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第三話 十五夜
「あのぉ、七瀬?」
「……」
「怒っ…てる…?」
恐る恐る尋ねた瞬介の問いに、七瀬は何も答えずに、空になったグラスをテーブルに置いた。
今夜は十五夜。月見酒に誘ったはいいが、さっきからずっとこの調子だ。七瀬の方にも、何か言いたいことがありそうなのに、それを何も言わないで、酒だけがどんどん減っていく。
差し出されたグラスに、瞬介は何も言わず酒を注ぐ。今夜のために用意した、しかし今夜だけで飲み切るつもりはさらさらなかった一升瓶が、既に残り半分だ。
「大丈夫? ペース早くない?」
「……うん」
生返事で、七瀬はまた酒を呷る。昔と比べて立派になった喉仏が、ごくごくと上下に動く度、白い肌が火照っていく。朱を注いだように、首筋も頬も鼻先も、黒髪に覗く耳たぶも、赤く色づいている。冴えた月影に照らされて、光と闇がコントラストを作り上げ、より一層神秘的に、瞬介の目に映るのだった。
このところ、七瀬の様子がどことなくおかしいことには気づいていた。取り立ててどうということはないのだが、何やら考え事をしていたり、上の空だったりすることが増えた。その理由に、思い当たることがないではない。
不可抗力とはいえ、職場の人間に二人の関係が露見したこと。会社の飲み会で酔い潰れて後輩に送ってもらったのも相当な醜態であるが、それ以上に七瀬が気にしているのは、やはりこの一点だと思う。最近は家で指輪を外すことはないので、二人の関係が彼女に知られたことに、七瀬も気づいているだろう。
もちろん、簡単なフォローは入れておいた。彼女とは旧知の仲であり、他人のプライバシーを吹聴するような女ではないこと。とはいえ、それで納得してくれたかどうかは自信がない。七瀬が公私の区別をはっきりさせておきたがっていることは知っているし、実際、この関係について突っ込んだことを聞かれても、瞬介とて全てを赤裸々に話すことはできないのだ。
空のグラスに、七瀬は自分で酒を注ぐ。前にペアで購入した、江戸切子のロックグラス。赤銅色が瞬介の、瑠璃色が七瀬の。何度か使ううちに、何となくそう決まった。
なみなみと注がれた透き通る清酒に、丸い月がゆらゆら揺れる。月影の揺蕩う水面ごと、七瀬は一気に飲み干して、再び酒瓶へと手を伸ばす。瞬介はさすがにそれを制し、七瀬の手から離すように、酒瓶をこちらへ引き寄せた。
「その辺にしとけって。この前の俺みたいになっちゃうぞ」
「……このまえの?」
「そ。二日酔いは辛いぜ~? 頭痛いし、気持ち悪いし」
「……」
あの月と同じ、真ん丸の大きな瞳が、じっとこちらを見下ろしてくる。背後から月の光が差し込んで、七瀬の輪郭だけを明るく縁取り、闇の中へと際立たせる。
これはもう、完全に酔っ払いの目だ。今まであまりそんな素振りは見せなかったが、結構面倒くさい酔い方をするタイプらしい。
「なぁ、ほら。お酒じゃなくて水飲め、水」
ミネラルウォーターを取ろうと目を離した隙に、酒瓶を奪われた。七瀬がこんな下品な真似をするのは実に珍しいのだが、瓶から直飲みで酒を呷り、そしてそのまま、酒くさい口でキスを寄越してくる。
「おま、マジでどうしたん──」
濡れた唇が合わさって、ぬるりと舌が入ってくる。と同時に、口に含んでいた酒を、唾液ごと流し込まれる。舌を絡めるごとに、酒のにおいが鼻に抜ける。キスだけで酔いそうになるが、決してアルコールのせいだけではない。
「っ、は………」
酒の混じった唾液が糸を引いて滴る。月影を浴びて煌めく様が、やけに淫靡で困った。なんて、余韻に浸っている間もない。すっかり酩酊しているらしい七瀬が、今度は瞬介の足元にひざまずいた。そしてあろうことか、股間に顔をすり寄せてきたのである。
「ちょっ、とまっ、ストップストップ!」
瞬介が制止しようとするが、七瀬は聞く耳を持たない。スウェットの上から、まだ何の反応も示していないそれを探り当て、ぱくりと噛み付いてくる。ふうふうと息を荒げながら、唇だけでそれを食まれる。こちらを見上げる甘い眼差しに絡め取られて、瞬介ももう止まれない。
「……中、入ろっか」
とはいえ、ベランダでおっ始めるわけにもいかず。窓だけ閉め、電気をつける余裕はなく、リビングのソファへとなだれ込んだ。ソファに座る瞬介の足元に七瀬がひざまずく。寛げた股座に顔を埋める。
「お前からこんなんするなんて、珍しいじゃん」
決してうまいわけでもなかろうに、まるでアイスキャンディーでも頬張るように、いきり立ったそれをしゃぶる。ねっとりと舌を這わせて、じゅぶじゅぶと卑猥な音を立てながら、それを恥ずかしがる素振りも見せず、ひたすら夢中で舐めしゃぶる。
瞬介の、聞き分けの悪い癖っ毛とは違う、定規を当てたような七瀬の黒髪。そっと指を通して梳き、くしゃくしゃと撫で回す。半ばほど伏せられた瞳が、掻き乱された前髪の隙間にちらりと覗く。夜露を纏ったような黒い睫毛に縁取られた双眸は、あのグラスに落ちた月影よりも、どろりと溶けてしまっている。
酔うとこんな風に乱れるのか。今まで意図的にセーブしていたのはそのためだったのかと、今更ながら思い至る。
「……なぁ」
「ん……」
「上乗って? 自分で挿れてみて」
「……」
僅かばかり甘い声でのおねだりに、七瀬はむくりと立ち上がり、下を脱ぎ捨てた。ソファを軋ませ、瞬介の膝の上へとまたがる。両肩に手を置き、抱きつくようにして上体を支えながら、ゆっくりと腰を落とす。
「ぁ、ア……」
「っ……ナカ、すげぇ濡れちゃってっけど」
「ン、ん……」
「自分で準備したの? 期待してた?」
「っ……」
七瀬は息を呑み、小さく頷く。酔うとこんなにも素直になるのかと、なんだか少しおもしろくない。
「自分で動いて。いいとこ当ててみ?」
「……」
瞬介の誘導に、七瀬は僅かに腰を浮かしたが、それきり動きを止めてしまった。瞬介が腰に手を回せば、びくりと震えて抱きついてくる。
「んだよ。もう疲れたの」
「……おま、えは……」
「ん?」
耳たぶを甘く食まれる。熱に浮かされた声が、心細げに震えている。
「おまえは……おまえも……おれだけ、だよな……?」
ずっと聞き出したかった七瀬の本音が零れた瞬間だ──と感じた。この機を逃すまいとして、瞬介は七瀬を優しく抱きしめる。
「お前だけだぜ? ずっと」
「……ずっとって?」
「ず、ずっとはずっとじゃん? 今も昔も……生まれた時から」
「……」
「う、生まれた時は言い過ぎだよな~? えーと、つまり、お前と会った時から、今日までずっと、お前だけだよ」
「……」
「お、お前だけってのはつまり、あれよ? 好きンなったのも、こういうことすんのも、お前だけって意味で……」
瞬介に抱きつき、首筋の辺りに顔を埋めたまま動かなかった七瀬が、ふと顔を上げる。至近距離で視線が絡む。てっきり、泣いているのかと思っていた。実際、両の瞳は涙を湛えて潤んでいたが、それ以上に、嬉しいのを隠し切れないような微笑みを湛えていたのだった。
「七瀬?」
「……だよな」
「なっ、えぇ……」
だったら、何をあんなに不安そうにしていたのか。何をそんなに安堵しているのか。このところ無口だったり、上の空だったりしたのは、それが理由ではないのか。だが、そんな疑問を口にするよりも先に、七瀬が腰を躍らせ始めたものだから、冷静な思考はあっという間に消し飛ばされる。
「ちょっ、何なんだよマジで、情緒不安定にも程があんぞ」
「ッ、は……おれだって……」
「あ?」
「おれだって、お前だけだ……」
ギシギシとソファが軋む。普段は瞬介の役目だが、今夜は七瀬が軋ませている。飛沫を散らして腰を振り立てる様は、日の光よりも月の光がふさわしい。どこまでも淫靡で、いやらしくて、それなのに美しくも思えてくるから不思議だ。
「男も、女も……この体は、お前以外、誰のことも知らねぇんだ」
「七瀬……」
「キス、だって……」
ちゅっ、と可愛らしい接吻を送られる。ついさっきは舌を絡めるキスをしたのに。
「俺だって、お前としかしたことねぇよ? もちろん、キスも」
瞬介が口を開ければ、舌を出して吸い付いてきた。唾液を混ぜ合う濃厚なキスをしながら、きつく抱きしめ合う。
お互いに、的外れな心配をしていたのかもしれない。十年前なら、こんな風に素直にはなれなかっただろう。しかし、それで一度失敗している。お互いに苦い経験があるからこそ、同じ轍は踏まないよう、言いたいことはなるべく素直に伝えておきたいのだ。
翌朝、当然といえば当然で、七瀬は二日酔いでぐったりしている。もう昼近いのに、ベッドから動けない。
「だから言ったじゃん、飲みすぎだって」
「……言ったか?」
「言いました~。ほら、水飲め。薬も。ったく、俺ってばホント優しい彼氏だよな」
「……悪い」
「なんでそうしおらしくなんの。もっと図々しくあれよ、いつもみたいに」
「普段から図々しくはねぇだろ……」
七瀬は、瞬介の差し出した痛み止めを、コップ一杯の水で飲み干した。溜め息をつき、こめかみを押さえ、再びベッドへ横になる。
「というか、お前が散々揺さぶったせいで、余計酒が回ったんじゃねぇか?」
「揺さぶったって何だよ。そもそもはお前が先に乗っかってきたんだろ? 珍しくフェラなんか」
明け透けなことを言えば睨まれた。
「いや、俺は嬉しかったんだけどね? お前が積極的なことってあんまないし。でもあれだね。もし酔ったせいでああなったってんなら、お前これから外で酒飲まない方がいいわ」
「なんでんなこと決められなきゃならねぇ」
「だって危ないじゃん。あんなふにゃふにゃになっちゃってさ、誰彼構わず誘ってたりしたら事だぜ」
「……てめぇは、おれが誰彼構わず誘うような尻軽だと思うのかよ」
「ちがっ、ちげぇよ? 今のは言葉の綾っていうかぁ……お前がああいう面見せんのは、俺だけでいいんだよ」
「……」
「なぁ、ゴメンってば」
寝返りを打ち、そっぽを向いてしまった七瀬の背中に寄り添うように、瞬介も布団に潜り込んだ。
「来んな。せめぇ」
「狭ぇわけあるかよ。普段これで寝てんだろうが」
抱きしめると、七瀬は形ばかり嫌がって身を捩り、つま先を絡めてきた。
「足冷たいね?」
「あっためてくれよ」
「やっぱわがままじゃん」
「好きだろ」
「まぁね」
七瀬がこちらを振り向いてキスをせがんでくるので、瞬介はそれに応えようとして、直前で思いとどまった。
「……つーか、お前は結局何を気にしてたわけ?」
「あ…?」
「いや、キスもエッチもお前としか経験ないって、当然伝わってると思ってたのに、今更気にしてくるから」
「……」
七瀬は気まずそうにして、また向こうを向いてしまう。
「俺はてっきり、あいつ──森田に、俺らの関係バレたのを気にしてんのかと思ってたけど」
「そこは全然気にしてねぇよ」
「だよな?」
じゃあなんで、と言いたいのを我慢して、七瀬の言葉を待つ。
「…………お前が……」
「ん?」
「……おれと会うまでの間に、彼女とか……作ってたからだろ」
「……」
一瞬のうちに思考を巡らす。お互い、別れてからの十年間のこと、特に恋愛に関することは、あまり話さずにいた。もちろん、話す内容がなかったからということもあるが、いくら気持ちが伴わないとはいえ、元カノが何人かいるなんて話、七瀬には知られたくなかったのだ。
「お前それ、誰に聞いた?」
情報源は一人しかいないのに、ついそんなことを言ってしまった。七瀬はそっぽを向いたまま、しかしあまり棘のある言い方ではなく答える。
「やっぱりそうなのか」
「なっ、てめ、カマかけかよ!」
「いや、はっきりとは聞いてねぇが、あの後輩の子が、そんなようなことを言ってたからな。それで……」
「そんなようなって?」
「……忘れた」
「オイ」
瞬介がずっこけると、七瀬は肩を震わせ笑った。
「なぁ、妙なこと吹き込まれたりしてねぇよな?」
「妙なことってなんだ」
「いや~、それはさぁ~」
「……なぁ」
瞬介の腕の中で寝返りを打ち、七瀬がこちらを向く。
「おれはお前の、最後の相手なんだろ?」
「最後っつーか……最初で最後っつーか……」
「お前も、おれの最後の……最初で最後の相手だ」
「おま、急に恥ずかしいこと言うじゃん」
尖らせた唇に吸い寄せられるようにキスをすると、「酒くせぇ」と顔を顰められた。
「ちゃんと歯ァ磨いたか?」
「み、磨いたし! お前こそ二日酔いで酒くせぇぞ」
「ふん。試してみるか」
「望むところよ」
なんて、どこか喧嘩腰ながらも、再び熱いキスを交わす。七瀬の方が積極的で──昨夜と違い酔っているわけでもないのに──勢い余って馬乗りになってくる。こんな体勢でキスを交わして、そのまま止まれるはずもない。まだ昼間だというのに、早くも昨夜の延長戦だ。
*
瞬介が七瀬に操を立てていたことは分かっていた。「お前としたくてファーストキスを取っておいた」という彼の言葉を疑ったことはない。ただ……
ただ、キスなどしなくても体の関係を持てる男なのだ、彼は。それを、七瀬は身をもって知っている。そこに来ての、後輩女子のあの発言。「先輩が最後に選んだ相手」とは、要するに、過去にも相手がいたということになる。そして、彼女はそれを知っている。
こんな些細なことで不安になるなんて、我ながら馬鹿らしい。普通に考えれば分かるはずだ。瞬介がいくら、キスなどしなくても体の関係を持てる男だとしても、それは相手が七瀬だからできたことであり、あんな訳の分からない関係を受け入れてくれる女など、他にいるはずがない。
実際、確かめてみれば拍子抜けだ。当たり前に分かっていたことであっても、改めて言葉にして確かめて、杞憂が杞憂だったと確認してみて、安堵した。文字通り、互いが互いにとって唯一無二の存在であること。過去も現在も、未来においてもそうであること。たとえ言葉にしなくとも、疑いようもなく信じられる。
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