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第二章 第一話 女

 金曜の夜。瞬介の帰りが遅い。大きなプロジェクトがようやく終わり、今夜はその打ち上げの飲み会らしい。呼ばれたらすぐに迎えに行けるよう、家で待っていた七瀬だが、テレビの音声が心地よいBGMになり、いつの間にかうとうとしていた。  呼び鈴の音に飛び起きた。今、何時だ。まさか朝ではあるまいな。急いで玄関へと駆けていくと、ガチャリとドアノブが回った。   「ほーら、先輩。しっかり立って。いい加減重いっスよ」    知らない女の声がする。金具を軋ませドアが開く。蛍光灯の黄ばんだ光が照らし出す。酔い潰れて足元も覚束ない瞬介の赤ら顔と、彼に肩を貸す女の姿。   「夜分遅くにすいません。同居人の方ですよね? 水島の先輩が飲み過ぎちゃって、一人じゃ帰れない感じだったんで、お届けに上がりました」    思いがけない光景に一瞬怯んだ七瀬だったが、咄嗟に瞬介の腕を掴み、女から引き剥がすようにして抱き寄せた。こちらへもたれ掛かってくる体は力が抜けて、ずっしりと重い。こんなものを、この女はよくもここまで運んできたものだ。   「こちらこそ、わざわざ送ってもらって、申し訳ない」 「いいんですよ。あたしも、先輩の新しい家、興味あったし」    やけに気安い雰囲気に、胸がざわつく。瞬介を担ぐので手一杯の七瀬に代わり、女が彼の靴を脱がしてくれる。   「重いっスよね。手伝います」    左右両側から瞬介を肩に担ぎ、廊下を引きずり、リビングまで運んだ。七瀬がソファに寝かせようとすると、女は足を止める。   「ここでいいんですか。ベッドの方が休まるんじゃ」 「いや、ベッドは……」 「あっちが寝室っスか。ドア開けましょうか」    寝室は、今どんな具合だったろうか。シーツは皺くちゃで、ベッド周りにゴミが散乱しているのではないか。そもそも、ゴミ箱がもういっぱいだったかもしれない。使用済みのティッシュやなんかが、山のように積み上がって……   「ここでいい。ベッドが汚れる」 「……そうですか」    無事ソファに寝かされた瞬介は、肘置きへと足を投げ出し、気持ちよさそうにいびきを掻く。ネクタイが緩み、襟元に覗いた首筋まで赤い。  女は、寝室の方をじっと見つめ、しかしすぐに表情を変えると、「お暇しますね」と踵を返した。七瀬も急いで見送りに出る。   「本当に、うちのが迷惑かけて、すまなかった」 「いいんですって。あたしが好きでしたことだし。先輩には世話になってるし」    脱ぎ捨ててあったショートブーツを履いて立ち上がる。こちらを振り向き、女は七瀬をじっと見つめた。   「……あなた、先輩の幼馴染だって、聞いてますけど」 「……まぁ、そんなもんだ」 「それで、今も?」 「……?」    女の視線が、蔦のようにじっとりと絡み付く。どことなく責め立てるような、品定めでもするかのような目だ。   「……あんた、帰りは車か」 「ええ、はい。今日は元々飲むつもりなくて、だから先輩のこと送ってこれたんスけど」 「……」 「すいません、長居しすぎました。ただ、一目見ておきたかったんです。あの先輩が最後に選んだ相手が、どんな顔をしてるのか」    七瀬の返答を遮るように、彼女は玄関のドアを開いた。「それじゃ、先輩によろしくです」と言い残して、夜の闇へと消えていく。       「ああ、そいつ。森田千里。俺の後輩」    翌日、瞬介に尋ねてみれば、そうあっさり答えた。   「大学で、三年間? 同じとこでバイトしてて。んで、一昨年だったかな。うちの会社に転職してきて……だからまぁ、結構長い付き合いではある」 「ふーん」 「んだよ、自分から聞いてきといて……つーか、薬取って。水も」 「……」 「えっ、ちょ、聞いてる?」 「はぁ。昨日、ぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきたと思ったら、今度は二日酔いかよ。嫌になるぜ」 「あーも、そういうお小言は後でいくらでも聞くからさぁ……」    瞬介は、ガンガン痛む頭を押さえる。顔色は真っ青だ。仕方なく、七瀬は水と薬を用意してやる。それを飲んで、瞬介は再びソファに横になった。うなだれるようにして、肘掛けに頭をもたれる。   「つーかさぁ、どうせならベッドまで運んでくれてもよくない? スーツだって皺だらけになっちゃったし、なんでここに放置だよ」 「文句あんなら自力で帰ってこい。大体、重くて運べねぇ。ここんとこ、少し太ったんじゃねぇか」 「あ~? そりゃおめーが非力なだけだろ。腰も細せぇし、ケツも小せぇし──ッて」    無駄口ばかり叩く瞬介の鼻を、ぎゅっと摘まんでやった。そのまま七瀬が見下ろすと、瞬介は不思議そうにこちらを見上げてくる。   「んだよ?」 「……なんでもねぇよ。ひでぇ面だと思って」 「だろ? だからもっと優しくして」 「ばーか。自業自得だ」    瞬介が昨夜のように泥酔して帰ってくることは滅多にない。というか、瞬介の酒の飲み方を、七瀬は実はよく知らない。たまの外食で飲んだり、家で二人で飲むこともあるが、そこまでの深酒はしない。する必要もない。七瀬があまり飲まないから、瞬介が合わせてくれているのかもしれない。大概、ほろ酔いのいい気分のまま、夜が終わる。  昨夜は、何があったのだろう。これまでにも何度か、職場の飲み会は経験している。その度に、瞬介は毎回程よく酔ってはいたが、自分でタクシーを捕まえて帰ってきたり、連絡を受けた七瀬が迎えに行ったりしていたのだ。一人で帰れないほどの酩酊状態に陥ったことは、今まで一度もなかった。  よっぽど、昨夜の飲み会が楽しかったのか。一大プロジェクトとやらが、七瀬の思うよりもずっと大きな仕事で、それが終わった達成感と解放感で、ついうっかり飲み過ぎてしまったのか。自らのキャパシティを超えて飲み過ぎるなんて、まるで馬鹿な大学生のすることだ。  瞬介を送ってくれた彼女のことを思い出す。森田千里は、瞬介のそんな情けない姿を知っているのだろうか。大学の三年間、そして今の会社での仕事ぶり。七瀬の知らない瞬介の姿を、彼女はきっと知っている。知り合ってからの年数もそれなりだ。それに、昨夜のあの、やや皮肉めいたような、回りくどい言い回し。考えれば考えるほど、気になってしまう。  彼女を通すことのできなかったベッドルームは、七瀬が思っていたよりも片付いていた。掛布団は乱れていたが、皺くちゃではなかったし、ゴミも散乱していなかった。ゴミ箱は満杯に近かったが、山盛りで溢れそうということはなく、ひとに見せて恥ずかしい寝室ではない。それでも、やはり彼女には見せられない。彼女でなくとも、他の誰にも。   「なぁ~、やっぱ腹減ったかも。なんか作って」 「なんかって何だよ。食欲ないんじゃなかったのか」 「梅干しのっけたお粥とか? いーじゃんよ。じっとしてたら腹減ってきたんだよ」 「ったく、口動かす元気があんなら、てめぇで作れ……」    そう言いつつ、七瀬は冷蔵庫を開ける。

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