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ノイズ 1話(雪広)
___第一章 ノイズ___
会議室の空気は、空調が入っているはずなのに冷えていた。
長いテーブルの向こうに並ぶのは、年度末の報告書を手にした役員と管理職たち。誰一人として、背もたれに深くもたれかかってはいない。
鷹宮 雪広 が入室した瞬間から、この会議はもう始まっている。
「では、始めましょう」
淡々とした声だった。
声を張る必要はない。ここにいる全員が、自分の言葉を一語一句聞き逃さないことを、雪広は知っている。
プロジェクターに映し出される数字を、彼は一瞥するだけで把握した。
「__まず、南地区第三校」
指先で資料を軽く叩く。
「前年比マイナス8パーセント。原因分析は?」
指名された男が、わずかに喉を鳴らす。
「……競合塾の増加と、地域人口の__」
「それは原因ではありません」
雪広は、途中で遮った。
「それは言い訳です。環境変化は全校舎で同条件。結果が出ていない理由を、あなた自身の判断と施策で説明してください」
会議室に、紙をめくる音だけが落ちた。
男は黙り込む。
雪広は待たない。
「結論が出ないのであれば、こちらで判断します。第三校は来期で統合。責任者は交代。異論は?」
誰も口を開かない。異論が出ないことを、最初から織り込み済みだった。
「次」
冷たい、しかし理路整然とした進行。
感情は一切混じらない。
別の資料に視線を落とす。
「人件費。__この数字、何を守るために残した?」
若い役員が答える。
「現場の士気を考慮し__」
「士気は成果が出た時に上がるものです」
ぴしゃり、と空気が切れる。
「成果のない組織を、情緒で維持する理由はありません。教育は慈善事業ではない」
誰かが息を呑んだ。
雪広はそれを気に留めない。
「不要なものは切ります。切らなければ、全体が腐る」
視線だけで、全員を見渡す。
「覚えておいてください。私は人を切っているのではない。無駄を切っているだけです」
そこに、善悪はない。
あるのは、合理か否か。
「以上です」
会議は、開始から30分で終わった。
椅子が引かれる音が、どこか安堵を含んで響く。雪広は資料を閉じ、立ち上がった。
誰とも目を合わせない。
部下たちが口々に「お疲れさまでした」と言う中、彼はそれに応じることなく会議室を出た。
エレベーターの扉が閉まる。
残るのは、無音に近い空間。
雪広は腕時計に視線を落とし、淡々と次の予定をなぞった。
休息の項目はない。
不要なものは、最初から入れない。
感情も、同じだ。
少なくとも、そうしてきた。
◇
本日の予定は、すべて予定どおり消化した。__そう思った、その瞬間。
腹の奥で、小さく音がした。
……空腹だ。
雪広は眉一つ動かさず、エレベーターを降りた。外に出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。
三月の終わり。日が長くなり始めてはいるが、風にはまだ冬の名残がある。
駅前の喧騒を避け、一本裏の通りへ入る。目指す場所は決まっていた。
古びたパン屋。
看板の文字は色褪せ、ショーウィンドウも華やかとは言えない。
それでも、雪広は迷わず扉を押した。
小さなベルが、控えめに鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、年配の夫婦が顔を上げる。何度も見た光景だ。言葉を交わす必要はない。
雪広は陳列棚に視線を走らせ、目的のものを見つける。
丸く、ずっしりとしたブール。
フランスパンの一種だが、細長いそれとは違う。
余計な装飾はない。皮は硬く、持つと確かな重みがある。
それだけでいい。
雪広はそれを一つ取り、トレーに載せた。
「ちょっと、聞いてるのかい」
低く、苛立った声が店内に響いた。
視線を向けると、カウンターの前で一人の男が腕を組んで立っている。老夫婦に詰め寄るような態度だった。
「昨日買ったパンが硬すぎたんだよ。食べられたもんじゃない」
店主は困ったように言葉を探す。
「申し訳ありません……うちは、そういうパンなので……」
「だからそれがおかしいって言ってるんだ!」
声が一段、上がる。雪広は、トレーを持ったまま動かなかった。
助けるつもりはない。ただ、耳に入ってきてしまっただけだ。
雪広は、聞こえないほどの小さなため息を落とし、静かに口を開いた。
「説明は、もうされていますよ」
自分の声が、思ったよりはっきりと響いたことに、雪広は一瞬だけ意外に思った。
男が振り返る。
「……なんだ、あんた」
「この店が提供しているのは、元々そういう商品です。硬さも含めて品質。事前に表示もされています」
「だから__」
「気に入らなければ、買わなければいい」
遮る声は低く、冷たい。
「購入後に仕様を理由に責任を求めるのは筋が通らない。それ以上続けるなら、業務妨害になります」
男は舌打ちを一つ残し、店を出て行った。
店内に、静寂が戻る。
「……ありがとうございました」
店主が深く頭を下げる。
雪広は軽く頷き、会計に進もうとした。
「__すみません」
少し低めで、落ち着いた声がした。
店の奥から、一人の青年が出てくる。
エプロン姿。
年配の二人とは明らかに違う、若い。
雪広は、わずかに目を細めた。今まで、この店で見たことのない顔だった。
「騒がしくして、申し訳ありませんでした」
青年はそう言って、軽く頭を下げる。
無駄のない動作。
声も態度も、過剰ではない。
「……問題ありません」
それだけ答え、雪広はブールを受け取る。
紙袋越しにも、その重みが伝わってくる。
店を出る直前、ふと背後を振り返った。
青年は、もう奥へ戻ろうとしていた。
理由はない。ただ、今まで知らなかった存在が、視界に入り込んだだけだ。
それだけのはずだった。
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