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第五話 指環
秋の足音が聞こえ始めてきた今日この頃。それでもまだ、朝の訪れは驚くほど早い。台所で何やらガチャガチャやっているのは、正月ぶりに顔を見せた息子が、食事の支度でもしているのだろう。水島は足音も立てず、静かに台所へ顔を出した。
「朝ごはんですか」
いきなり声をかけられた瞬介は、大袈裟なほどに肩をビクつかせた。振り返り、胸を撫で下ろす。
「んだよ、親父か」
「失礼な。ひとをお化けみたいに」
「気配消してくんの、やめてもらっていいっすか」
「気配なんか消してませんよ」
「いや、消えてたっつの。びっくりするわ」
ぶつくさ文句を垂れながら、瞬介はフライパンに溶き卵を流し入れる。熱したフライパンが音を立てて、卵に火が入っていく。菜箸で軽く掻き混ぜたら、フライパンを軽く振り、卵をくるくる巻いていく。
「なかなかの手際ですね」
「そりゃどーも」
「ついでにウインナーも焼いちゃいましょう」
「いいのかよ? シャウエッセン」
「好きでしょう? お父さん一人じゃ食べ切れないし、君たちが帰ってくると言うので、買ってきたんですから」
もう一つ、フライパンを用意して、コンロに載せて温める。ウインナーを一袋開け、じっくりと焼いていく。
「……ところで、瞬介」
「なにもう。なんもしねぇなら、も少し寝てれば?」
「七瀬くんのことですが」
ウインナーの焼き加減を見守りつつ、手早く綺麗に卵を巻く。忙しく手を動かしていた瞬介だったが、父のその一言に凍り付いた。時まで凍り付いたように思えたけれど、そう感じたのは、おそらく瞬介だけだ。
「そのぉ……仲が良いのは素晴らしいですが、如何せん……激しすぎませんか」
「……」
「というか、彼は大丈夫なんでしょうか。体とか、痛めてないです? 声だってあんなに……」
「……」
「瞬介?」
「……」
「ウインナ焦げてますよ」
溢れ出した肉汁が跳ねて、瞬介はようやく意識を取り戻した。目を開けたまま気絶していた。あまりの惨事に──そうだ、大惨事だ。父親に、昨夜の情事が筒抜けだったなんて。
「瞬介、ウインナーが」
「いや今ウインナーとかどうでもいいし!? ていうか、えっ? 起きてたの? 聞こえてた?」
「そりゃあ、まぁ、同じ家に住んでるんですからねぇ」
「だったらなんなの、その反応は!? もっとこう、あるだろ、いろいろ! 驚くとか!」
「今更驚きませんよ。高校生の頃からじゃないですか」
「なっっ……」
今度こそ、時が止まった。フライパンから皿に盛り付けていたウインナーが、ころんとキッチンのテーブルの上へ転がった。「おや、活きがいい」などと言いながら、父はそれをつまみ食いする。
「うん、やっぱりシャウですね」
「なっ……えっ……知って……?」
「息子のことなんて、ぜーんぶお見通しですよ。その上でね? ちょっと激しすぎるんじゃないかと思うわけです。お父さん、夜中に何度も起こされましたよ。しつこい男は嫌われるって言うし、七瀬くんの方だって、体がおかしくなっちゃいますよ」
「……」
「瞬介? 聞いてますか」
「……」
「……もしかして、嫌がる七瀬くんを無理やり……」
「っなわけねぇから! ちゃんと合意の上だから! あいつだって……!」
瞬介は左手を閃かせ、しかしすぐに下へ下ろした。薬指には指輪がはまっているが、これが何の証明になるだろう。
「悪りぃな。孫の顔、見せてやれそうにねぇよ」
「なんだ、そんなこと」
「そんなことってこたぁねぇだろ」
「そんなことですよ。お父さんは、瞬介が幸せなら十分なんです。お母さんもきっと同じことを言うでしょうね」
「そうかぁ?」
「言います言います。お父さんが言うんだから間違いない」
「そういうもんかね」
「た、だ、し! 夜のあの大騒ぎは何とかした方がいいですね。今住んでるのはアパートでしょう? ご近所トラブルで事件なんて嫌ですよ」
「だーッ、もう! 夜のことはもういいっての!」
再び話を蒸し返そうとした父の話を遮って、瞬介は換気扇を切り、エプロンを外した。
「あっこら、逃げるんですか」
「ちっげーよ、あいつ起こしてくんの! 親父は飯運んどいて」
「人遣いが荒いですねぇ」
そう呟いた父を残して台所を去ろうとすると、呼び止められた。
「瞬介」
「なに」
「一度決めたら最後まで、ですよ」
「……」
父の言わんとするところは分かっていた。瞬介は強く頷き、廊下へと駆け出した。
同性ゆえの壁や苦難も多いだろう。一般に想定される結婚や同棲とは、何もかもが異なるはずだ。その苦悩が、第三者には分かるまい。たとえ父親であってもだ。息子の恋愛事情に、深く踏み込むことはできない。
それでも、いつでも温かく見守っていたい。帰れる家であり続けたい。それが、親としてできる最後の務めだ。親が子を思う気持ちは、三十年経とうと変わらない。
廊下を駆ける足音に、七瀬は目を覚ました。瞬介の実家は、とにかく広い。長い渡り廊下があり、その先の離れに、瞬介の部屋はある。ベッドで眠ったふりをしながら、障子の開くのを待った。
「お~い、そろそろ起きろよ。飯できたぜ」
「ん……」
薄いタオルケットに包まり身動ぎをする七瀬を、瞬介は布団の上から抱きしめた。
「なぁ、起きなって。腹減ったろ。俺は減った」
こちらを覗き込むようにして見つめてくる瞬介を、七瀬は枕に頭を預けたままじっと見上げた。
ふと、目元を影が覆う。確かに差していた朝日が、いきなり陰ってしまったようだ。そうかと思えば、唇が触れる。
深く舌を突き立てられる。口腔内を掻き回される。一瞬にして、寝起きの頭が覚醒した。思い切り跳ね起きると同時に、瞬介を弾き飛ばしてしまった。
「っ、悪い……」
「いや、俺もいきなり悪かったし……」
涙目で額を押さえながら、瞬介は笑った。
思えば、あの濃密な夜が明けて、まだ数時間と経っていない。汗だくで、髪を振り乱して、酷い有様だったと思われるが、目立った汚れは拭き取られていた。服も、裸で眠ったはずなのに、瞬介の高校時代のジャージを着させられていた。思わず匂いを嗅いでみる。やっぱり、懐かしい匂いがした。あの頃の情景が、まざまざと思い返される。
「押し入れに仕舞ってあったやつ。他にいいのがなくてよ。くせぇ?」
「……ううん。好きな匂いだ」
「……あっそ」
瞬介は、照れたように俯いて笑う。
「さーて、んなことより飯だ、飯。立てるか?」
布団を捲られ、腕を引かれた。立ち上がると、胎の奥から昨夜の残滓が溢れ出す。太腿を伝う濡れた感触は、決して気持ちのいいものではないのに、なぜだか胸が熱くなる。すっかり綺麗に洗われてしまったと思ったけれど、この体には、昨夜の記憶が刻まれている。
茶の間のテーブルには、出来立ての朝ごはんが並べられていた。瞬介のお父さんが、炊き立てのごはんをよそってくれる。
「すみません、わざわざ」
「いいんですよ。いっぱい食べてくださいね」
食卓につき、手を合わせていただきますをする。普段はつい蔑ろにしてしまうが、瞬介の実家で、お父さんにも見られていると思うと、少し緊張した。
献立は、一般的な和食といった感じで、ほっとする。焼き鮭、出汁巻き、ウインナー、それに具沢山の味噌汁。漬物も数種類切ってある。
「瞬介の卵焼き、やっぱりおいしいですね。懐かしい」
お父さんがそう言って褒めた。
「毎日食べたいくらいです」
「出張代金払ってくれんなら、作りに来てやってもいいぜ」
「おや、それで毎日帰省してくれるなら、安いものです」
「冗談だっつの」
照れ隠しのつもりか、瞬介は僅かに声を尖らせて、白米をばくばく掻き込んだ。
やはり、これは瞬介の作ったものだったか。道理でほっとするわけだ。実家の味とはまた違うが、食べ慣れた味に気が休まる。
「ところで、七瀬くん」
お父さんが改まった様子でこちらを見つめた。七瀬も箸を置いて向き直る。
「瞬介のこと、よろしくお願いしますね」
「……」
その言葉の意図が分からず、隣に座る瞬介へと視線を移すと、瞬介は金魚みたいに顔を赤くして、白米を詰め込んだ頬をもごもごさせていた。
「至らぬ点の多い、不束な息子ですけれど……」
「……はい。もちろん」
何となく、何を問われているのか分かった。お父さんは安心したように箸を持ち直し、瞬介もまた、七瀬の隣で縮こまりつつ、食事を再開する。彼の左手薬指には、シルバーのリングが光っている。
己の左手に視線を落とすと、薬指の付け根には、昨夜瞬介に噛まれた痕が、まだくっきりと残っていた。血の滲んだ赤い歯型が円を描いて、まるで、運命の赤い糸が絡み付いているようだった。
帰る前に、もう一度実家へ顔を出した。第一の目的は、着物を返すため。第二には──これはまだ、瞬介にも言えない。
瞬介を車で待たせ、七瀬は玄関の呼び鈴を鳴らす。ポケットに仕舞っていた銀の指輪を、薬指へそっと滑らせた。
鍵は開いていた。出迎えてくれたのはやはり祖母で、しかし今日は母の姿もあった。茶の間で煎餅を齧りながら、呑気にテレビを見ている。
「あら、お帰んなさい」
「うん。ただいま」
「悪かったわね、昨日も一昨日も忙しくって。今日がようやくの休みよ、ヤんなっちゃうわ」
そう口では言いながら、母は根っからの仕事人間、猛烈キャリアウーマンだ。昼も夜もなく他人様のために働いて、それを苦とも思わない。母がバリバリ稼いでくれたおかげで、七瀬は何不自由ない生活をし、大学まで出させてもらったのだから、その点では頭が上がらない。
「あんたそれ、その指輪、どうしたのよ」
母は目敏く気がついた。テーブルの上に置かれた七瀬の左手に光るものに。
「これは……」
ここに来て、まだ迷ってしまう。正直に告げるべきか、否か。黙っていた方がいいことも、この世にはごまんと存在する。
「なぁに、どうしたの」
「あ、お母さん、この子がなんか」
着物を干していた祖母が戻ってくる。母に促され、座布団に腰を下ろす。七瀬は拳を握りしめた。汗が冷えて、掌が冷たい。
「実は、おれ……」
ここで言葉に詰まってしまった。母と祖母は顔を見合わせる。
「な、なによぉ、怖い顔しちゃって。そんなに改まったお話?」
「……母さんも、やっぱり……孫の顔とか、見たい? よな」
「孫……?」
母と祖母は再び顔を見合わせ、やがて母が口を開いた。
「あんたねぇ、何も無理して結婚とか、しなくていいんだからね? 孫の顔だって、そりゃ見られたら嬉しいけどさ、別にどっちだっていいんだから」
「……」
「あたしはてっきり、その指輪の話されるのかと思ったんだけど? 誰かとおそろいにしてるって話じゃないの?」
「……ああ。おそろいにしてる」
「なーんだ、よかったじゃない。そういうの、交換できる相手ができたのね」
「……けど、結婚はできないし、子供もできねぇ。それでもいいか?」
「なによそれ、いいも悪いもないわ。結局はあんたの人生だもの。あんたの好きに生きりゃあいいのよ」
祖母の淹れてくれたお茶を、七瀬はようやく一口含んだ。渇いた喉に染み渡る。
「大体ね、そんな細かいこと気にしてどうすんのよ。あたしがそんなこといちいち気にするような、小さい女だと思ってるの?」
「……だよな。分かってたさ」
「でしょう? 母の図太さを、少しは見習ってほしいものだわね」
「こら、香苗。あんたのは図太いなんてもんじゃないんだから、胸を張るんじゃありません」
「なによもう、お母さんたら細かいんだから」
「何が細かいもんですか。全く、あんたって子は本当に……」
もう何度も聞かされた話だ。母は大学に通いながら未婚で七瀬を産んだ。父親のことは何も知らないが、母の方が男を捨てたのだと、かつて聞いたことがある。母は乳飲み子を実家に預け、大学を卒業した。数年にわたる研修を終え、ようやく一人前の医師として働き始める頃には、七瀬はもう小学校へ上がる年になっていた。
こんな破天荒な生き方をしてきた母が、七瀬の人生に首を突っ込むはずがないのだ。分かってはいたが、言葉にして肯定されて、心底安堵した。
祖母も祖母で、母のわがままに散々付き合わされた経験があるからか──二十歳そこそこの娘が相手も分からないまま出産し、降って湧いた赤ん坊の世話まで丸投げされたのだから、その苦労は計り知れない──七瀬がどんな生き方を選ぼうと、今更驚きはしないのだろう。
ピンポン、とチャイムが鳴る。祖母が出迎え、「あら瞬ちゃん」との声がするので、七瀬も玄関へと急いだ。
「バカ、待ってろって」
「だって遅ぇんだもん」
二人がそんなやり取りをする中、母も玄関へ顔を出し、「あら、水島さんとこの。でっかくなったわねぇ」などと言うので、瞬介も若干緊張気味に「ご無沙汰してます」などと言いながら、ぺこりと頭を下げる。
帰り際、あれこれと土産を持たされた。貰い物の菓子だとか、盆飾り用の果物だとか、いらないと言うのにどっさりと。増えた荷物を車に積み込み、いよいよ帰ろうというところで、祖母に呼び止められた。
「ナナちゃん」
少しばかり躊躇う様子を見せつつも、はっきりと口を開く。
「瞬ちゃんと仲良くねぇ」
「………うん」
ああ、この人相手に隠し事はできない。誰よりも、何よりも、いつだって七瀬のことを一番に気にかけてくれる。昔と変わらない、笑い皺の寄った優しい眼差しを向けられて、七瀬も頬を綻ばせた。
「またすぐ帰るよ」
「元気にやりなさいねぇ」
「ばあちゃんも、体気をつけて」
「ちょっとちょっと、母には何もないの? 母には」
「母さんも、働き過ぎて体壊すなよ」
「まっ、この子ったら言うようになって」
瞬介の運転で、生まれ育った故郷を離れる。家の前の道路まで出て手を振ってくれていた二人の姿は、角を曲がってすぐに見えなくなった。窓を閉めて、七瀬は助手席に深く座り直す。
母や祖母が、何をどこまで理解してくれたか、定かではない。けれど、今はこれでいい。祖母にとっての祖父や、母にとっての自分のような、これこそはと信じられる大切な存在が、七瀬のそばにもいるということ。それさえ伝えられれば、十分だ。
「悪かったな」
「んあ? なにが」
「これのこと」
指輪をはめた左手を閃かせると、瞬介はこちらへ一瞥を寄越した。
「これからは、なるべく外さねぇようにするから」
「おー……」
七瀬の言葉に、瞬介は気のない返事。案外、何とも思っていなかったのか。
妙な勘繰りを避けたくて、家以外では指輪を外すようにしていた。出先では、財布やポケットに仕舞って持ち運ぶようにしていた。そのことについて、瞬介は何も言わなかった。今の今まで、気づいているのかどうかすら、そんな素振りも見せなかったのだ。だから、何とも思っていないのだろうと思っていたが……
指の付け根にリング状に噛み痕を残すなんて、わざわざそんな回りくどいことをしたのは、何か思うところがあるからではないのか。その気持ちに応えたいから、七瀬はこんな恥ずかしいことを言う羽目になっている。
「あー、そのことなんだけど……」
「なんだよ。はっきり言え」
「……別に、無理して着けなくてもいいぜ」
「……」
「あっ、違うからね? 外しててほしいわけじゃなくて、ただほら、それのせいで面倒なこともあるだろうし」
「……まぁ、そりゃあな」
「だろ? まー、ずっと着けててくれりゃ嬉しいけど、絶対そうしろとまでは言わねぇし、求めねぇよ。ただ、お前が大事に持っててくれりゃ、そんでいいんだ」
「ならやっぱり、職場では着けらんねぇな」
「いいよ、そんで」
「けど、お前といる時くらいはな。せっかくのペアリングだ」
七瀬は左手を太陽にかざす。フロントガラスに差し込む光が乱反射して、幾筋もの光彩を放つ。指先までもが輝いて見えた。
「……今度、もっといいやつ買う? ダイヤモンドとか」
「バカ、また貯金が減るだろうが」
「そうだけどさ」
「シルバーだって、綺麗だろ。こんなに眩しく光ってんだ」
角度を変えれば、キラキラと色を変えて煌めいた。七瀬は目を細め、指先を見つめる。
「それに、他にもたくさん、貰っちまってるからな」
「そんなに色々プレゼントしたっけ?」
「ああ。抱えきれねぇくらいだ」
「そんなに!?」
瞬介の運転で、二人で暮らす町へと帰る。カーラジオのボリュームを上げれば、懐かしのシティポップが流れ始める。まるで門出を祝うように。
片道約一時間半の道のりだが、前日の寝不足が祟ったか、二度も休憩を挟み、最終的には運転手を交代して、それでようやく家に帰った。
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