1 / 4

ノイズ 1話(雪広)

___第一章 ノイズ___ 会議室の空気は、空調が入っているはずなのに冷えていた。 長いテーブルの向こうに並ぶのは、年度末の報告書を手にした役員と管理職たち。誰一人として、背もたれに深くもたれかかってはいない。 鷹宮(たかみや)雪広(ゆきひろ)が入室した瞬間から、この会議はもう始まっている。 「では、始めましょう」 淡々とした声だった。 声を張る必要はない。ここにいる全員が、自分の言葉を一語一句聞き逃さないことを、雪広は知っている。 プロジェクターに映し出される数字を、彼は一瞥するだけで把握した。 「__まず、南地区第三校」 指先で資料を軽く叩く。 「前年比マイナス8パーセント。原因分析は?」 指名された男が、わずかに喉を鳴らす。 「……競合塾の増加と、地域人口の__」 「それは原因ではありません」 雪広は、途中で遮った。 「それは言い訳です。環境変化は全校舎で同条件。結果が出ていない理由を、あなた自身の判断と施策で説明してください」 会議室に、紙をめくる音だけが落ちた。 男は黙り込む。 雪広は待たない。 「結論が出ないのであれば、こちらで判断します。第三校は来期で統合。責任者は交代。異論は?」 誰も口を開かない。異論が出ないことを、最初から織り込み済みだった。 「次」 冷たい、しかし理路整然とした進行。 感情は一切混じらない。 別の資料に視線を落とす。 「人件費。__この数字、何を守るために残した?」 若い役員が答える。 「現場の士気を考慮し__」 「士気は成果が出た時に上がるものです」 ぴしゃり、と空気が切れる。 「成果のない組織を、情緒で維持する理由はありません。教育は慈善事業ではない」 誰かが息を呑んだ。 雪広はそれを気に留めない。 「不要なものは切ります。切らなければ、全体が腐る」 視線だけで、全員を見渡す。 「覚えておいてください。私は人を切っているのではない。無駄を切っているだけです」 そこに、善悪はない。 あるのは、合理か否か。 「以上です」 会議は、開始から30分で終わった。 椅子が引かれる音が、どこか安堵を含んで響く。雪広は資料を閉じ、立ち上がった。 誰とも目を合わせない。 部下たちが口々に「お疲れさまでした」と言う中、彼はそれに応じることなく会議室を出た。 エレベーターの扉が閉まる。 残るのは、無音に近い空間。 雪広は腕時計に視線を落とし、淡々と次の予定をなぞった。 休息の項目はない。 不要なものは、最初から入れない。 感情も、同じだ。 少なくとも、そうしてきた。 ◇ 本日の予定は、すべて予定どおり消化した。__そう思った、その瞬間。 腹の奥で、小さく音がした。 ……空腹だ。 雪広は眉一つ動かさず、エレベーターを降りた。外に出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。 三月の終わり。日が長くなり始めてはいるが、風にはまだ冬の名残がある。 駅前の喧騒を避け、一本裏の通りへ入る。目指す場所は決まっていた。 古びたパン屋。 看板の文字は色褪せ、ショーウィンドウも華やかとは言えない。 それでも、雪広は迷わず扉を押した。 小さなベルが、控えめに鳴る。 「いらっしゃいませ」 カウンターの向こうで、年配の夫婦が顔を上げる。何度も見た光景だ。言葉を交わす必要はない。 雪広は陳列棚に視線を走らせ、目的のものを見つける。 丸く、ずっしりとしたブール。 フランスパンの一種だが、細長いそれとは違う。 余計な装飾はない。皮は硬く、持つと確かな重みがある。 それだけでいい。 雪広はそれを一つ取り、トレーに載せた。 「ちょっと、聞いてるのかい」 低く、苛立った声が店内に響いた。 視線を向けると、カウンターの前で一人の男が腕を組んで立っている。老夫婦に詰め寄るような態度だった。 「昨日買ったパンが硬すぎたんだよ。食べられたもんじゃない」 店主は困ったように言葉を探す。 「申し訳ありません……うちは、そういうパンなので……」 「だからそれがおかしいって言ってるんだ!」 声が一段、上がる。雪広は、トレーを持ったまま動かなかった。 助けるつもりはない。ただ、耳に入ってきてしまっただけだ。 雪広は、聞こえないほどの小さなため息を落とし、静かに口を開いた。 「説明は、もうされていますよ」 自分の声が、思ったよりはっきりと響いたことに、雪広は一瞬だけ意外に思った。 男が振り返る。 「……なんだ、あんた」 「この店が提供しているのは、元々そういう商品です。硬さも含めて品質。事前に表示もされています」 「だから__」 「気に入らなければ、買わなければいい」 遮る声は低く、冷たい。 「購入後に仕様を理由に責任を求めるのは筋が通らない。それ以上続けるなら、業務妨害になります」 男は舌打ちを一つ残し、店を出て行った。 店内に、静寂が戻る。 「……ありがとうございました」 店主が深く頭を下げる。 雪広は軽く頷き、会計に進もうとした。 「__すみません」 少し低めで、落ち着いた声がした。 店の奥から、一人の青年が出てくる。 エプロン姿。 年配の二人とは明らかに違う、若い。 雪広は、わずかに目を細めた。今まで、この店で見たことのない顔だった。 「騒がしくして、申し訳ありませんでした」 青年はそう言って、軽く頭を下げる。 無駄のない動作。 声も態度も、過剰ではない。 「……問題ありません」 それだけ答え、雪広はブールを受け取る。 紙袋越しにも、その重みが伝わってくる。 店を出る直前、ふと背後を振り返った。 青年は、もう奥へ戻ろうとしていた。 理由はない。ただ、今まで知らなかった存在が、視界に入り込んだだけだ。 それだけのはずだった。

ともだちにシェアしよう!