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第37話

大丈夫、とジュセルが言っているのに、ケイレンは濡れたままのジュセルの手を取ってじっと見つめ、傷がないかを確認してからジュセルを脇に退かせて、割れた器の破片を拾い上げごみ箱に捨てた。 そしてまたジュセルに向かい合い、椅子に座るように促すと心配そうに声をかける。 「座って。ごめんな、急に声をかけて」 「いや、俺もぼーっとしてたから‥ケイレンは悪くないよ」 ジュセルはそう言って、笑顔を作ってみせた。その作り笑顔を見ながらケイレンは少し眉を寄せ、そっとジュセルの頬を撫でた。 「‥ビルクからの荷物、届いたぞ。なんか結構大きな包みだった。はい、これが荷物、こっちがジュセルへの手紙」 破裂玉が入っているらしき包みと封がされたままの手紙をジュセルに渡してくれる。包みの中には厳重に包まれた破裂玉が三つと、編み紐のようなものが一本入っていた。 手紙の封を切って開くと、ビルクの意外に細い文字が目に飛び込んでくる。 いきなり”裏”に狙われるとは、お前も出世しちまったな。 破裂玉の払いはいつでもいいから無くなったらすぐに言え。材料が揃い次第、作れるだけ作っておいてやる。 編み紐は毒の感知剤を浸み込ませてある。怪しそうな食い物や飲み物があったら紐に垂らせ。毒なら白く色が抜ける。 『黒剣』にしっかり守ってもらえ、どうせあれのとばっちりだろうからな。 どうしてもつらくなったら訪ねて来い。どんな手を使ってでも逃がしてやる。 必要なことしか書いていない、さっぱりとしたビルクの手紙は、ジュセルの心を温かく包んだ。思わず涙が滲みそうになるのを、ぐっと唇を噛んで堪える。 「ビルク、何か言ってたか?」 横からケイレンが優しく声をかけてくる。ジュセルは目をごしごし擦って答えた。 「破裂玉、いつでも作っておいてくれるってさ。‥それからこの編み紐、毒を感知するらしい。‥腕に巻いとくかなあ」 「俺が巻いてやるよ」 ケイレンはそう言って編み紐を手に取り、ジュセルの左手首に巻いてやった。濃い蒼色の編み紐は、ジュセルの瞳の色によく似ている。ケイレンは結んでやった編み紐をさすった。 「いいな、この色。ジュセルの瞳の色にそっくりだ。俺も作ってもらおうかな」 「どうしてもつらくなったら、ビルクが逃がしてくれるって」 ぽつりとジュセルがそう零した言葉を耳にして、ケイレンはピタリと手を止めた。指先がじわりと震えた。 「‥逃がす、って」 「国外だろうな。‥ビルク、大陸中に知り合いがいるから」 この広大なサッカン大陸には、ほかにもたくさんの国がある。隣接しているカルカロア王国にルビニ公国、これらの国や峻険な山脈の向こう側にあるタッカリー共和国にサンリンザン共同統治国などなど。 知り合いが多くいるというビルクが手を回せば、イェライシェンの裏請負会(ダスーロ)の手が届かない他国に避難することもおそらく可能なのだろう。 「逃げたい‥?ジュセル」 静かなケイレンの言葉を聞いて、ジュセルは弱々しく首を振った。 「アミリや、サンカ、リーエンを置いてはいけない。一つ実(ふたご)はまだ小せえし、アミリだって一人で生きていくのはきっと大変だ。‥家族のためにも、‥もう少し俺はここで踏ん張りたい」 そう言うジュセルの顔を、ケイレンはじっと見つめた。真摯なその視線を受け止めきれず、ジュセルは俯いた。 「‥‥とは言っても、ケイレンの世話にならないと俺なんてすぐに殺されちゃうだろうけどな‥」 ぼそぼそとそう言いながら、ジュセルは苦笑した。ここに残りたいと思っても、今のジュセルには自分で自分の身を守ることもできない。ケイレンに守ってもらわなければ、すぐにも吹き飛ばされる命なのだ。グーラのことを語るときのアニスやケイレンの目が、グーラという暗殺者がなかなかに難しい相手なのだと物語っていた。 「‥ジュセル」 少しの逡巡を見せてから、ケイレンはおずおずとジュセルの手を握った。大きなケイレンの手にくるまれた自分の手が、やけに小さく見える。 「‥守ってもらうことに引け目を感じなくていい。ジュセルには何にも落ち度のないことなんだから。‥‥多分、費用のこととかも気にしてると思うけど、それも気にしなくていいんだ。全部俺のせいなんだから。幸い金はあるし、絶対にジュセルを守ってみせるから」 「‥うん、ありがとう。心苦しいけど‥ごめん、俺は今はケイレンに頼るしかないからさ‥」 「謝らないでいいから、ジュセル」 ケイレンはジュセルの手を握っていない方の手を伸ばして、その顎にかけて顔を上に向かせた。不安げなジュセルの蒼い瞳が、ケイレンの目の中に入ってくる。 そのまま優しく頬を撫でた。 「本当に‥ちゃんと請負人(カッスル)として独り立ちするはずだったのに、俺のせいでこんな状況になってしまって‥申し訳ないと思ってる」 「‥ケイレンこそ謝るなよ」 ジュセルは頬を撫でるケイレンの手を止めた。 「‥それに、はっきりしてるのは、俺が狙われてる、っていうことだけだ。本当にケイレンのせいで俺が狙われたかどうかなんて、まだわからないだろ?」 「ジュセル‥」 ケイレンからすれば、タイミングからいってもおそらく十中八九、ハリスの仕業に違いないのだが、そうやって公平に見てくれるジュセルがまた余計に愛おしく思える。複雑そうなケイレンの顔を見て、ジュセルは無理やり笑顔を作った。 「俺も、色々できることは頑張るから言ってくれ。普段の生活のことでも。‥それから」 今度はジュセルが少しためらう様子を見せた。それを見たケイレンは、ん?と小首をかしげてその先を言うようにジュセルを促した。ジュセルは何度か言葉をのみ込んでから、ようやく言った。 「しばらくは、俺に‥好きって言わないで。そんなこと言われたら多分、甘えてしまうし、緊張感がなくなる。だから‥この件が片づくまでは、俺に対して、あんまり‥そういうことを言わないでほしいんだ。‥俺も、自分の気持ちを強く持っていたいから‥」 その言葉を聞いたケイレンは大きく目を見開いて黙り込んだ。ジュセルの頬から離された手を、編み紐を撫でていた手に重ねる。ケイレンの両手に包まれた手首は、とても頼りなく儚いものに感じられた。 こんな細い手首のジュセルが、自分なりにこの状況に対応しようと頑張っている。そのためにケイレンの言動を改めてほしい、と言われたことは理解できた。 そして、おそらくそうすべきだということも。この状況で、ジュセルの気持ちも欲しいというのは、かなり酷なことであるということも、理解はできる。 ケイレンは、自分の感情をこれまではっきりと表すことのない人生を送っていた。カルカロア王国から亡命してきた二人の(シンシャ)は、ケイレンの養い親だった。王国から亡命してくる途中、野獣に襲われて死んでいた(シンシャ)の横に倒れていたのがケイレンだったのだ。 拾われたときには五歳ほどだったケイレンは、自分の産み(シンシャ)のことはほとんど覚えていない。養い子にしてくれたカルカロア人の(シンシャ)たちは、元退異騎士であり過酷な環境を生き抜いてきたせいか寡黙で、二人とも寡黙で厳しかった。生き抜くことに必要なことは教えてくれたが、親子らしい情のやり取りというものはあまりなかった。 そもそもケイレンの養い親たちは子果を授からない選択をした伴侶であったので、幼子にどう接していいのかわからない部分があったようだった。自分が大人になって思い返せば、ただ不器用で表現がうまくなかっただけで、養い親たちに親子の情がなかったとは思えない。 それでも、子どもの頃のケイレンが、常にどこか寂しさを抱いたまま過ごしてきたことも事実だった。 寂しい、構ってほしい、撫でてほしい、笑いかけてほしい。 言葉にできないまま幼いケイレンの心の奥でくすぶっていた願いは、それが一番欲しい時に叶えられることはなかった。 だから、ケイレンは大人になっても自分の感情をうまく表すことができなかったし、相手の欲しい反応を示すこともできなかったのだ。

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