まず去る者は追わずというのは、彼のスタンスだったのかもしれない。彼女が何かにつけて彼を頼ろうとする時、彼は嫌な顔一つせずに付き合ってくれたらしい。らしいというのは、もちろん友人からの話しか聞いていないためである。  しかし、恋とは熱病のようなもの。落ちるのが一瞬なら、冷めるのもまた一瞬である。  彼と二人で飲みに行った帰り道。まさかそこまで進展していたことに千里は驚いたものだが、その話を聞かせてきた彼女は、珍しく浮かない顔をしていた。  飲みに誘ったのは彼女の方だった。「お酒飲み慣れてないから、付き添ってほしいです」などとかわいいおねだりをして誘ったらしい。慣れていないも何も、その時点では二人とも未成年だったはずだが、その点には目を瞑っておく。  「無理に飲めるようにならなくてもいいのに」「次の一杯で終わりな? 顔真っ赤だよ」などと、いちいち彼女のことを気遣ってくれる姿勢に、きゅんと来たらしい。飲み慣れていなかったのも本当で、彼がウーロン茶を注文してくれるのでさえ、嬉しかったと言っていた。  楽しいひと時を終えて、その帰り道。彼の愛車に乗せてもらい、下宿先まで送ってもらうことになった。身も蓋もないことを言えば、期待していた。愛の告白、甘いキス、それ以上のことまで。求められれば応えたし、彼女が望めば彼も応じてくれただろう。そんな雰囲気を感じたという。  しかし、家までもうあと僅かというところで、彼の電話が鳴った。相手は女性で、最終バスを逃したから迎えに来てほしいというものだった。当然のように、彼はその要請に応じた。嫌な顔一つせず、というわけではなく、相応に文句も言っていたが、その気安い雰囲気が、通話相手の彼女との関係性を裏付けるようで、むしろ羨ましく感じた。  彼は彼女を送り届け、その足で、もう一人の彼女を迎えに行った。「付き合ってるんですか?」と彼女がつい尋ねると、彼は不思議そうな顔をして、「別に?」と答えた。   「でも、こんな時間にわざわざ迎えに行ってあげるんですね」 「そりゃ、こんな時間に夜道歩かせるなんて、かわいそうでしょ」 「彼女でもないのに?」 「まぁ一応、専攻一緒で、俺も世話になってるから。後で飯でも奢ってもらえりゃ、それでいいし」 「……優しいんですね」 「普通だよ」    それ以上は引き止めず、彼女は彼を見送った。  「やっぱり、ただ女好きなだけなのかなぁ」と彼女は言う。真偽はどうあれ、噴き上がった恋心を冷ますのには十分な出来事だったのだろう。それ以降、彼女は彼を追いかけるのをやめ、そのうち話題にすることもなくなった。   「……実際、どうなんスかね」 「なにが?」    千里がアルバイトを始めたのは、友人がまだ彼にキャーキャー言っていた時分であった。たまたま選んだバイト先で、彼がたまたま先輩として働いていたのだった。   「先輩が、女とっかえひっかえしてるヤリチンのクズだって、噂で聞いたんで」 「なにその根も葉もない噂!? 全然ウソなんだけど」 「っスよね~。全然そんな気配ないし。むしろ対極って感じ」 「それは言い過ぎだろ。それなりにはモテてます~」    彼はきっと、誰にでも平等に優しい。それでいて、誰のこともその懐へ入れさせはしない。誰とでも一定の距離を保ち、線引きを守り、親切で、お人好しで。きっと、ただそれだけの男なのだ。世渡りはうまいくせに、変なところで不器用で、そのせいで、あんな噂が流れたりもする。   「水島くんね~。確かに、ああ見えて面倒見はいいわよね」    バイト先の、彼と同級の先輩に、それとなく話を聞いてみた。   「深夜に呼び出しても、コーヒー一杯で許してくれるし。シフトも代わってくれるし? 新歓委だって、他に誰もやりたがらないんで、仕方なく手を挙げたらしいけど、あれはあれで、仕事は全うしてたしね」 「ああ、あれはやっぱりそういう経緯で……」 「そうそう。でもまぁ、満更でもなかったんじゃない? 新入生と仲良くなるチャンスだもの。男子なら特にね」 「水島先輩って、特定の彼女とか作らないんスかね。今はフリーですよね?」 「やだ森田ちゃん、あいつ狙ってるの? やめといた方がいいわよ」 「いや、そういうんじゃないんスけど……」 「あのね、ここだけの話。あいつの元カノと知り合いだって子に聞いたんだけど」    一時期彼と付き合っていたという彼女が言うには、女として見られている気が全くしなかったそうだ。彼女の方から告白して、無事に付き合うことになり、一通りデートをして、手を繋いで、そういったことはしたらしいのだが、彼からの思いというか、情熱のようなものが、今一つ感じられなかったらしい。   「それにね~、これは完全に水島くんが悪いと思うけど、彼女と付き合ってる間も、他の女の子と会うのを断らなかったみたいなのね。かく言う私も、彼に彼女ができたなんて知らなかったから、普通にごはん行ったりしてたし。今思うと、悪いことしたわね」 「やっぱり、ただの女好きなんスかね?」 「いや~、どうかしらね。彼女の入れ替わりは、確かに一時期激しかったけど、ヤリ捨てされたみたいな話は聞かないし。なんていうかほら、八方美人みたいなとこあるでしょ、彼。告白されると、深く考えずに付き合っちゃって。けど、そのせいで長続きしなくてすぐ別れて、って感じね」 「なーんか、とことん不器用っスねぇ」 「ホントに。ね、これは私の勘なんだけど」    先輩は、内緒話のように、声をワントーン落として言った。   「水島くんって、過去に忘れられない相手でもいるんじゃない?」 「忘れられない相手?」 「そうそう。地元に恋人を残してきてるとか、高校時代の片思い引きずってるとか」 「そんなロマンチックなタイプっスかねぇ」 「いいじゃないのよ。想像だけならタダなんだから」    だが、この時の彼女の見立ては、案外間違っていなかったのかもしれない。   「センパァイ、またフラれたんスかぁ」 「そーですよ、またですよ。傷心中の先輩を労わる会じゃねぇの、コレ?」 「いや、そういうつもりは毛頭ねぇですね。あたしはいつだって奢られ待ちっス」 「はぁあ、とことんかわいくねぇ後輩だな」 「褒め言葉と受け取っておくっス」    いつかの冬の日だった。水島と二人、昼下がりのファミレスへ。窓の向こうは、鉛色の空が重く垂れ込めている。   「にしても、なんで毎回こうなるんスかね」 「さぁな。俺が聞きてぇよ」 「よっぽど、女心が分かってないんスかねぇ」 「んなつもりはねぇけどな」 「それか、先輩がよっぽどつまんねー男なのかも」 「つまんねぇか? 俺」 「あたしに聞いてどうすんスか。歴代の元カノに聞いてくださいよ」    真っ赤なイチゴがごろごろのった、花束みたいな巨大パフェに、細長い銀のスプーンを入れる。彼はこう見えて甘いもの好き。だが、こういったものを男一人で食べるのは、まだ恥ずかしいらしい。   「森田は? ドリンクバーだけでいいの」 「そのパフェ結構するんで。財布に余裕ないっス」 「あ? いや、自分の食った分くらい自分で払うぜ。後輩に奢らせるとかダサすぎだし」 「いや~、傷心中の先輩相手に、かわいそーかなと」 「一応気にしてくれてた感じ? 別にいいって。食いたいもんあんなら頼めば」 「……冗談っスよ。フツーにお腹減ってないんで、大丈夫っス」 「そうなの? 食いたくなったら遠慮しないで言えよ」 「遠慮なんか、あたしが先輩にしたことありましたっけ?」 「それもそっか」    相変わらず、覇気のない目。退屈と倦怠が染み付いて、毛髪までもやる気がない。それなのに、時折見せる憂いを帯びた表情や、小さな気遣い、ふとした優しさ。どこか人懐こく、親しみやすい雰囲気に、母性をくすぐられるのだろう。   「……変なこと聞いていいっスか」 「内容による」 「先輩って、童貞っスか」    千里が言えば、彼は盛大に咽せた。   「おまっ、なに? ホントになに? 変なことって、そういう?」 「嫌なら答えなくてもいいっスけど~。その場合、九十九割童貞ってことになりますけど」 「脅迫かよ」    彼は紙ナプキンを取り、クリームでベタついた口元を拭う。   「マジでお前、そういうのあんま人に聞くなよ? 変な誤解されんぞ」 「だから人を選んで聞いてるんじゃないスか。先輩って、彼女はほいほい作るけど、なんかこう、“ヤッたな”って感じが全然しないんスよね。色気がないっていうか」 「下品な言い方すんなよ……。つか何だよ、“ヤッたな”って」 「そのまんまの意味っスよ。ていうか、そこまで持ってけるほどの期間、付き合えてなくないっスか。いくら何でも、この短期間で股開くようなのはろくでもないし、この短期間で手ェ出して即捨てる男もろくでもないし」 「言いたい放題だな、オイ」 「だから、結論。先輩は童貞」 「決めつけんな」    彼は、結露に濡れたグラスを手に取り、一口飲んで喉を潤す。   「あのなぁ、俺にだって一応プライドってもんがあるから言うけど」 「ハイ」 「経験は、あります」 「フーン」 「信じてねぇな?」 「そりゃまぁ、信じるに足る証拠がないので」 「んなこと言ったってなぁ……」    霧のような雨が降り始めた。幾筋もの水滴が糸くずのように流れ落ち、冷えた窓ガラスを曇らせる。   「マジでダセェから、誰にも言わないでほしいんだけど」    悩みながらも、彼は重い口を開く。   「高校ン時、そういう感じになった相手がいてさ。んでまぁ、もちろんやることやってたわけ。でも……」 「……」 「……まぁ要するに、あいつは俺を置いてったし、俺もあいつを捨てたし、ただそんだけのことなんだけどさ」    彼は、再びドリンクを口に含む。   「オイ、何とか言えって。恥を忍んでこんな話してんだぞ。笑うか慰めるか、どっちかにしろ」 「……いや~、拗らせてますねぇ」 「第一声がそれかよ」    千里は、ストローから口を離す。吸い上げていた炭酸ジュースが、グラスの中へと舞い戻る。   「要するに、未練たらたらってことっスね」 「んー、まぁ、そういうことになんのかな? お前マジで口外すんなよ」 「別にいいんじゃないんスか。先輩にそこまで言わせるなんて、よっぽどいい女だったんでしょうよ」 「いい女、かぁ。まぁなぁ……」    彼が時折見せる憂いを帯びた表情は、過ぎ去ったものへ思いを馳せていたからなのか。そう考えると、妙に納得がいく。   「先輩がそんなだから、歴代彼女の誰とも長続きしないんスよ」 「そういうもんか?」 「そうっス。先輩の心は、その最初の人に奪われちゃってんスよ。彼氏が自分を見てくれてないとか、心ここにあらずなとことか、女子は鋭いんですぐ勘付きますよ。なのに先輩、告られるとすぐ付き合うし、そういうとこホント悪癖っスわ」 「いや、その辺は俺も自覚あんだよ。反省して、恋愛は諦めようかと思ってたとこ」 「っスね。それがいいと思います。相手にも悪いし」 「だよな~。どうせ本気になれねぇのに、貴重な時間を無駄遣いさせるようなもんだもんな。だったらもっと身になることして、ふさわしい相手見つけてほしい……って、あいつにも同じこと思ったんだっけ」    どこまでも罪作りな男だ。よそへ向いた彼の心を、どうにかしてこちらへ向かせたいと、そんなことを思わせてくる。だけど結局、こちらを向かせることはできない。彼の心は、過ぎ去ったものに囚われたままなのだ。   「つーか、俺のことばっか聞いてくるけど、お前の方はどうなんだよ?」 「は? セクハラっスか」 「いやちげーし! つーか、それで言ったらさっきのお前の発言の方がド直球でセクハラだよね? フツーに、彼氏とかできねぇのかって話なんだけど! 俺なんかと飯食ってる場合か?」 「そういうことなら、サークルの方で少し」 「あ、そうなんだ」 「なんもないっス」 「何なんだよ」 「ま、小規模なサークルなんで。サークル内恋愛はなるべく控えたいなーと」 「本音は?」 「イケてるメンズがいない」 「やっぱそうなんのか」 「いや~、フツーに付き合う分には何も問題はないんスけどね~。恋愛となるとまた別っていうか。先輩もうちのサークル入りません? 週一で星見るだけっスよ。簡単でしょ」 「天文研だっけ」 「そうそう。あたしみたいなド素人でも、てか今でもド素人なんスけど、結構楽しめてますよ」    この先もきっと、彼は誰のものにもならない。誰も、彼の心を手に入れることはできない。誰にでも平等に優しく、その懐に簡単に迎え入れるのに、その実、心の一番柔らかいところには、誰の手も決して触れさせない。そんな男を手に入れることのできる者がいるとするならば、最初に彼の心を奪った、その人だけだろう。  だが、一度失った恋が、時を経て戻ってくるなんて、そんなことがあり得るだろうか。十代の、ほんの短い間の恋を、十年経っても大切に温めているような人間が、果たして他にいるだろうか。だから、彼はきっと永遠に、過去に囚われたまま。そこから一歩も動けない。そう、思っていたのに。

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